もう一つのクリスマスツリー

2017年12月10日主日礼拝「もう一つのクリスマスツリー」イザヤ11:1~10 佐々木俊一牧師

「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。・・・エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。」

■今年はクリスマスツリーが二つあります。クリスマスツリーがここにあるだけでクリスマスという感じがしますし、嬉しい気持ちになりますし、夢や希望を与えてくれるような気がします。でも、このクリスマスツリーは聖書の中には出てきません。キリスト教がイスラエルから西へ向かってヨーロッパに広がっていく中で、クリスマスにはツリーが飾られるようになりました。一年中緑色の葉をつけている木が、『永遠の命』を象徴するものとして用いられるようになったのです。

 実は、『木』というのは、聖書の中でも非常に意味深いものなのです。聖書の初めの書にも終わりの書にも、『木』が出てきます。『善悪の知識の木』とか、『いのちの木』などはよく知られています。『善悪の知識の木』について言うと、神様はエデンの園のどの木の実を取って食べてもよいけれども、善悪の知識の木の実だけは食べてはならないと言いました。しかし、人はその約束事を破って善悪の知識の木から実を取って食べてしまいました。その結果、罪のいろいろな問題が人間の世界に入ってきたのです。善悪の知識の木は、ただ単に善悪についてだけの知識に限定されているのではないと私は思います。神様が持っている知識を、人間も神様のようにそれらの知識を知ることができるようになったのだと思います。人間の探求心や知識欲は貪欲なほどに次から次へと隠された神様の知識を発見してきました。たとえば、生物の体の仕組みを知ることによって、現在、遺伝子操作までできるようになりました。使い方を誤れば、大変なことが起こるでしょう。人間は神様の持っている知識をたくさん得たのです。しかし、それらはまだほんの少しにすぎません。神様のすべての知識に到達するためには、1億年あっても足りないでしょう。神様の知恵と知識は私たちにとっては無限大です。人間の世界に罪が入る前は、そんなに多くの知識がなくても人間は幸せだったと思います。しかし、罪が入った後、人は幸せになるためにいろいろな知識を得ようとしてきましたが、世界のすべての人が幸せになることはとても難しいのが現状です。

 また、旧約時代には、大事な約束事や出来事の記念として、『木』を植える習慣がありました。旧約聖書に、その習慣が見られます。この習慣は、現在に至るまで、世界中の人々の生活の中にも見られる習慣です。エルサレムに、『ヤド・バシェム』というホロコースト記念館があります。建物の外にはイスラエルの英雄を記念した木が植えられています。その中に、ひとりの日本人を記念した『木』もあります。その人は、『杉原千畝(すぎはらちうね)』といいます。彼は、第二次世界大戦中、リトアニアで外交官として働いていました。その時に、ナチス・ドイツに追われていた6000人のユダヤ人にビザを発給し、命を救った人として知られています。彼は、クリスチャンですが、イスラエルでは正義の人として尊敬されています。現代のイスラエルにおいても、記念のために『木』を植える習慣があるのです。

■聖書に出てくる『木』には、神様からの大切なメッセージが隠されています。今日の聖書箇所にも、『木』に関わることばが出て来ます。「エッサイの根株」です。「エッサイ」とは、ダビデの父親の名前です。ダビデはイスラエルで2番目に王様になった人です。ダビデは、イスラエルの王をたくさん輩出した王家の始まりでした。しかしながら、それから1000年後、ダビデの子孫であるヨセフとマリヤの時代になると、王家の家系としての繁栄はまったく見られませんでした。

 そして、「根株」とは「切り株」のことです。切り倒された木の根っこと残りの部分です。英語の聖書、Today’s English Versionには、「ダビデの王室の家系は、切り倒された木のようである」と書かれています。しかし、その後に、「その根株から新芽が生え出るように、ひとりの新しい王がダビデの子孫に起こる」と書かれています。『新芽』とは、イエス・キリストのことであり、『新しい王』とは、イエス・キリストのことです。イエス・キリストは、切り倒された木のようになっていたダビデの子孫、ヨセフとマリヤの家族の長男として育てられました。(実際には、聖霊によってマリヤはみごもりました。神なるお方が人としてこの地上に来るために、マリヤのおなかにやどり、ダビデの家系の中に現れたのです。)イエス・キリストは、「とこしえの王」として神の国を治めることになっています。そのことについては、イザヤ9:6,7に書かれていますし、他にも多くの箇所に記されています。

