ヨセフ、イエス、そして救いをもたらす神様

創世記50章20節

 

ヨセフ、イエス、そして救いをもたらす神様

 

 今朝も、ご一緒に旧約聖書の世界を巡る旅に出たいと思います。旧約聖書の世界に登場する主要人物の人生を見ることは、キリストの生涯の後半部分に何が起きたのかを私達が知る上でのヒント、合図、イメージ、絵図といったもの得る助けになります。キリストは聖書を知っているイスラエルの人々に「あなた方の読む聖書が私について証言しています。」(ヨハネによる福音書5章39節)と語っています。勿論この時点では新約聖書はまだ書かれていないので、キリストが仰ったのは旧約聖書のことです。神様の存在と真理という光がキリストを照らし、同時に(旧約聖書における)主要人物の人生に(その光から生ずる)影を投げかけているのです。これらのキリストの様々な「ひな型」を通して、神様は私達に、全てのことではないけれど、重要な事柄を示しています。これらは神様にとって何が大事な事であるのか、神様は何を愛するのか、この世界に神様がキリストを送り、何をさせるつもりであったのか私達が段々とはっきり理解するようになるための概念(アイディア、思想、考え方)をもたらすものです。

 

 ヨセフの生涯において、キリストを指し示している部分を明らかにするため、その全体を通して見ながら、節目の部分に注目していきましょう。

 ですが、「三つの要点と詩」という典型的な説教をするつもりはありませんし、今日の限られた時間内で注意深く見るべき全てを終わらせることはできないと思います。

 

 ヨセフとイエスの物語の多くは冒険と驚くべき事象にあふれた長いものです。しかし、その全てにおいて、ヨセフとイエスを励まし導いてくださった神様に対して1つのことを示しています。神様は救うお方です。「神は実にその一人子をお与えになったほど、この世を愛された。」(ヨハネ福音書3章16節) この偉大な祝福を見出すことは可能です。どのようにしてそれが起きたのか、私達の生活と世界に対して何の意味を持つのかを探ることによってです。

 

 1   ヨセフとイエスの物語を繋ぐものの一つはベツレヘムです。 創世記37章から50章は12人の息子(部族)と父ヤコブの物語です。48章7節で、ヤコブの最愛の妻、ヨセフの母のラケルについて、ヤコブの家族が旅に出ている間にラケルが亡くなりベツレヘムへ向かう道に埋葬されたと記されています。毎年クリスマスの度に、イエスが家族の行った旅行の終わりにベツレヘムでお生まれになったことを思い出しますね。

 

 2   理由はどうあれ、ヨセフの物語では神様は羊飼いを通して働かれることを選びます。創世記46章33、34節では、エジプト人が全ての羊飼いを嫌われ者と思っていると言っています。イエスの時代においても、同様に羊飼いは社会の下層に属し、他の人々から見下されている存在でした。にもかかわらず、神様は多くの人々の命を救うという神様の働きを担う者として羊飼いを用いる選択をします。ヨセフの物語の後半(45章3節)では、羊飼いであったヨセフの兄弟達が、長い間死んでいたと思っていた兄弟のヨセフ(神様が救いの計画のために選び遣わされたその人)と顔と顔を合わせて再会した時、大変恐れたとあります。これは新約聖書のルカ伝2章のクリスマスの話で、羊飼い達がキリストがお生まれになると天使から告げられて恐れたことと良く似ています。

 

 3   「衣服」もこの二つの物語では特別な位置にあります。ヨセフとイエスの生涯での分岐点について描写する時にモチーフ(主要な考え)として使われています。ヨセフの物語には衣服にまつわる話が5回出てきますが、思い出せますか?

 

 

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 a  創世記37章3節には「イスラエルは彼に美しいローブを作り与えた」とあります。兄弟がそのことでヨセフに嫉妬し奴隷として売ろうと決めた時、兄弟達は ”父親にこのローブを返し、「私達が見つけました。見てください。これがあなたの息子のものとお分かりになりますね」と言った”とあります(32節)。

 

 b    ヨセフの人生に困難がやって来た時にも神様は彼を忘れることはありませんでした。ヨセフがエジプトで使えた主人ポティファの家の執事長になることを助けたのです。この主人の妻がヨセフに言い寄り自分と寝るように誘惑した時には、ヨセフは断ったのですが、「ヨセフ家から逃げ出したが、自分の上着は女が持ったままであった。」(創世記39章12節)、この上着を使って女はヨセフが自分を襲ったと偽証しヨセフは結局、監獄に入れられました。

