みんな恵みの中

2017年10月8日主日礼拝「みんな恵みの中」Ⅰペテロ5:12 佐々木俊一牧師

「私の認めている忠実な兄弟シルワノによって、私はここに簡潔に書き送り、勧めをし、これが神の真の恵みであることをあかししました。この恵みの中にしっかりと立っていなさい。」Ⅰペテロ5:12

■来年2月、平昌で冬のオリンピックが行なわれます。そのことが最近、話題になることが多くなってきているように思います。早いもので、ソチオリンピックからもう4年になろうとしています。先日、中学生時代の同窓会に出席しました。その同窓会も4年に一度のペースで行なわれるので、次の年にはいつも冬のオリンピックがあります。

 オリンピックにおいては、メダルを獲得できる人とできない人がいます。ほとんどの選手はできません。それでも、各国で勝ち抜いてきた選手たちは、日々体を鍛え、心を鍛え、時には食べたいものも食べず、したいこともしないで練習に励んで本番に備えます。オリンピック選手として出場するためには、幾多の困難を乗り越え、多くの犠牲を払わなければなりません。ある選手が以前こんなことを言っていました。「やっと終わった。これでゆっくり休める。」それまでの練習が相当きつかったのだと思います。メダルは取れなかったけれども、やりぬいたという満足感があるように思いました。

 私たちの人生も、ある意味、一つの競技のようなものかもしれません。山あり谷ありの大変なことの多い人生の中で、クリスチャンとして生き抜いていくための戦いがあります。ある時には、そのことのために犠牲を払わなければなりません。けれども、人生の終わりに近づいた時に、人生をふりかえって、「やっと終わる。これでゆっくり休める。」と思えるならば、最高ではないかと私は思います。この世の金メダルは取れないとしても、自分はできることはやったという満足感があるならば、そして、神様から金メダルを頂けるのだという期待感を持てるならば、それは、とてもよい人生の終わり方だと思います。

■今日は、「恵み」についてお話ししたいと思います。以前、「恵みの下」というタイトルでお話したことがありました。イエス・キリストを信じる人々は、その信仰によって、この恵みの下にあるのです。恵みの下にある幸いとはどういうものでしょうか。私たちが律法の下にあるならば、私たちは律法によって裁かれ、罪の報いを受けなければなりません。けれども、私たちが恵みの下にあるならば、律法によって裁かれることはありません。なぜならば、罪の報いのすべてを救い主イエス・キリストが代わりに受けてくださったからです。恵みの下にある者はみな、罪赦され、神の子とされ、永遠のいのちを受けるのです。

 私はイエス・キリストを信じてバプテスマを受けたとき、自分はもう罪をおかさなくなるだろうと思っていました。ところが、初めのうちは良かったのですが、そのうちに、以前と変わらない罪の思いや否定的な感情・思索が再び湧いて出て、思い悩むようになりました。もしかすると、自分は救いを受けていないのかもしれないと思いました。そんな不安を抱えながら、私のクリスチャン生活は過ぎていきました。そのうちに、そんな不安を感じているのは私だけではないということがわかってきました。

 イエス・キリストを信じることによって、私たちが完全に罪をやめることができればよいのですが、現実はそうではないようです。クリスチャンになったからと言って、古い性質である罪が自分の内から完全になくなるわけではありません。しかし、御霊によって新しく生まれた者として、その古い罪の性質に従う責任も義務もないのだというとらえをきちっとしておくことが大切だと思います。そうして私たちは、新しい歩みへの方向転換を何度も繰り返しながら、変えられていくように導かれているのです。私たちは、神の恵みを本当に理解して、この恵みの中にしっかりと立つべきです。また、私たちみなが、この恵みを受けて、その中に立っているのだということを知る必要があります。自分だけが、あるいは、自分たちだけが、この恵みの中にいるのではありません。イエス・キリストを信じているすべての人々が、この恵みの中にいて少しずつ成長しているのだということを覚えていただきたいと思います。

