主にある真価論

2017年8月6日主日礼拝 メッセンジャー:草島兄

主にある真価論

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

イザヤ43:4

 

#1本当の価値

では、はじめにまず、次の絵を見て下さい。(2枚の絵を見比べる)

1枚はうちの子どもが描いた絵です。もう一枚は?

実は、この絵は、「Green White」という名前で白いキャンバスにゆがんだ緑の円が描かれたエルズワース・ケリーの作品。お値段は160万ドル(約1億5000万円)です。

 

右と左、殆ど、変わらないように見えますね。

これだけの価値の差が生まれるのは、一体なぜなんでしょう。

 

もちろん、作者によるものですが、それと同時に、

その芸術的価値を見極める人がいるということです。

 

正直、僕が見ても右と左の絵の価値の差は、わかりません。

でも、価値を知る人が、見ると、その差は歴然としています。

 

今日のみことばでもある、

「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と言う部分。

つまり、神さまの目で見極めると、私たちの価値とは、まさにこの絵のように、とんでもなく高価だということです。

信じますか?

アーメン。

 

#2気づいていない価値

次に、先程の絵でもそうですが、神さまは価値を知っていても、私達自身は、自分の価値をどう捉えているでしょうか?

 

ここで、私たちがよくやってしまうことトップ3を紹介します。

(1)「みずから自分の価値を下げる」

先程の絵と同じように、本当は自分にも素晴らしい価値があるのに、その価値を「たいしたことない」と「自分で」見下していませんか。

 

(2)【まわりと比べて、自分を下げる】

少し自分もできることがあっても、気がつくと「もっと上手な人、うまい人、優秀な人はいる」と誰に遠慮しているのか?自分で勝手に見えない人と比べて、自分を低く評価していませんか?

 

(3)【自分の価値を、否定する】しまいには、自分には、才能がない、周りほど上手にできない、だから、自分はダメなんだ・・・なんて自己否定したこと、ありませんか?

 

実は、私も自分を自分で認めることができないで、今まで生きてきました。

今はこうして人前で話すこともありますが、以前の私は、最近の言葉で言うところの「コミュ障」つまり、コミュニケーション障害に等しいものでした。

 

高校生の頃、朝通学する際に、男子の仲間同士でバスに乗ります。そうすると、同じクラスの女子のグループが乗り込んできます。まぁ、自然に会話が始まりますよね。「オハヨー、今日の○○の宿題、やってきたー」

「まだだよー、○○が難しくて~」など会話がはずみ、楽しく通学、、、できたら、どれほど良かったでしょう。

 

「いいなぁ」

その時の僕は、一人、離れたところで吊革に捕まりながら、友人たちが、楽しそうに話しているのを見ていました。だって、

「何を話したらいいのか?」

「つまらないんじゃないかって、思われないか?」

そんな事を考え、一人会話に参加できずにいました。

 

そんな場面が多々あり、普通に人と会話できない自分がイヤでした。

何よりも、自分の声がキライでしたね。小学校6年の時に、初めてカセットデッキで自分の声を録音した時に、あまりに想像と違ってそれ以来、自分の声に非常にコンプレックスがありました。これは今も若干あります。

 

つまり、僕は人前で話したり、

人と関わることがデキない自分に

ダメな奴と自分でレッテルを貼り

自分で自分にはダメ出しを続け、

自己否定を続け、

自分に価値がある、なんて思えませんでした。

 

そんな憂鬱な自分を変えたい、

もっと人の、自分の心のことを知りたい。

 

そう思って、大学に行きます。

 

大学時代は、ボランティアの団体に所属していました。

その時に、阪神大震災にちなんだ全国大会があり、そこでインタビューアーにいきなり話を振られ、とにもかくにも言ったことが、後で非常に評価された。何か話したことを評価された初めての経験でした。

 

子どもボランティアでは、お世話になった紙芝居の読み聞かせの先生から「あなたは、声がいいからやってみなさい」と言われ、紙芝居をしてみると、子どもたちから、予想以上の好評をもらうことができました。