 

 c   何故こうも酷いことが次々と起こるのでしょう? 今の私達の世界や生活においても、このような事は起きるのですが、どうしてでしょう?聖書はこれについて、すっきりとした簡単な答えはしませんが、困難な時に神様に信頼する人々と共にいてくださる神様について述べています。神様はヨセフに居心地の良い生涯を与えませんでした。ですが、彼の進む道にやって来た悪いことでさえ、それを訓練のために用いて祝福に変えられたのです。神様の助けにより、ヨセフは監獄から出ることができたばかりじゃなく、王によってエジプト全土に権勢を振るう非常に力強い指導者となったのです。創世記41章42節に「ファラオは 彼に素晴らしい生地のローブを着せ、首には金の首飾りを付けた。」とあります。

 

 d   その内、ヨセフの兄弟がエジプトに食料を求めてやって来ました。その後、ヨセフは、兄弟の一番下の弟ベンジャミンを連れてこさせます。かれはヨセフの父と母の子供でもあります。 初めは兄弟たちに辛く当たるヨセフですが(創世記45章22節)兄弟の一人ひとりに衣服を与えます。ベンジャミンには5着揃いもの衣服を与えます。*これらは赦しと家族の和解の過程として書かれています。

 

 e  エジプトに来たヤコブが死んだ時、ヨセフは医者達に命じてヤコブの遺体を正しいやり方で整えるように言いました(創世記50章2〜3節)。これは埋葬する時に着せる服についての決まりも含んでいました。ヨセフが110歳でその生涯を閉じようとする時、似たようなことが起こりました。彼の遺体は、埋葬後何年もの後にイスラエルに戻されることになっていたため、埋葬用の服で整えられました。(創世記50章26節) その事については後ほど詳しく述べます。

 

 ナザレのイエスの時代を見てみましょう。福音書の著者はイエスの生涯の主要な角場面でイエスが着ていた衣服について記しています。

 

   a  ルカは、赤ん坊のイエスを母マリアが大きな布でくるんだと記しています。(ルカ2章7節)

 

 b  イエスに死が近づいた時には、イエスは王様のようなローブを、馬鹿にする兵士達から

着せられました(ルカ23章11節、ヨハネ19章2節)

 

 c  その後、イエスの着ていた衣は処刑される前に剥ぎ取られ分配されました(ヨハネ19章40

節)。

 

   d  イエスの身体は埋葬のため布でくるまれました(ヨハネ19章40節)ヨハネは福音書(20章5〜7節)では、これらの衣がイエスが復活された後にも墓石に掛けられていた様子を記しています。ヨハネの話とクリスマスの話はここに来て一致(一周回って)したのです。

 

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 e  ヨハネの黙示録19章16節では、この世の終わりに白い馬に乗ったイエスの姿が書かれています。”その着物にも腿にも「王の王、主の主」という名が書かれていた。”

 

 以上述べて来た衣服に関連し起こった事は、神様が神様を信じる人々へ救いをもたらすためにヨセフとイエスの生涯を通して働いておられることを示しています。ここで言う救いとは人々の食糧について物理的な必要を満たすことを含んでいます。そしてそれは、罪の赦し、自己中心の人格から他者に対し心から思いやることのできる者への成長、そして肉体の死を超越した人生への希望といった精神的な必要へと導くものです。これらの衣服に関連して起こった出来事を通して、神様は、死の可能性があるところに生を、不足の可能性があるところに必要への満たしを、分裂の可能性があるところに平和を、壊れた関係しか残らないところに復元をもたらすのです。

 

 4   私達は最初に、ヤコブの家族がどのようにエジプトに下って行ったかを見てきました。ヤコブの家族は奴隷となり大きな苦難を受けるところだったのですが自由になり、結局イスラエル(カ ナン)からエジプトへの旅行を全うし、そして帰還できたというものです。

 

       神様はある夜イスラエルに夢で語られました。

       ”ヤコブ、ヤコブ” と。  

        ”はい。私はここにおります。”とヤコブは答えます。

       神様は、”私は神である。私はあなたの祖先の神である。”

