裁くこと・赦すこと

2017年8月27日(日)主日礼拝 

「裁くこと・赦すこと」ルカ6:37~42 佐々木俊一牧師

  今日は、ルカ6章37節~42節をとおして、「裁くことと赦すこと」について考えてみたいと思います。聖書は『裁き』について書いてあります。特に、旧約聖書は罪深い人間に対する神の裁きでいっぱいです。新約聖書は、裁きよりも、赦しについて多く書かれています。イエス・キリストがこの地上に来られたのも、人間の罪を赦すためでした。ですから、新約聖書に、人を裁かないようにと勧めている箇所が多いのは当然のことと言えます。しかし、だからと言って、『裁き』を全く否定しているのではありません。裁くことが必要なこともあるのだということを新約聖書の中にも見つけることができます。

■37節 「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」

  この箇所はイエス様が群衆にではなく、弟子たちに向かって語っているところです。弟子たちを見つめながら、イエス様は話していました。イエス様は弟子たちに、裁かないように教えています。裁くのではなく赦すことこそが、イエスの弟子としてあるべき姿なのです。当時の宗教指導者であるパリサイ人や律法学者たちは、常に人を裁く人々でした。イエス様は、彼らの真似をしないようにと言っているのです。彼らの裁き方には問題がありました。彼らの裁きは、人々を倒すためであり、上から目線で人々を見下し、自分たちの正しさを誇るためでした。彼らが本当に神に仕えている者たちであるなら、裁きの目的は、人々を悔い改めへと導き、立て上げることであったはずです。それこそが、神様がなされる裁きです。見下され、軽んじられていた人々は、パリサイ人や律法学者のような人々に喜んで従うことはしませんでした。愛なしで人を裁くならば、 裁かれた人は同じように裁き返します。

  また、宗教指導者たちは、人々を罪に定めました。罪に定めるとは、処刑することです。別の言い方をするならば、「お前は地獄行きだ!」と宣告することです。ある時、姦淫の罪を犯した女が宗教指導者たちに取り囲まれて石打ちされるところでした。姦淫の罪は旧約聖書によるならば石打の刑、つまり、死刑です。けれども、そこへイエス様がやって来て、その女を助けました。イエス様は言いました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」 石を投げる者は誰もいませんでした。人を罪に定めるならば、同じ量りで量られます。そして、その結果、自分も罪に定められるということになるのです。

  また、宗教指導者たちは、罪人を赦しませんでした。なぜなら、赦すことができるのは神様だけだと考えていたからです。それは、ある意味正しいことですが、しかし、もしもそのように考えるのなら、裁くことができるのも神様だけのはずです。

  私たちは、イエス・キリストの十字架によって罪赦された者です。私たちは自分では返すことのできない借金を抱えていましたが、イエス・キリストが代わりにそのすべてを払ってくれました。ですから、私たちは人から借金を取り立てるようなことをしてはいけません。神様が私たちの罪という借金を赦してくださったのですから、私たちも互いに赦し合うべきです。

■38節 「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつ

け、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、

人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

  人は、与えるなら自分も与えられます。裁きを与えれば、裁きが返ってきます。赦しを与えれば、赦しが返ってきます。憎しみをあふれるほどに与えれば、あふれるほどに憎しみが返ってきます。愛をあふれるほどに与えれば、あふれるほどに愛が返ってきます。人は量る量りで、自分も量り返されるのです。

■41節~42節 「あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください。』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。」

  このところは、まさにパリサイ人や律法学者が陥っている状態です。自分の目にある梁とは何でしょうか。目を大きく開けて見張っている様子を想像します。そして、他人の罪についてはどんなにささいなことであっても絶対に見逃すまいと思っているのです。けれども、自分の罪については全く気がつかないのです。人にきびしく、自分にはあまいのです。

  私たち自身の中に、パリサイ人を見つけることはないでしょうか。私のことについて言うならば、「はい、あります」と神様の前にそう答えるしかありません。時々、自分の中にパリサイ人が現れることがあります。自分は正しい、自分には落ち度がない、悪いのはそっちの方だ、なぜそれがわからないのだろうと思ってしまうのです。

