ヨセフによる福音

 

 創世記45章1節〜10節

 

「ヨセフによる福音」

 

    本日も引き続き、旧約聖書のヨセフ、新約聖書のイエスの物語の両方を通して、神様がご自身をどのようなお方であるか語っていることを中心に、神様の世界を発見していきたいと思います。

    先月の英語礼拝でこのことを始めた時、これら全ての事は、”神様は救う”と言うメーセージを異なったやり方で表しているのを見て来ました。

   旧約聖書のヨセフ、新約聖書のイエスの物語は、何千、何百年もの時代を超えて離れているにもかかわらず、数々の点で驚くべき共通点があるのです。例えば、どちらも”ベツレヘム”と”羊飼い”が登場します。 ”衣服”はヨセフについてキーポイントとなる事象を表すモチーフ(主要な題材)となっています。ヨセフの生涯は来るべきキリストのご生涯を前もって示しているのです。現在のイスラエルからエジプトに下って行き、自由になって帰還するという行程は、また違った結びつきです。子供達を失った人々の深い悲しみはヨセフとイエスの生涯の出来事と結びつきます。

  その他の共通点としては、 神様が夢を通して語られること、救い主(救う者) が銀貨何枚かで売られていること、どちらも30歳前後の年齢で働き始めていることです。

  

   創世記45章に引き続き焦点を当てる前に、この時点までヨセフの人生がどのように変化して来たかを見返して見ましょう。

  a ヨセフは特別な子供でした。

      父親のヤコブの彼に対する愛は、間違って使われた時には家族をほとんど壊してしまうとい

     ったことがあったとしても、とても深く、その人生全てにおいて力強いものでした。

       このような不完全な親子関係において、父なる神様と(その独り子)イエスの完全な関係を

     映す影をみることができます。

       マタイの福音書17章5節で、イエスのバプテスマに父なる神様が、比類なき喜びをもっ

  て、”これは我が子、私は彼を愛する。私はとても喜ぶ。彼に聞き従え。” と言われたことを

     思い起こします。

  b   ヨセフも苦難大き召使いでした。父親の育て方かの間違い、ヨセフ自身の自己中心な性格、

     兄弟達の狂ったような嫉妬、当時の奴隷制度、主人の夫人の偽証などがヨセフに様々な困難を

     持たらします。しかし、神様はずっと彼を忘れませんでした。ヨセフはこれらの悪い事を変え

     て良い事をもたらす方法を見つけたのです。

        イザヤ書53章3節では、キリスト者が理解すべきある人のことを語っています。そのお方

     は後にお生まれになるキリストです。それは”人々は彼を見下し受け入れることをしなかった。  

     そのお方は全ての悲しみと困難を知っていた。そのお方は人々が顔を背けるような者であっ

     た。”と言っています。これは十字架上のキリストのことです。

   c ヨセフ、更には後のイエスも同じなのですが、両者は最低辺の人間から偉大な支配者に立て

     らました。創世記40章55節では、”エジプトに住む全ての人々が餓えた時、ファラオ

     に食料を求め泣きついた。王はエジプトの民に言った。ヨセフの元へ行き、彼の言う事を為

     せ。”

       このことは、ヨハネの福音書2章でのカナンにおける結婚式の話を思い起こしますね。人々

     は大事な結婚披露宴でワインが足りなくなって困っていました。とっても恥ずかしいですね。

     マリアは働いている人達にイエスについて言います(5節)。”彼があなた達に言うその通りに

    しなさい。” 

    どちらの話においても、ヨセフとイエスは共に権威ある地位にいたのです。

    

 

 

      人生の様々な時に、貶められ、拒絶された人々がいます。しかし神様は逃れ出る道が無いと

    思われる時に、道を見つけて下さいます。

      神様ご自身が為される事を通して、ヨセフはエジプトという強国で偉大な指導者にされまし

    た。神様はヨセフを穴倉から導き出し、監獄から王宮へと彼を導いたのです。

     彼がエジプトの国中を回る時、人々は、彼に先行して”跪け”と叫んだそうです(創世記41章

    43節)、それを尊敬を込めてそうしたと言います。 

     彼の生涯は、キリストの生涯を前もって示しています。キリストは十字架上で刑死しま

     したが、そこに留まってはいませんでした。キリストは復活し(起き上がり)、豊かになって

     、世を治めています。(ピリピ2章8節〜11節)