      ”エジプトに下っていくことを恐れてはならない。そこで私はあなたを偉大な民(国民)にし

    よう。私があなたと共に行く。そして再び連れ戻すことをあなたは確信する。あなたが死

    ぬ時には、ヨセフが自らの手であなたのまぶたを閉じる。”

  

  この(夢の中で語られた)エジプトへの隷属、そして約束の地への帰還という霊的な旅はある

  意味、クリスマスの物語で繰り返されます。イエスの家族は、ベツレヘムで幼い男の子達を殺

  したヘロデ王から逃げなければならなかったのです。彼らは安全になるまでエジプトに逃げ,

  神様が彼らを導いてイスラエルの家まで帰らせました。(マタイ2章13〜23節)

  

 5   今、ベツレヘムにおける男の子の虐殺について述べましたが、マタイは子供を殺された  失ってしまった人々の深い悲しみについて、エレミヤ書31章5節を引用し語っています。マタイは、”深く嘆き悲しむ声。ラケルは彼女の子供達のために泣いている。慰められることも拒否する。彼女の子供達は逝ってしまったからだ。” と書き表します。これらの言葉から私達は、ヨセフがいなくなり野生の動物に食べられたと知ったヤコブの悲しみを鮮明に思い出せます。”ヤコブは自分の着物を引き裂き荒布を腰にまとい、いく日もの間その子のために嘆き悲しんだ。彼の息子、娘達がみな来て父を慰めたが彼は慰められることを拒み「私は泣き悲しみながらよみにいるわが子のところに下っていきたい。」と言った。こうして父はその子のために泣いた。”(創世記37章34、35節)

                    

  6   ヨセフとイエスの物語における別の結びつきは神様が夢を通して人々に語るという事で す。創世記では、神様は17歳のヨセフに夢を通して語りました。(37章1〜11節の一房の大

麦、 太陽と月と星の例え)。 ファラオのワイン品質管理者(40章1〜13節 葡萄の蔦とぶど

うの実)、ファラオのパン職人(40章16〜22節、パン籠と鳥)、ファラオ自身の事(41章

1〜32節、牛と穀物の穂)。このようなユニークな方法で神様はこれから何が起ころうとしているのかを語られるのです。そしてこれはしばしば、これから起きる事の備えを人々にさせるためなのです。

 

       イエスの物語では、神様はまたしても夢を通して重要場面において語られています。

 

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  ヨハネ(前の旧約聖書のヨハネではありませんよ、ナザレにおけるイエスの人間の家族の

    長)にマリアと結婚するように告げられます。マリアを通して神様が救い主を送り込むのだ

からとも言われます。”罪から神様を信ずる者を救う”(マタイ1章20〜21節)。そして、マタイ2章13〜15節では、神様はヨセフに夢の中で、イエスの命に危険が迫っているので急ぎ街を出るように、別のお告げをします。しばらくエジプトで隠れている間、ヨセフは再び夢でイスラエルに帰るようお告げを受けます。そして別の夢ではガリラヤへ至るより明白なお告げを聞くのです(2章19〜23節)

 

        これらの物語の要点は、ただ単に神様が夢の中で語られるという一見してかっこいいことが

    できるということではなく、神様は、私達が進んで聞こうとする時に語ってくださるというこ

とです。神様は語る方法をご自分で選ぶことができます。なぜならば、神様は神様だからです。私達はそうではありません。私達に必要なのは、神様が、どのように語られるか決められたとも、 心を開き、聞く用意するという応答の準備なのです。私達がそうする時、神様の救いのご計画の中に私達の居場所ができるのです。 

 

 7  ヨセフとイエスの物語では、どちらも神様によって人々に救いをもたらすために育てられ、やがて 銀貨数枚で売られます。ヨセフは創世記37章28節にあるように、20シェケルの銀貨で奴隷として売られ、イエスも同じように裏切られ、30枚の銀貨で弟子ユダによって敵の手に渡されます(マタイ26章15節)。

 

       この世の機能障害をきたしている家族、人身売買、悲劇的な不正義、なんと恥ずべきことで

    しょう。神様の言葉はまたしても、何故このような恥ずべき行為が行われるのを神様が容認し

    ているのか、私達に明白で分かりやすい説明をしていません。しかしながらヨセフとイエスの

    物語の終わりでは、この物語に出てくる深く根の張った悪でさえ、自己犠牲、癒し、修復に現

    れる神様の愛の力に打ち勝つことができないことを描写しているのです。

 