 

社会人になって、求職中で仕事を探している人を対象に、講師として一定の期間関わることがありました。その最初の授業の時、今でも憶えているのは、あまりのしどろもどろに、人生で初の過呼吸を体験するほど、もう無理!と思いました。しかし、続けていくうちに、最終日には多くの方に感謝と花束を頂くことができました。

 

そして、その後も色々なことがあり、今ここにいます。

 

気がつくとコミュ障で内弁慶だった自分が少しずつ変わり今では、自分なりの楽なコミュニケーションをとることができるようになりました。

 

価値はアルナシではないんです。

もう持っている。

 

あなたに、

価値は

既に

十分に

あるんです。

 

後は、それをどう活かすかです。

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#真価論

 

ここで、僕が考える一番の価値

つまり「真の価値=真価」は

 

- 誰もが持っていて、

- いつでも、

- どこでも、

- どんな時も

- その価値は失われず、

- 今までも、

- これからも、

- 価値があるもの。

 

そういう価値、そう、

「い・の・ち」です。

 

みなさん、持ってますよね。

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これに気がついたのは、本当につい最近でした。

それまでは、僕も昔から自分に自身がなく、常に虚栄と見えをはり、元気に明るく振る舞い、仕事でも成果を上げることで認めてもらえると、無理をして頑張ってきました。もちろん、そのお陰で評価されたり、より良い場所で働けるなど、メリットもたくさんありました。

 

でも、家に帰って、あるときふと自分の顔を見ると、自分じゃないような気がするんですね。

 

この疲れた色黒な人は誰だろう?

いつもの明るく、元気な自分はどこにいったんだろう?

これは、本当の自分なんだろうか?

もっと、自分らしい自分って何なんだろう。。。。。

 

ふと思い返すたびに、そう問い続けてきて何年経ったでしょう。

 

ここで、つい先日の話。

実は今職場まで片道10キロを毎日自転車で走っているのですが、

こないだ帰り道で、ふとしたことから大転倒しかなりの怪我を負いました。

自転車で転ぶなんて何十年ぶり。

スピードは落ちていたものの、数メートルも吹っ飛んで転がりました。

自分でも驚きましたが、またあちこち打ったせいで、痛いのなんの。

まぁ、カッコ悪いですわ。

 

でも、その後考えてみたんです。

 

 

自転車で何十年ぶりの大転倒。

右半身あちこち打撲、裂傷。ボロボロだった。

頭を打ったせいか、おかしな言動も!?

 

とにかく、擦り傷にはラップを巻いて、

打ち身の痛さに耐えつつ、自転車は無事だったので、

懲りもせずに、翌日もチャリ通。

 

でも、

、、、、でも、

その時に閃いた!

 

 

(娘が、最近友人関係に悩み、友達の「良かったこと探し」をしていたのを思い出し…)

昨日の大転倒の中で「良かったことって何だろう?」

 

そしたら、一つ浮かんだのは

「今、生きてる」ってこと。

 

命が守られ、

今日も生が与えられた。

(本当は、内心、頭を打ってたので翌日ポックリとかあるんじゃないかと不安でした)

 

この「いのち」って何?

・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 

その時、

自分への劣等感、

他人との劣等感、

そこから来る、不安や怖れ。

モヤモヤ感、

イライラ感。

 

そういったネガティブなものが吹っ飛び、

 

まずは、

「いのち」があるだけ

イイじゃないか!って。

 

明石家さんまさんも言ってますよね。

「生きてるだけで丸儲け!」って。

 

よく考えたら

「いのち」って、

みんな誰にもあって、

生まれたときからあって、

 

生命に

上下も、

優劣も、

できた、できないも、

比較も、

差別も、

無いじゃないか!!!

 

この「いのち」について言えば完全な平等ではないか!

 

この価値って、いかなるものか!

そのかけがえのない、素晴らしい価値を、

俺は持って、生まれて、生きている。

今日も価値が与えられ続けている!

 

一体全体、この素晴らしい価値を与えてくれたのは、

 

誰なんだ?

