人間関係を通して

2017年7月30日賛美礼拝ユースメッセージ メッセンジャー:土﨑姉

「人間関係を通して」

                                                      

先週の日曜学校で中高生に「来週ユースメッセージを担当するんだけれど何も決まっていなくて・・参考の為に、今 何か関心を持っていることや困っていることってあるかな?」と聞いてみたところ、『人間関係』という言葉が返ってきました。「そっか~若くても色々人間関係に悩んでいるのだなあ・・」と思いながらランチタイムにその話をしていると、小学生だって人間関係に悩んでいるという話も聞こえてきました。

 

 そう言われてみれば、自分自身のことを振り返ってみても、確かにかなり小さい時から嫌いな人や苦手な人がいたり、人を責めてみたり、いじめに遭ったり、人間関係に悩んできたのです。大人になってからは、たいてい、どの職場においても人間関係というのは最大の問題で、ストレスで病気になったり会社を辞めてしまう人も少なくありません。また実家に帰ると、年を取った私の両親が色々な人間関係で未だに悩み、ストレスを抱えている姿を目にします。それでも人間はいつも誰かとつながっていたいと強く思っています。フェイスブックやラインなどのSNSがこれだけ普及しているのはまさにその現れだと思います。

 

では、良い人間関係を築いていく方法について、聖書には何と書いてあるでしょうか? 子供から年配の方まで多くの人が悩み続けている人間関係。できるだけシンプルにうまくいく方法を学ぶことができれば、とっても助かりますよね。ということで、色々と考えてみました。「人間関係」についてどう聖書から学んだらよいのか、と考えはじめると深みにはまっていくようで、頭が痛くなってきました。結論としては、当然のことながら、そう簡単なことではないということです。

 

なぜ人間関係はこうも難しいのでしょうか。それは人間は皆不完全だからなのだと思います。神様の教えに従わず背いてしまった時に、神様との愛の関係から離れてしまいました。自己中心になり神を愛することも、隣人を愛することも難しくなってしまいました。聖書にはこうしなさいということが書いてあります。皆がその通りに従うなら、人間関係の問題はなくなっていくでしょう。しかし問題は、多くの人が神様の教えを知らない事、そして次にその教えを聞いても理解が足りなかったり、実際に従うことができないことです。聖書のみことばを知っていても、まだまだ間違いをしてしまいます。教会であっても人間関係の問題は色々起こり得るのです。人間は自分の力でその教え(難しい言葉で言うと律法)に従うことができないのです。

 

神様に私たちを造り変えてもらう必要があります。そしてそれは3分、5分でできることではありませんし、また1つや2つのことではありません。私たちがそれを求めることと、そして造り変えられるにはプロセスがあり時間が必要だということです。神様の働かれる方法は様々ですが、その過程の中で私たちは形造られ、成長していきます。人間関係というのは私たちが神様を深く知り、自分を深く知っていくために様々なことを教えてくれる方法なのです。神様の最も大切な教えである、神を愛し隣人を愛せよーそれを実践していくために私たちは、人々との関係から多くのことを学びます。その方法、知恵が聖書に書いてあり、これだけの厚みがあることからみても簡単なことではないことがわかります。だからと言ってそれは私たちが難行苦行していくということでもありません。聖霊の力によって私たちは造り変えられていきます。でも私たちの持ち分があります、神様の力を信じて、自分のできることを精一杯取り組んでいくことが必要です。み言葉を学び、祈り、自分の意志で行動していくことです。また同時に自分の頑張りではできないことも認めてへりくだって神様に助けを求めていくことです。その積み重ねの中で、私たちは神様の力を経験し、造り変えられていくのです。

 

人間関係というのは神様の愛、人に対する愛を学ぶ最大の勉強の場なのです。「全ての道で主を認めよ、そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:6)とあります。全てが偶然でないとすれば、私たちの周りには色々な人が置かれ、色々な問題が起こりますが、偶然はなく、神様がそれらのことを通して自分に何を教えようとしているのか取り組む必要があります。そうやって祈ってみると、違った問題が自分の中に見えてきたりします。

 

人間関係でうまくいかない時、多くの場合、私たちは相手に変わって欲しいと強く願います。相手の問題だと考えがちですし、実際相手が間違っていることもあると思います。でも、私達は相手を変えることができません。変えようとすればするほど、残念ながら変わらないものです。正しい正しくないではなく、相手は自分が望むように簡単に変わらないのです。でも聖書に従っていくとき、たとえ相手が変わらなくても、自分が平安を持ち続けることや、相手をゆるすことや、忍耐をすること、その人に振り回されない自分、もっと自由でいられる自分に変わっていくことができるのだと思います。

 

人生には色々なことが起こります。これまで話してきたように人間関係はとても大きな課題です。またその他にも、思い通りに進路が進まなかったり、何でこんなことがと思うようなことが起きたりします。でも神様は、様々なことを、益としてくださって私たちを訓練し、形造ってくださっていることを覚えたいと思います。そしてあまりその時はうれしいことではありませんが、私たちはむしろ困難の中にあって、神様のことを深く知ることができるということも事実だと思います。詩編119編の71~73節に『苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。あなたの口のおきては、わたしのためには幾千の金銀貨幣にもまさるのです。あなたのみ手はわたしを造り、わたしを形造りました。わたしに知恵を与えて、あなたの戒めを学ばせてください』とあります。

 

聖書は神様が陶器師で私たちは粘土であって、神様の手の中で形造られると言っています。土から粘土を得る時には、石ころや不要物を取り除くことが必要です。粘土が形造られるときは、揉まれ、練り清められていきます。そして最後には火を通ります。粘土の私たちとしては、結構痛かったり、苦しかったりすると思います。しかし神様は私たちを同じものが2つとない器として、神様の子供として一人ひとり大切に御手の中で形造ってくださるのです。

 

そのことを歌っている「The potter’s hand」という賛美がありますので、一緒に聴きたいと思います。関連する聖書のみ言葉のコピーをお渡ししますので、思いめぐらしながら賛美を聴いていただければと思います。

 

 

苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。あなたの口のおきては、わたしのためには幾千の金銀貨幣にもまさるのです。

あなたのみ手はわたしを造り、わたしを形造りました。わたしに知恵を与えて、あなたの戒めを学ばせてください。  詩編119:71-73  

   

 

イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。――主の御告げ。――見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。        エレミヤ18:6

 

 

しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。 

イザヤ64:8