 

       キリストは人として現れ、最下層にまで落ちて行って、死に至るまで神様に完全に従いまし

     た。それで神様はキリストを最も高い位にまで引き上げて、全ての名前の上にある名前をお与

    えになりました。イエスの名前が語られる時には全ての者が拝するためひざを屈めます。天

    上、 地の上または下においても、全ての膝は、それを屈めてキリストを礼拝します。全ての口

    はイエス キリストは主であると言い、父なる神様が栄光をお受けになります。

       

    これら全てを要約しましょう。

      ヨセフの生涯が私達に指し示しているのは、祝福されたお方であり、この世に送られたお

     方、嘲られ(拒絶され)苦難を被られ、そして殺害されたお方、イエスのことです。

 

          そして更に、キリストは探求するお方であり、救うお方でもあり、ご自分の人々を遣わす方    

 でもあります。

 

       今日の残りの時間は、このことについて焦点を当て、創世記45章で探求する救い主キリスト

       について、ヨセフが何を表したか見ていきましょう。

       (1)   ヨセフは、後にはイエスも同様ですが、兄弟達に自分を明らかにします。

      (2)   自分との関係を戻すように呼びかけます。

      (3)   彼らの罪を示します。

      (4)   彼らを赦します。

      (5)   彼らに神様の救いの計画を伝えます。

      (6)   為すべき重要な働きを持たせて送り出します。

 

       これらは”ヨセフによる福音”とある人々が呼んでいることです。

       さあ、これで今日のお話のアウトラインが見えてきました。それでは引き続き、このプロセ

       スを少し駆け足で、段階経て見ていきたいと思います。

       

      (1) 最初に、ヨセフは彼の兄弟達に自分のことを明らかにします。1節では、               ”彼は兄弟達に彼が誰かを語った。彼は言った。”私はヨセフです。”(3節)

               次の節ではヨセフは兄弟達が本当に理解できるよう、”私はあなた方の弟のヨセフで す。(4節)”と言いました。

             イエスの弟子達もイエスから何度も”それは私です”(ヨハネ福音書6章20節)という単 純なメッセージを聞いています。弟子達はイエス(その本質)をしっているのですが、

             もっと、より多くのことを見つけようとし続けます。イエスを理解しようとする弟子達  の能力は何と限られているのでしょう。とりわけ復活後に顕著になるのですが、イエス   

             は弟子達に驚くべきタイミングと場所でご自身を表されました。弟子達と言えば、それ がイエスご自身であること、そして彼らが知っていたことよりもっと多くのことをイエスが教え、するかどうかをずっと探そうとします。

             (ちょっと意訳でした。通じなかったら直してください)

 

       (2) 創世記45章4節で、ヨセフは兄弟達との関係を持つため、再び話しかけます。

                ”私に近づいて来なさい。”

                兄弟達は初め、そんなことを予測していないので対応できなかったので、ヨセフは再度同じように言い、兄弟達はそうします。

                ヨセフはただ単に物理的に近づいて欲しくてそう言ったのではなく、兄弟達と和解をしたくてなのです。これはヨセフが兄弟達の罪を赦しているというだけに止まりませ ん。後にはそうなるのですが、ここでヨセフは兄弟達にまずもって、ヨセフと兄弟達 の間にはもはや壁がある必要などないと知ってもらいたかったのです。

                   神様はお互いの罪を赦し合うよう教えています。しかしそれだけでは十分ではあり ません。神様は、神様によって造られた私達が、まず第一に”シャローム(神の祝福が ありますように)”、健康、平和(穏やかさ)な関係の内に生きることを望んでおられ ます。赦しはその為の大事な第一のステップ(段階)です。ですが、関係を作り直すには多くのことが関係する必要があり、時間がかかるものです。

 

                イエスのメッセージもまた”私の近くに来なさい。”というもので十字架の聖書のおしえもまた、私達の罪をイエスが赦すというだけではないのです。

                  それは私達のが銀行口座に十分なお金がなかったから、イエスが死なれて私達の借 金を払ったとかでもなく、会計上の問題以上のことなのです。

                   キリストにあって神様は、私達の近くにありたい、コミュニケーションが取れる、 信頼する、共に働くという関係性の中で日々生きている存在になりたい、わたしたち が神様の家族の一員として人生を楽しむようにと示しているのです。