 

それは、

My God、

神さま

です。

 

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そして、真価を知ると、逆に今まで自分が何を基準に生きてきたのかも分かりました。

それを「対価」と考えました。

 

つまり、それまでの自分は、

自分の価値なのに、その評価を相手に、周りに求める、つまり対価の中に生きていたんです。

 

何かがデキる、デキない。

上手い、下手。

優れている、優れていない。

成績、

容姿、

持っているもの、持っていないもの、

ステータスのあるなし、

経済の豊か、貧しい、

・・・・・・・・・。

 

人がこれまで、

人同士で作り上げてきた

「対価」という見方。

 

そして、物心つくころから

周りの人や状況と

比べられ、比較され、

…もしかすると差別され、

自分に劣等感を負い、

他人への優越感に憧れ、

永遠の対価を求め、

果てしなく、「より良い何か」という見えないものを求め続け、

・・・心が疲れていました。

 

その中を生き、

「対価」という基準しか知らなかった僕は、

ずっと渇いて生きてきました。

 

もちろん、対価が悪いとか、そういうことではありません。

努力や、頑張ること、その結果としての対価にも十分に価値はあります。大事なのは、自分にも、他の人にも同じように、「価値」がある。真価という命がある。その上で、対価があるということです。

 

そしてあの自転車での大転倒を通して、

自分の中に、溢れる泉があるのに気づけました。

 

周りに価値を求めなくったって、

自分の中に生まれたときからある価値。

生まれ持って

皆平等に与えられている、

かけがえのない価値

しかも、それは誰から与えられたのか、

神さまからの、一番最初に与えられた、最高の価値じゃないでしょうか。

 

ちなみに英語でも考えてみました。

真価、価値、つまり神さまからの絶対的な変わらない価値をValue

対価、価格、つまり相手によって変わる値段をPriceと。

 

ちなみにこの

Valueの語源はラテン語でvalere「健康であること」

つまり、今健康でいられる、生きていられる事自体がvalue、価値があるということなんですね。

 

 

神さまが見ているのは

何かができたり、

上手な、

頑張っている、

努力している、、、、、

そういう、あなたが何をするかという「行い」よりも、

あなたが、あなたのままでいる「存在自体」が大事だと。

 

条件付きの対価ではなく、

無条件で与えられる真価。

 

真価という、いのち。

 

例えば、

あなたが、生まれる瞬間を思い浮かべてみてください。

 

生まれたばかりのあなたは、

何もできず、ただ泣くだけの存在。

 

それなのに、周りの人が喜んで、感動するのはなぜでしょう。きっと、それは「いのち」というかけがえのない価値に改めて触れたからじゃないでしょうか。

 

自分にも与えられている「いのち」という「真価」に改めて気づいた時、人は、本当に大切なことを思い出す。

そう思います。

 

 

このいのちについては、

人によっての優劣もなく、

いい命、わるい命もなく

完全に平等に、

全ての人に

毎日、毎日、マナのように、与えられている。

 

ちなみに、先日、105歳という天寿を全うされた

日野原 重明先生という方がいらっしゃいます。

 

その日野原先生が、ある時に小学生たちと話していて

命の話になりました。

 

その時に、小学生が「いのちとは、何ですか?」と日野原先生に聞いた時、先生は、「いのちとは、時間です」と言ったそうです。

 

だから英語では、「現在」の事を「present」、「与えられたもの」と言うのかもしれません。

 

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神さまからしたら、おそらく皆さんは

とてつもない金銀宝石のように見えるのでしょう。

それほど、大切な存在ということですよね。

 

 

#私たちの価値を愛する、神の愛

聖書をもう一度開いてみましょう。

「〜あなたは高価で尊い」その後に続くのが、

「だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりににするのだ」

とあります。

 

いかがですか?

 

昨今テロや何やらで人質がとられ、何かと交換にと言う話を聞きます。

もし、その時「あなたのいのちを救う代わりに、その国と、その国民をよこせ」と言われたとき、世界中のどの国が、一人の命を救うために、全国民を犠牲にできるでしょうか?

