土台+どのように建てるか

2017年11月26日(日)主日礼拝 

「土台+どのように建てるか」ルカ6:46~49 佐々木俊一牧師 

■世界中で自然災害の規模が大きくなっているように思います。ハリケーンや台風も巨大化しています。イラン・イラクで地震があったかと思ったら、その後、中国や韓国でもありました。今まで聞いたことのないところでも地震が起こっています。将来の核廃棄物の処理場ではないかと疑われている幌延町でも、最近、地震がありました。大地震に備えて、地震に強い家が建てられたり、補強されたり、対策がとられています。しかしながら、耐震対策が十分とされていたはずの建物が崩壊したりもしています。耐震偽装の問題がまだあるのでしょうか。耐震偽装と言うと、日本では、2005年12月に大事件が発覚しました。一つの事件をきっかけにして、他にも次から次へと偽装の実態が明らかにされていきました。問題のあるマンションやホテルがテレビに映ったのを見ました。ところが、大変立派な建物なので本当に取り壊しが必要なのだろうかと思えるくらいでした。見た目では判断できません。けれども、実際に地震が起こったときに、それが明らかになるのです。

  聖書の中に、家や建物について、たとえ話が出てきます。今日は、その中から、ルカの福音書6:46~49、加えて、Ⅰコリント3:10~15のみことばをとおして学びたいと思います。 

■今日読んでもらったところを見ると、人は2つのグループに分けられています。一つは、イエスのことばを聞いてそれを実行する人のグループ、もう一つは、イエスのことばを聞いてそれを実行しない人のグループです。そして、これら2つのグループの人が、2種類の家を建てた人にたとえられています。

① 岩の上に家を建てた人:岩が現れるまで地面を掘り下げました。岩が土台です。その上に家を建てました。洪水になって川の水が押し寄せても家はびくともしませんでした。なぜなら、土台である岩が崩れないからです。イエスのことばを聞いて行う人は、岩の上に家を建てた人のようであると言っています。

② 地面の上に家を建てた人:土台となる岩まで地面を掘り下げる手間を省いて、土や砂の上に家を建てました。土台の無い家です。同じように洪水になって川の水が押し寄せると家はいっぺんに倒れてしまいました。なぜなら、土や砂は簡単に水によって崩れてしまうからです。イエスのことばを聞いても行わない人は土や砂の上に家を建てた人のようであると言っています。

■私たちはどちらを選ぶでしょうか。岩の上に家を建てるでしょうか、それとも、土や砂の上に家を建てるでしょうか。もちろん、岩の上です。岩の上に家を建てるとは、神様のことば、つまり、聖書のことばを聞いたならば、それに従うことです。

  聖書は、私たちを人間として成長させてくれる多くの教えやことばで満ちています。聖書は、世界中の人々にとって大きな祝福です。たとえ、クリスチャンでなくても、聖書の教えや価値観の影響を受けていますし、それらを行うことによって祝福を受けています。多くの人々が、人生の困難の中で、聖書のことばに出会い、励ましと慰めを受け、乗り越えることができました。しかし、聖書のことばの中で、最も重要なこと、土台の中心となっていることとなると、聞いても、それを実行する人は多くありません。土台の中心とは、Ⅰコリント3:10~11に書かれてあります。

「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかのものを据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」

  パウロは、土台とは、イエス・キリストであると言っています。ですから、ルカ6章にあった岩とは、イエス・キリストのことです。さらに、詳しく言うならば、それは、イエス・キリストが人類を贖う(買い戻す)ために、十字架にかかって死んでくださり、3日目によみがえられたという事実です。これが、土台の中心にあるのです。イエス・キリストは、礎石、あるいは、礎の石と言われています。礎石とは、家の柱の下にある土台石であり、柱を支えています。私たちの救いと信仰を支えているのは、イエス・キリストです。イエス・キリストが最も大事なのです。

  土台がイエス・キリストでなければ、たとえ、人生で成功したとしても、洪水がやってくると、見た目が立派に見えた家でも倒れてしまうということになります。

■地面を深く掘り下げることについて

地面を深く掘り下げる作業は、時間もかかれば、労力もかかります。たやすい作業ではありません。骨の折れる作業です。できることなら、省略したい作業です。けれども、土台ができれば、家はほとんど建ったも同然だと聞いたことがあります。ですから、土台をしっかりと築かなければなりません。

  それでは、どうしたら土台をしっかりと築くことができるのでしょうか。私たちには、土台の礎石であるイエス・キリストがすでに与えられています。それだけでよいのかもしれません。しかし、ルカ6:46~49を読むと、神様のことばを聞いて実行することによって頑丈な土台はできるのだと理解できます。先ほども言ったように、頑丈な土台を作る作業は、時間もかかれば、労力もかかります。たやすい作業ではないので、忍耐が必要です。このことについてイスラエルの王、ダビデから学ぶことができると思います。