                   これは、イエスがマタイの福音書11章28節で”全て重荷を負う者は私のもとにきなさい。私があなた方を休ませてあげよう。”という時に意図することになるのです。

   

      (3) ヨセフは兄弟達に彼らの罪を示します。4節で、彼は”私はあなた方がエジプトに売った者です。” ヨセフは兄弟達の皆に言っているのですが、兄弟達のなかの一人は 自分のことを特に言っていると知っています。エジプトに行く途中たまたまやって

                来た者達に銀と引き換えヨセフを売ったのはどの兄弟だったか分かりますか?

                   もしJudah(ユダ)と答えるなら、正解です。

                Judah という名前をギリシャ語にするとJudasとなります。先月の英語礼拝で言及    したとおり、救いのために遣わされたイエスを売った”ユダ”と同じです。

                ユダがイエスを十字架へと至らせるため、刀や棍棒を持った人々を連れて来た時、

                キリストは「心配するなユダ。問題ない。」とは言わず、はっきりと「友よ、あなた

                が来た目的を果たしなさい。」(マタイ26章50節)と言いました。友という言葉は

                自分のした事をユダが後に考えた時、深くユダの心を切り裂いたに違いないと思いま

                す。

 

       (4) ヨセフは兄弟達を赦します。5節では ”今、私をここに売ったことで心を痛めたり、

               怒ったりしてはしけません。”とあります。

                このようにして、ヨセフは私達に後に来られるイエスがどのようなお方であるかを示

              しているのです。  

                 イエスが十字架に架けられた時に、イエスはご自身を十字架につけた人々のために、

               「父よ彼らを赦したまえ ‥」(ルカ23章34節)と祈られました。

              これは、神様が行うこと〜神は赦す〜で、神様に従う者にこうするよう、教えているの

              です。それは、また、神様が私達が人生において持つよう期待される特徴的なもので   

              す。

               すなわち私達は私達を害する者に怨恨を持つのではなく赦すということです。

              しかし、これは本当に、本当に難しいことで、「どうしたらそんな事ができるのだろう

 

              か?」と尋ねずにはいられません。ここでもヨセフの物語から力強いヒントがえられま

              す。

                兄弟達が食料を買いにエジプトに来た時から、ヨセフは兄弟達をためしていたようで

              す。もしも兄弟達が兄弟の内の誰かを売るという事態になったら、彼らはそうするので

              しょうか? ヨセフはまさにそのような事態に兄弟を置いてみます。ベンジャミンがヨセ

              フの特別な帽子を盗み、その罪を償うためヨセフ(兄弟達はヨセフと知らない)の奴隷

              となるという状況を見せかけたのです。この時、一人の兄弟が自分がベンジャミンの

              身代わりとしてヨセフの奴隷となると言いました。これがヨセフを号泣させるほど彼の

              心を激しく打ち、自分が誰であるかを打ち明ける決心をし、ついに兄弟達を赦すことで

             壊れてしまった家族関係を修復することになるのです。その人とはだれのことでしょう。

              そうですユダ(Judah)でした。彼は変わりました。自分の兄弟を売った裏切り者か

             ら、そしてまた、かつては性的な罪で囚われ、皆の前でそれを告白させられるという事

             を通して(38章)、彼は自分の行動で責任を取ることを自発的にできるような人間へと

             成長したのでした。彼は、父親のヤコブに、もし、エジプトから無事にベンジャミンを

             連れもどせなかったら、その責めを負うと約束していた、その人です。(創世記43章

             8、9節)

               そして、彼が家族のために進んで自分の自由を犠牲にすることを示した時、ヨセフの心

             は赦しへと動かされたのです。この時まで、ヨセフは復讐の機会を探り続けていたし、

             少なくとも何もいわずに(沈黙することで)自分自身の人生を兄弟達から離したままに

             して置いたのです。しかし今や、ヨセフは自分のプライドや権利より家族との絆を作る

             方を選択したのです。

 

                 ヨセフが兄弟達を赦そうと思えたのは、以上のことでさえも超える何かがあったから

              です。彼は自分の目をもっと神様に向け、家族の人生の為に自分が何をするのかという

              ことを直視したのです。

 