 

神さまが言う、それほどの「わたしの価値とは、どれほどのものなんだろう?」

 

わたし自身は、ちっぽけで、大したこともなく、平々凡々と生きてきた小市民の一人に過ぎないと思っている、そんな私を、(主のように)「国と民とをあなたのいのちにかえる。それほどまでに、神であるわたしにとっては、お前は何よりも代え難く、何よりも大事な、私にとって、かけがえのない存在なのだよ」と。

 

神さまから見る、私たちの価値

私たちが見る、私たちの価値

その差に、愛を感じませんか?

アーメン。

 

ただ、ただ、私たちは、この測り知れない、想像すらできない、この神の愛にただ包まれるだけでいい。というか、もう安全に神の愛の中にいま、私たちは既にある、、、

「あ・が・な・わ・れ・て・い・る」のです。

 

魚は、自分が、自分にとって最高の環境である「水の中」にいることに、ほとんど気づきません。

 

私も、人間が、生きる上で、最も必要なもの、水✖︎、食べ物✖︎、住まい✖︎・・・・ないと数分と生きられない。。。そう、空気ですよね。酸素です。その「空気」の中にいて、好きなだけ空気を吸えることに、普段気づくことはほとんどありません。

 

なおさら、

空気を始め、全てを与えられている、神の「あ・い(愛)」の中にいることに、普段どれだけ気づいているでしょうか。

 

愛ゆえに生かされているんです。

 

神によって価値が与えられている、というのは、

 

神によって愛されている。ということなんです。

 

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それを確認する方法があります。

今日ここへ来れたのは、どうしてですか?

 

自分で、朝起きて、自分で朝食を食べ、自分で車を運転し、自分で歩いて、自分で今ここにいると?

 

果たして、本当にそう言い切れますか?

 

今、ここで意識して心臓を動かている人がいれば、手をあげてください。

私も、これまで生きてきて、一度も自分で心臓を意識して動かしたことはありません。勝手に動いてくれている。

本当に、勝手にでしょうか?

誰かが動かしてくれているんじゃないでしょうか?

いのちを、私に与えてくれた方が。

 

実は、神さまが寝ている私に、新たな命を授け、命の吹き込みとともに起こし、朝食を食べられる環境を今日も整え、私が無意識で食べている朝食も、歯の状態、アゴの状態、胃の調子、全てを整え、わずかの不調さえ感じることなく、当たり前のように食事をして、家を出れば、盗難にあうこともなく、故障することもなく、昨日と、同じようにそこに車が守られており、エンジンからハンドルまで全て、何の問題もなく今日も走れるように、当たり前のように、全く問題と感じることもなく、運転し、ここまで来ることができた。

 

自分で歩いている?

膝の調子、地面は滑らず、今日も歩いている。普通に?

今ここにいる。教会は誰が開いてい、誰がこの場所に、この教会を設立してくれ、どれだけの人の汗と、お金と、思いが積み重なってできた、この教会に、当たり前のように玄関をくぐり、当たり前のように椅子に座っている。

 

本当に、何か一つでも神の手によらず、私たち自身でなにかをしていると言えることは、果たしてあるのでしょうか。

 

全てを、私たちは、

誰かが用意し、整え、何の苦労も、何の問題も感じないほどに、当たり前と言う幻想の中で、生きているとするのなら、それはカナンの地に帰る際のモーセに文句を言いつづけたイスラエルの民と同じかもしれません。

 

気がつくと、

自分自身で生きていると錯覚してしまうほどに、

あまりにも、

素晴らしすぎる環境に

当たり前のように、

日々生かされている。

 

まさに神は、私たちのために、全てを用意し、全てを整え、

今日も、

今も、

私たちを「生かし続けてくれている」

私たちに「それだけの価値がある」と認めてくれている。

つまり、

「愛されている」ということです。

 

最後に、一緒に聖書を読みましょう。

イザヤ63:9

「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」

 

アーメン。