  人は、簡単に被害者意識を持ちますが、加害者意識を持つことは、あまりありません。人は誰でも完全ではありませんし、罪も弱さも欠点も落ち度もあります。ですから、どこかで誰かに対し、ちょっとした加害者になっていたとしても不思議ではありません。お互いさまといえばお互いさまです。自分の目から梁を取りのけてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。

■私たちは私たちの教会を健全で平和に保ちたいと思います。そのために、裁くことと赦すことについて、2つの大切なことをお話したいと思います。

① 「外部の人たちを裁くことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたが裁くべき者は、内部の人たちではありませんか。」(Ⅰコリント5:12)

  あるときには、裁くことが必要です。私たちは、教会を健全で平和に保つために、罪についてはっきりと指摘した方が良い場合があります。その場合、まず、自分の目から梁を取りのけなければなりません。そうすることによって、相手への配慮と敬意を持って対応することができるのです。そして、その裁きは、傷つけ倒すためではなく、悔い改めへと導くために、立て上げるために、互いに成長するために、そして、神様の御心が豊かに現されるためにあります。

  裁くというと大ごとのように聞こえますが、注意する、あるいは、忠告すると言い換えてもよいでしょう。教会においては、時にはそうすることが必要な時があります。しかし、頻繁にそのようなことが起こると、あまりにも律法的過ぎて、窮屈で居心地が悪くなってしまいます。程度やバランスを考えなければいけません。極端であってはならないのです。

② 「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ3:13)

  互いに赦し合うことが必要です。私たちは、教会を健全で平和に保つために、互いに赦し合うことが大切です。誰一人として完全な人はいませんから、時には他の人に不快感を与えてしまったり、つまずかせてしまったりすることがあるかもしれません。互いに責め合うこともできますが、しかし、私たちは、教会を律法的で窮屈で不自由なところにしたくありません。ですから、互いに赦し合うことが必要です。赦すことは、簡単なことではありません。けれども、裁き合うことよりも赦し合うことの方が、ずっと創造的であり、明らかに良い結果を見ることができます。

  裁くことと赦すことは、二つで一つと考えてください。裁いた後には、必ず、赦すことを忘れないでください。裁くことと赦すことはセットと考えましょう。

■新約時代の教会に比較するなら、オープン・ドア・チャペルは良識のある、偏らない、落ち着いた教会です。パウロの手紙をとおして、新約聖書に出て来る教会の様子をうかがうことが出来ます。たとえば、ギリシャのコリントにある教会は、賜物や能力に優れた教会だったようですが、いろいろな罪の問題をかかえていました。多様な人々の集まりであるがゆえに、人間関係のトラブルも多く、解決するために、たえず、対応に追われるような教会でした。でも、コリントの教会の良いところは、いい人ばかりを受け入れたのではなく、そうでない人々をも受け入れていたことです。Ⅰコリントの6章を読めばわかりますが、旧約聖書によるならば、石打で処刑されてしまうような人々がコリントの教会には属していたのです。彼らは、社会の片隅に追いやられていた人々でした。そのために、罪に対する対応の難しさや戦いが生じたことも確かです。しかし、教会は成長し、福音は拡散し、着実に信仰者として育っていった人々が多くいたのです。福音はパウロ一人によってヨーロッパに広まったのではありません。パウロが発端になって起こされた、無名の多くの働き人によって広まっていったのです。

  人が多くなればなるほど、問題も多くなります。裁くことと赦すことの必要性がもっと増し加わっていくでしょう。私たちにはその備えが必要です。裁くことと赦すことについて、教会だからこそできることがあります。学校や会社などではできません。真の神様を信じているので、教会では、裁くことと赦すことを互いに学び、互いに成長していくことができるのです。

  私たちの教会を、健全で平和な教会として保つために、犠牲を惜しまないでください。その報いは必ずあります。神様が用意してくれています。ですから、聖書をとおして導かれ、実践をとおして、裁くことと赦すことを、さらに学んで行きたいと思います。それではお祈りします。