■ローマ14:4を見てみましょう。「あなたはいったい誰なので、他人のしもべを裁くのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」

 ローマの教会には、いろいろな背景をもった人々が混在していました。偶像礼拝の中で育ってきたローマ人やギリシャ人、律法の中で育ってきたユダヤ人、自由人もいれば、奴隷もいました。多種多様の人々が教会に集っていたのです。ですから、いろいろな意見があり、いろいろな考え方がありました。そのため、互いにぶつかることもあったでしょう。

 オープン・ドア・チャペルにおいても、オープン・ドア・チャペルでバプテスマを受けて、そこで信仰生活を送り続けて来た人もいれば、他のバプテスト教会でバプテスマを受けてそこで信仰生活を送った後にオープン・ドア・チャペルに来た人もいます。また、福音派、ルーテル派、長老派、OMF、日本基督教団など、いろいろなところからここに集められました。福音の中心については共通の認識を持っていますが、たぶん、細かいことを言うなら、それぞれに考えや主張があるのではないかと思います。神学的なことだけではありません。男性と女性の違いによっても、国の違いによっても、生まれ育った環境や人生経験によっても考え方が違うことがあります。しかし、そこで、自分の、あるいは、自分たちの考えが一番正しいのだとそれぞれが言い始めるなら、教会が壊れるのは時間の問題です。故意に教会を壊したいと思っている人は誰もいないと思います。自分のやっていることがわからなくてやってしまった結果、壊れてしまった教会は少なくありません。新約聖書に出てくる教会は、そのようなことが危惧される問題のある教会ばかりです。パウロもペテロも本当に大変だったと思います。

 意見や考え方が違うだけで、お互いに裁き合う方向に向っていく傾向があります。けれども、私たちにとってこのようなときにこそ、神のみ声に聞くべきですし、学ぶべきことがあるのです。たとえ、意見や考え方の違いがあったとしても、神様は両者をご自身のしもべとして、また、恵みの中にある者として立たせたいのだということを、ローマ14:4から理解していただきたいと思います。

■Ⅰペテロ5:9「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」

 ペテロは、悪魔のことをリアルな霊的な存在として、私たちに注意を与えています。でも、私たちは悪魔に注目する必要はありませんし、神経質になる必要もありません。ただ、神様に注目し、神様の恵みの中に立ち続けるべきです。そして、私たちが注意しなければならないのは、ローマの教会やコリントの教会のクリスチャンに見られたような、意見の違いや考え方の違い、争い、ねたみ、憤り、高ぶりなど、そのようなことで悪魔に用いられないようにするということです。ですから、オープン・ドア・チャペルにおいては、次の二つのことをお願いしたいと思います。

①すべての人との間に平和を保つこと(ローマ12:18):そのために努力を惜しまないでほしいと思います。教会において、すべての人とお互いに平和な関係を保つことは、恵みの下にある者が立つべき正しい位置です。

②お互いに愛し合うこと(イエス様の命令):まずは、お互いに赦し合うことであり、お互いに受け入れ合うことです。「お互いに」ということが大切です。クリスチャンの間では、一方的であってはなりません。「お互いに」です。これもまた、恵みの下にある者が立つべき正しい位置です。

 誰一人として欠点のない完全な人間などいません。ですから、腹を立てることもあれば、責める思い、赦せない思いになることもあるでしょう。しかし、腹を立てても、それを続けてはいけません。誰かを責める思いがあったとしても、誰かを赦せない思いがあったとしても、それを続けてはいけません。できる限り早くストップすべきです。続けるならば、ローマの教会やコリントの教会のように、自分も教会もだんだん壊れて行きます。そこは、恵みの下にある者が立つべき正しい位置ではありません。恵みの中に立つ人々にふさわしい場所があります。そこは、神様から赦しを受け取る場所であり、私たちが誰かを赦す場所でもあります。みんなが神の恵みの中に立てるように、私たちは、互いの間に平和を築き、互いの間に愛と赦しを実践することを、さらに学ぶ者でありたいと思います。それでは、お祈りします。