 8  神様はこれらの事を抽象的に為すことはありません。かえって本物の人々を通して(使って)実際の生活上の事象として行われるのです。ヨセフの場合、神様はヨセフを30歳にしてエジプト全土を指導するリーダーの地位に据えるのです(創世記41章46節)神様の目的はただ単にヨセフの必要を満たすだけではありません。それをはるかに超えてヨセフを様々な国の多くの人に身体的な健康と食料保障を含めた生活を与え(保証する)ることでした。イエスの場合も同じです。ルカ3章23節では、”イエスは、神と人々のために特別な働きを始められた時、およそ30歳であった。”と記されています。神様のイエスへの願いは、イエスの個人的な必要を満たすことを大きく超えたところにありました。神様は、言葉で尽くせぬほど深く愛したその一人子に不正義に直面し身体的な苦痛を与え、またそれ以上のことをさせたのです。

 

      これは、私達がこうあるべきと思うように人生がたちいかない時、思い起こすことです。

     神様は時に、神様を信じる人々を大変不利な状況に置くことがあります。それは神様の良い

     目的のため神様を信じる人々を用いようとする様々な方法を神様ご自身が持っておられるから

     です。神様が私達の人生において悪いことが起きるのをお許しになる時、是非にヨセフとイエ

     スの物語を思い起こしましょう。私達の困難は神様が私達を罰しているとか私達のことをど

     うでも良いと思っているとか、神様がそこにいない(働かれない)というようなこでは必ずし    

     もないのです。これらの困難はしばしば、単に私達の人生が主に私達だけのものではないこと

 を意味しているのです。これらは神様からの贈り物です。他者の利益のために与えられるものです。私達自身の利益としても(他者から)与えられるように。勿論ではありますが、そのほとんどのものが神様ご自身の栄光のためなのです。

 

 

5

      

  神様がいつもこれら(私達が思う困難)をこのように考えることができるように祈りましょ

     う。

 

    私達を守り、与え、赦し、立ち返らせて下さる神様、今日私達は、ヨセフとイエス様の話を通しあなたが救って下さる神様であることを学びました。私達は、聖書の当時とは違う時代と場所に住んでいますが、私達もまた家族や親しい人々との間でさえ人間関係において傷ついている者です。私達はまた、未熟で過去の馬鹿げた行動の影響を引きずって生きている者です。この社会には不正、自然災害や私達では制御できない大きな問題があります。だからこそ私達は様々な意味において聖書の登場人物らしくあらねばなりません。

   

 このことを思い、あなたの素晴らしい約束の故にあなたに感謝致します。神様を愛する者には全てのことを神様が働かれて益としてくださる(ローマ8章28節)。私達は、神様あなたがこのことをヨセフとキリストの生涯において為されたことをしりました。どうぞ私達の生涯、その全てにおいて、特に私達が傷ついているところにおいて、 あなたの良き働きが為されますようにお願いします。 自分を救うことができない私達には神様あなたの助けが必要です。”神様は全てのことに働かれます。 ”  物事はその事だけで解決できないことを知っていますし、私達の世界において起こる悪い事が何故そうなるのか全ての答えを知りません。 また私達の能力だけでこれらを修復することもできないと知っています。神様あなたの聡明で、愛に満ち、全能の御手に私達の生涯の全ての部分をゆだねることができますから感謝します。私達は今こそ委ねます。私達の救い主主であるキリスト御名において。アーメン。

    

参考

 

Ferguson, S. B. (n.d.) “God Meant It for Good.” Retrieved July 9, 2017 from https://www. youtube.com/watch?v=LveZ5sRqRz4

Rogers, A. (April 3, 2016). “Joseph: A Portrait of Jesus.” Retrieved July 9, 2017 from https://www.youtube.com/watch?v=53IqVEWQByM

Smith, W. (1863). Smith’s Bible Dictionary. Boston: John Murray. Retrieved July 12, 2017 from http://www.biblestudytools.com/dictionaries/smiths-bible-dictionary/zaphnath-pa- aneah.html

 

*(どれだけ好きなんだか!! 贔屓ですねーって 訳者の勝手なつぶやき)