わたしについて来なさい

2017年9月24日(日)主日礼拝「わたしについて来なさい」ルカ5:27~32 

                                 佐々木俊一牧師 

  今日は、取税人レビの姿を通して、「献身」と言うことについてお話ししたいと思います。

■ルカ5:27~28 「この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、『わたしについて来なさい。』と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」

  ここに出てくるレビという取税人は、後のマタイです。彼をとおして、マタイの福音書が書かれました。当時、ローマ帝国はイスラエルの国を支配下に置き、国中に取税人をおいて、税の徴収を行なっていました。ところが取税人たちは、その立場を利用して、上乗せをして税の取り立てを行ない、私腹を肥やしていました。ここに登場するレビも、そうした取税人のひとりで、人々から嫌われていたようです。しかしイエスは、そんなレビに、「わたしについて来なさい」と声をかけました。すると彼は、何もかも捨てて、イエスに従ったと書かれています。

■この状況の中に自分を置いてみましょう。もしも、自分がイエスに、「私について来なさい。」と言われたら、それも、仕事中に、たとえば、学校で生徒の前で授業をしている時に、イエスが来られて、目を留められて、「わたしについて来なさい。」と言われたとしたら、何もかも捨ててイエスの後について行くでしょうか。私たちにとっては、非常に非現実的な出来事のように思えてなりません。もしかすると、レビはこの時すでにイエスについてすごい評判を聞いていたのかもしれません。あるいは、ちょうどその前に、中風で寝たきりの人をイエスが癒してあげたという出来事が起こっていますから、その出来事にレビは衝撃を受けていたのかもしれません。「わたしについて来なさい。」と言われて、何もかも捨てて後について行くのには十分な動機付けが用意されていたのかもしれません。

■「わたしについて来なさい。」と言われたのは、レビだけではありません。他に、ペテロとペテロの弟のアンデレや、ヤコブとヤコブの弟のヨハネも、同じことを言われました。そして、同じように、『すべてを捨てて』ついて行ったと書かれています。彼ら4人は漁師でした。漁によって、生活の糧を得、家族を養っていました。彼らはその仕事を辞めて、イエスについて行きました。仕事を辞めた後、家族がどうなったかについては書かれていません。しかし、その後も家族と関わり続けた形跡は聖書の中に見ることができます。すべてを捨ててついて行くということは、現実的に家族をも巻き込んでしまう大きな出来事です。しかし、そのことが、イエスに従うためには家族を捨ててもいいのだということを言っているのではありません。『何もかも捨ててついて行く』ということについて、私たちが受ける印象と、実際に意味するところは、異なっているように思います。

  イエスがなそうとしていたことは、弟子たちを教え、訓練し、イエスと同じように働きができるように備えさせることでした。そのためには、イエスと一緒に過ごし、イエスと一緒に働きをする必要がありました。ですから、彼らは、仕事を辞めて、家族から離れる必要があったのです。そのようにして、彼らはイエスの神学校に入ったのです。  

■現代においても同じなのでしょうか。私は同じではないと考えます。私たちは、仕事を辞めなくても、家族から離れなくても、イエスについて行くことができると思います。イエスがこの地上におられたときには、弟子たちは、イエスと共に行動をしなければ、イエスから学ぶことができませんでした。イエスがエルサレムに行けば、彼らも行かなければなりませんでした。ですから、当然、仕事を辞めなければなりませんでしたし、家族から離れなければなりませんでした。

■しかし、今は違います。ヨハネ14:16~17にはこのように書かれています。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」 そして、ヨハネ14:26には、「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」とあります。

  ここでは、聖霊について書かれています。神は唯一なるお方です。しかし、私たちの頭でとらえきれるお方ではありません。私たちの信じる神は唯一ですが、父・子・聖霊の三位一体なる神です。その聖霊が、この地上においては、イエスに代わって私たちを導き、教えてくださるお方なのです。そのお方は先ほどの聖書箇所によるとどこにいると言ってましたか。「あなた方と共に住み、あなたがたの内におられる」と書いてありました。