■イザヤ9:6「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は、『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」 この預言のことばは2017年前に成就しました。けれども、その後の部分、7節 「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、裁きと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」この部分は、まだ成就していません。これから成就するのです。

 神なるお方、イエス・キリストは、人となってこの地上に来られました。イスラエルの人々は、この方がとこしえに、正義をもってイスラエルを治めてくれるのだと期待していました。でも、その期待は裏切られてしまいました。イエス・キリストは十字架にかけられて、いとも簡単に殺されてしまったのです。ですから、ユダヤ人の人々にとっては、イエス・キリストが救い主であるということは受け入れがたいことなのです。彼らにとって、イザヤ9:6の預言は、イザヤ9:7の預言と同様にいまだに成就していないのです。

 聖書には(イザヤ55:9~11)神様の思いは、人の思いよりもはるかに高く、神様の計画は、人の期待するものとは、必ずしも同じでないことが語られています。イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられたことは、イスラエルの人々が望んでいたこと以上の意味がありました。イエス様が十字架の死によって何を成し遂げられたのか、簡単にお話ししたいと思います。

 イエス様は、人がみな幸せになるためにこの地上に来られました。どのようにして人に幸せを与えることができるのでしょうか。イエス様は、人の罪の身代わりとして、十字架に死んで罰を受けてくださいました。信じる者は、キリストによって幸せにされます。また、信じる者は、人を幸せにする者に変えられます。そして、自分も幸せになり、人も幸せにするという良い習慣は、世代から世代へと伝えられていきます。これは、神様の祝福の一つの形です。私もその祝福を受けた者のひとりであることを、神様に感謝しています。

■聖書に出てくる『木』には、神様からの大切なメッセージが隠されていると、先ほど言いました。聖書の中で、十字架は、『木』と表現されている箇所があります。それゆえに、十字架は、『幸せを与える木』と言うことができるでしょう。イエス様がこの地上に来られた理由は、地上の幸せのためだけではありません。とこしえまでも幸せが続くために、来られたのです。また、それは、イスラエルの人々だけが幸せになるためではありません。幸せが全人類に及ぶように、イエス様はこの地上に来られたのです。そして、十字架にかかって死にました。しかし、キリストは十字架にかかって死んで、3日目によみがえられました。それは私たち人間にとって、とても素晴らしい出来事です。なぜならば、そのことによって、死は終わりでもなく失望でもなく、その先に希望があることを示してくださったからです。

 イエス様は、神なるお方であるのに、馬小屋で生まれて、飼葉おけに寝かされました。イエス様は「いのちのパン」と言われています。ですから、馬のえさを入れる飼葉おけに寝かされたことには、何か意味があるように思わされます。そして、私には、この飼葉おけが、まるで罪のためのいけにえをささげる、祭壇にも見えるのです。アブラハムの一人息子のイサクが祭壇に寝かされた時のこととオーバーラップするところがあります。

 イエス様は、私たちの幸せのために、その幸せが世代から世代へと及んでいくために、さらに、死という絶望から永遠の命の希望を与えるために、この地上に来て、十字架にかかって死なれました。十字架は、私たちにとって、『幸せを与える木』なのです。

■イザヤ11:1に、「その根から若枝が出て実を結ぶ」と書かれています。

イザヤ9:6は、成就しました。救い主はお生まれになったのです。預言はそれで終わりではありません。続きがあります。イエス様は、また、この地上に戻って来ることを約束し、そして、天に戻って行かれました。イエス様がこの地上に戻って来られる時、それは、イザヤ9:7が成就する時であり、実を結ぶ時なのです。私たち人間はまだそれを見ていません。これから見ることなのです。

 今日の聖書箇所であるイザヤ11:1~10に書かれていることの中にも、もうすでに起こったこととまだ起こっていないことがあります。6節から9節はとても不思議な箇所です。こんなことが本当に将来起こるのだろうかと思ってしまいます。ここに書かれていることがその通りに起こるのかどうかはその時になってみなければわかりません。しかし、ここには、罪によって混乱した弱肉強食の世界ではなくて、争いや戦いのまったくない平和な世界を見ることができます。10節にあるように、エッサイの根、イエス・キリストが来られる時には、それと共に、平和な世界も来るのです。イエス・キリストが『平和の君』と言われている所以です。

 もう一つのクリスマスツリーは、『イエス・キリストの十字架』です。それは、私たちに本当の『幸せを与える木』なのです。地上の幸せのためだけではなく、とこしえまでも幸せが続くために、イエス・キリストの十字架は、信じる者に永遠のいのちを与えることができます。それでは、お祈りします。