        (5) ヨセフが兄弟達に神様の救いの計画を告げるところ、5節で、彼は「神が、多くの命

            を救うためあなた方に先んじて私を送った」と言い、続けて「神は私をあなた方より先

            にお遣わしになりました。それは、あなた方のために残りの者をこの地に残し、また、

            大いなる救いによってあなた方を生きながらえさせるためだったのです。だから、私を

            ここに遣わしたのは、あなた方ではなく、実に神なのです。」(7節、8節前段)と言い

            ます。

               ヨセフは、私達が普通に気がつくよりももっと大きな計画を神様がもっておられるこ

            とを知っているのです。神様はヨセフの命だけではなく多くの命を見ており、ヨセフの信

            仰による従順を通して救いたいと欲しているのです。神様はヨセフ自身の慰めより彼の人

            格に関心を持ってきました。神様にとっては、ヨセフを霊的、道徳的、心理的に成長さ

            せることの方が、ヨセフが確かな人から正当に扱われ、個人的な必要がみたされること

            より重要であったのです。

 

              神様が働かれる時の御手をこのように見ると、ヨセフは憤りと心の中の傷を解き放つこ

            とで、自分の人生の酷い部分さえ良い方向へと使うことができるということをみてきま

            した。神様の良いご計画に用いられる神様の支配と能力に勝るものがないと知り、ヨセ

            フは赦す自由、過去からの解放、神様が用意するより良い人生へと進むように変えられ 

            たのです。

   

              ヨセフは救い主キリストの姿です。ヨセフは兄弟達に言います。(創世記50章20節)

            ”あなた方は、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいま

             した。それは今行われていることのように、多くの人々を生かしておくためでした。”

 

               人々がイエスを十字架に架けた時、人々はイエスを害するつもりだったのです。しかし

             神様はそれを良いことの計らいにしたのです。キリストの死によって、神様はあなたが

             たや私を含めた多くの人々の命を救うことを可能にしたのです。  キリストは私達の罪の

             ために死なれました。人間の視点で見ると十字架の死は私達人間の最悪の結果ですが、

             神様の視点で見ると、それは偉大な勝利であったのです。

 

                ヨセフがエジプトの偉大な支配者に据えられた時、Zaphenath-Paneah という名

            前が与えられました。聖書学者達は異なった翻訳をしてきました。その一つは”秘密を明 

            らかにする者”というもので、神様が彼に与えた夢を解釈する能力を良く表してピッタリ

            ですね。しかし他の翻訳では” 年代を保護する者”か”世界を救う者”というのがあり、また しても、これら全てがこの物語の主要な点である神様は救うということに連結するので す。

 

             誰による救いなのでしょう? ヨセフの妻が興味深くも重要なことを言っています。

             彼女がヨセフに与えられたというお話です。彼女はユダヤ人ではなくエジプト人で祭司

             の娘でした。(創世記41章45節前段) 

                 彼らは国際結婚の家族で、恐らく彼女は結婚後、夫と同じ信仰を持ったと思われます。

             新約聖書で、イエスも、将来、花嫁を娶ると言っています。これは教会のことを指して

             使われているのです。(ヨハネの黙示録21章2章例示) 

                そこに集う人々は世界中の様々な民族から成っているのです(ヨハネの黙示録

             7章9節)。  違う言葉で言うと、神様が働かれて人々を救われると言う良き知らせは

             ただ一つの民族の人々のためだけではないということです。  信仰によってこれを受け

             入れようとする全ての人々の良き知らせなのです。 良き知らせとならない唯一の人々

             とは、この良き知らせを拒絶し、受け入れることに否と言う人達です。

 

         (6) 最終的に、ヨセフは兄弟達に重要な職務を与えて送り出します。9節で、彼は兄弟達  

               に”さあ今こそ父の元へ急いで戻り伝えてください。「神が、あなたの息子のヨセフを

               エジプト全土の支配者とされました。時間を無駄にせずここに下ってきてください」

              と、ヨセフが言っていると。”と指示しました。

                今日、イエスキリストも人々にまず、御許に来るようよびかけています。

              私達がそうした後、キリストはキリストが与える御用を私達がするために私達を送り出

              します。キリストの最初の招きは”来なさい”というものですが同時に”行きなさい”とも

              呼びかけているのです。 ”行って全ての国の人々を弟子としなさい。父と子と聖霊の御

              名によってバプテスマを授けなさい。私の命じることに従えと教えなさい”(マタイ     

            28章19節後段〜20節前段)。だれかが言ったように”gospel”(「福音」、「ゴスペ

    ル」)を言うと”go”(「行け」)を言うことにもなります。

 