■ダビデは、信仰者としての生き方において、私たちに有益な導きを与えてくれます。ダビデは、イスラエルの王として成功した人です。しかし、彼の人生はいいことばかりではありませんでした。成功もありましたが、失敗もありました。けっして、順風満帆な人生ではありませんでした。10代までは平穏に過ごしていたようですが、その後は、命を脅かされるほどの試練の連続であり、常に戦いの生活でした。また、ある時は、自らの罪によって、神様からの取り扱いがあったり、その後、家庭不和に陥ったり、親族の裏切りがあったり、波乱万丈の人生を送りました。

  ダビデから学ぶことは、どんな時にも彼は神様から離れず、神様を安息の場とし、神様とともに歩むことを選んだことです。彼が大きな罪の中にあった時でさえ、神様にしがみついて神様から離れようとはしませんでした。彼は悔い改めて、神様に立ち返り、再び神様に従って歩み始めました。こうして、ダビデは頑丈な信仰の土台を築いていったのです。その土台の上に、ダビデは心から神様に仕え、神様にささげた多くのことがあります。詩篇に残るダビデの歌もその中の一部でしょう。

  頑丈な土台を築くために必要なことは、どんな時もイエス様の救いから離れないことです。ある時には、悔い改めが必要でしょう。その時は、悔い改めて、再び、神様に従って歩み始めるのです。

  これまで、頑丈な土台を築くと言うことについてお話してきました。次にその土台の上にどのように家を建てるのかについてお話ししたいと思います。

■Ⅰコリント3:10に、「どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。」とパウロは言っています。私たちには、土台であるイエス・キリストがすでに与えられています。他の土台に変えることはできません。ですから、私たちは、土台であるイエス・キリストにふさわしい家を建てなければなりません。どのように建てるかについて私たちそれぞれが注意しなければならないのです。

  そして、Ⅰコリント3:12~15でパウロはこのように言っています。「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」

  この箇所は、同様に比喩的な表現になっています。「どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。」とパウロは言っていましたが、それは、12節に書かれていることと関わりがあるのではないでしょうか。私たちがイエス・キリストを救い主と信じると、次の行動に出ます。人々の前で、「イエスは私の主です。」と告白するのです。こうして、私たちは、聖書のことばに従って、イエス・キリストという土台の上に家を建て始めるのです。ある人は、金や銀や宝石で家を建て、ある人は木や草やわらで家を建てます。これは何を表しているのでしょうか。解釈は複数あると思います。どの解釈も断定することはできません。私が思うには、人として、クリスチャンとして、どのように生きたのか、どのように主に仕えたのかと言うことなのではないかと思います。14節を見ると「報い」とありますから、それに対しては何かご褒美があるのでしょう。しかし、15節で見る人には報いはありません。でも、救いはあります。大変な目に会って救われたという感じです。救いは、報いではなく、恵みです。イエス・キリストを信じる者皆に与えられる恵みです。働きや行ないに対する報いではありません。この箇所は非常に意味深長な箇所だと思います。厳しい印象を受けるので、できれば、聞くのも話すのも避けて通りたいところではあります。しかしながら、このような箇所を目にするとき、私の場合は、何か身の引き締まる思いがします。

  また、このような箇所を解釈する場合、この手紙の背景や誰に宛てて書かれたものなのかを知ることも必要でしょう。この手紙はギリシャのコリントという都市にあった教会に宛てて書かれた手紙です。当時、コリントは何十万という人々が暮らす大都市でした。そこは商業が盛んで経済的に潤っていました。しかし、偶像礼拝の問題や不道徳の問題が多いところでもありました。パウロの手紙を通して、コリントの教会にはどのような人々が集っていたのかがある程度分かるのではないかと思います。たとえば、Ⅰコリント6:9~11を読むならば、コリントの教会は私たちの想像を超えた人々の集まりということになります。現代の治安の悪い世界中の大都市にも匹敵するような様子をイメージすることができると思います。そのような人々に向かってさえ、パウロは、キリストを礎石とし、頑丈な信仰の土台を築き上げ、その上にどのような家を建てるのかをよく考えるように導いているのです。こう考えると、神様はけっして厳しいお方ではなくて、何とかしてどんな人々をも救おうとしておられる、愛と忍耐のお方であることがわかるのではないでしょうか。

■キリストによって義とされた私たちにとって、神様は父であり、いつでも神様に祈ったり、賛美したり、自由に交わることが許されています。たとえ、私たちが悪いことをしてしまった時でさえ、私たちは神様に見捨てられることはありません。しかし、イエス・キリストを土台として歩んでいる者は、赦しと回復と建て上げのプログラムの中にあることも覚えなければなりません。ダビデがそうであったように、罪を犯してしまった時には、神様のきびしい取り扱いがある場合があります。しかし、それは、見捨てることが目的ではなく、回復と建て上げが目的であることを覚えなければいけません。私たちにとって、神様はむやみに厳しいお方ではありません。私たちは、神様に信頼し、私たちの救い主であるイエス・キリストを土台にしてしっかりと神様につながって、神様に仕えて行きたいと思います。それでは、お祈りします。