  弟子たちはイエスの行くところどこへでもついていかなければなりませんでした。しかし、今、私たちは、私たちが行くところどこにおいても聖霊が共におられるのです。つまり、どこにいても、私たちは導かれることもできれば、教えられることもできるのです。弟子たちがイエスによって導かれ、教えられていたように、私たちは、聖霊によって導かれ、教えられているのです。そのためには、もちろん、聖書を読むことも、祈ることも、共に礼拝をささげることも必要です。その上で、私たちは、聖霊によって導かれ、聖霊によって教えられ、キリストのみ体である教会の中で共に学び合うことができるのです。

■何もかも捨てて、イエスについて行くというとき、何もかも捨てることが重要なのではありません。つまり、仕事を辞めたり、家族から離れたりすることが重要なのではありません。イエスと一緒に過ごし、イエスと一緒に働くために、仕事を辞めることや家族から離れることが必要だったのです。その目的は、イエスを知ることであり、イエスから学ぶことであり、イエスから訓練を受けることなのです。それが重要なのです。仕事を辞めなくても、家族から離れなくても、イエスを知ること、イエスから学ぶこと、イエスから訓練を受けることができるならば、仕事を辞めることも、家族から離れることも必要はないのです。

■私たちは、ふつう、体の一部であるこの耳でイエス様の声を聞くことはできません。しかし、聖霊によって、心(内面)の耳でイエスの思いを知ることができます。そのようにして、導かれることや教えられることを何よりも優先すべきときに、優先して従うことが、何もかも捨ててイエスについて行くことであると私は思います。ですから、イエスが言われることについては、何よりも優先して従って行きたいと思います。

■ルカ5:29~30 『そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人たちといっしょに飲み食いするのですか。」』 

  レビの周囲には、いろいろな人がいました。そのほとんどが罪人とレッテルを貼られるような、まさに罪深い人々でした。イエスは、そのような人々とよく食事をしました。当時、食事をともにするということは、その人たちと、とても親しい関係にあることを意味しました。ですから、どうして『先生』と呼ばれる人がそんな人々と食事をするのかと言われても、それは当然のことであったのです。当時の常識から考えると、イエスがしたことは、非常識だったのです。

■ルカ5:31~32 ところが、つぶやくパリサイ人や律法学者たちに、イエスは、このように応えています。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

実は、パリサイ人や律法学者たちが非常識だと感じていたところに、神様の常識がありました。イエスがそのことを告げると、彼らの常識は、いっぺんにくつがえされてしまいました。いつもそうだというわけではありませんが、人の常識の中には、しばしば神様のみこころと違うものがあります。そして、その部分に光を当てたのが、イエスでした。神様は、取税人や罪人に救いをもたらすことをみこころとしておられました。そして、取税人レビは、招いてくださったイエスを受け入れ、何もかも捨ててついて行きました。

■献身について:

  「献身」と聞くと、牧師や宣教師、神学校に入ることなどが思い浮かんでくるかも知れません。確かに、それは「献身」なのです。仕事を辞め、家族から離れて、神学校や聖書学校で学び、フルタイムで神様の働きに就くように導かれる場合があります。しかし、「献身」ということをもっと広く考えると、クリスチャンは、だれでも主に身を献げることができるのです。 

  イエスは弟子たちに、「わたしについてきなさい」と言いました。そして、弟子たちは、イエスについて行きました。「献身」とは、すべてを捨てることと考えると、ものすごくプレッシャーを感じますが、イエスについて行くのだと考えると、楽しくなってきませんか。それは私たちに、希望を与え、平安を与え、自由を与え、解放を与えてくれます。イエスと一緒に歩む中で学び、訓練を受け、神様と交わることは、本当に楽しいことです。イエスが、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:30)と言っておられるように、イエスのくびきは負いやすいのです。

  今日は、取税人レビ(マタイ)と弟子たちの姿から、献身について見てきました。どうぞ、献身ということについて、いま一度考えてみてください。そして、献身の歩みをされる中で、おひとりおひとりが、主に導かれ、主に教えられ、主との交わりの深みへと導かれて行きますようにお祈りしたいと思います。それでは、お祈りします。