                これが私達が今ここにいる、オープンドアが存在する理由です。   

              神様は救われるのです。常にそうされてきました。

                 ヨセフやそれ以前の時代においても、神様は、心破れ、傷つき、必要がある(私達皆

              がそうですが)人々へ赴き神様の御用をされてきたのです。また、私達の壊れた人生の

              破片から何かしら美しいものを創造されるのです。神様はその独り子キリストをとおし

              て、あなたの、私の人生やこの世界においても、これらが起こるような道(方法)を作

              られました。      

                

                 神様は今日も変わらずこれまで為されてきた御わざを続けておられます。

               おさらいすると、こうなります。

(1) 神様は私達にご自身を現しになる(明らかにされる)

                                   6

 

                (2) 神様との関係に戻ることを呼びかけられる

                (3) 私達の罪を示す

                (4) 私達を赦す

                (5) キリストにある救いのご計画を告げる

                (6) 神様の名前によって働くため私達を送り出す

 

         今日、私は、キリストの良き知らせ(福音)をもたらすという仕事を与えられています。  

       そういう訳で、神様の僕(しもべ)(従う者の代表)として、神様からの招きをしたいと思

       います。

         その招きとは ”私の許に来なさい。” という単純なものです。

       ヨセフが兄弟達に、ヨセフとの平安な生活に戻るよう呼びかけたように、神様は私達全てに

       神様の子供として神様と正しい愛と真実の関係にとどまることを望んでおられます。    

          オープンドアで私達は、毎回、正式な招き、すなわち信仰を持ち神様に従うことの公の約

       束を促がすといった事をしていません。しかし私は皆さんに、招きがいつでも皆さんに用意   

       されていることを知っていただきたいのです。神様は皆さんをいつでも招いていて  

       下さいます。ドアは開いているのです。神様は皆さんがそのドアを通って歩いて来ることを

       望んでおられます。佐々木牧師や私又はここにいる他の誰かが、あなたがそうなさりたいの

      であれば、喜んでお手伝いします。あなたが、もう既にクリスチャンであっても、又はそうで

      なくても、深い信仰による生涯を生きるという(神様からの)呼び掛けを感じたり、神様が

      信仰の旅路を始めるようあなたに呼び掛けていると思うことでも、神様は同じように仰いま

      す。

      ”私のもとに来なさい。”と。 

   どうぞ今日の礼拝が終わった後にでも、あるいはあなたがそうできると思う時に、自由に、こ

   のことを私達と話し合いましょう。

            

    祈りましょう。 救いを為される神様、私達はあなたを誉めたたえます。あなたは、私達の人生

   の悪から良いことをもたらすことができるお方、壊れたところから完全なものをもたらすこと

   ができるお方、悲しみから喜びをもたらすことのできるお方です。

    どんな痛みや傷を私達が負おうとも、あなたが私達の人生のどんな些細な一部をも美しく、良

   い事のために用いられるという全き信頼を持って、私達が、その人生をあなたの御手の中に置

  くことができるように助けて下さい。

       聖霊の力とあなたの愛の力によって私達の祈るようになりますように。

    キリストの御名によって、アーメン。      

  

参考

 

Ferguson, S. B. (n.d.) “God Meant It for Good.” Retrieved July 9, 2017 from https://www.youtube. com/watch?v=LveZ5sRqRz4

Rogers, A. (October 12, 2014). “The Gospel According to Joseph.” Retrieved August 15, 2017 from https://www.youtube.com/watch?v=p9_ZdwtG6zA

Rogers, A. (April 3, 2016). “Joseph: A Portrait of Jesus.” Retrieved July 9, 2017 from https://www. youtube.com/watch?v=53IqVEWQByM

Smith, W. (1901). Smith’s Bible Dictionary. Boston: John Murray. Retrieved August 15, 2017 from http://www.biblestudytools.com/dictionaries/smiths-bible-dictionary/zaphnath-paaneah.html