深みに漕ぎ出す!

2017年7月9日(日)主日礼拝「深みに漕ぎ出す!」ルカ5:1~11佐々木俊一牧師

■7年前、イギリスBBCの番組で、イエス・キリストの行なった奇蹟をアメリカの有名なイリュージョンマジシャンが検証するというのをやっていました。彼は聖書の舞台であるイスラエルに行って、イエスが行なった奇蹟の中からそのいくつかをやってみようと試みました。たとえば、水をワインに変えたり、水の上を歩いたり、嵐を止めたり、復活のシーンを再現したりして見せました。彼は一通りやり遂げました。しかし、それらはすべて現代のテクノロジーを使って、事前に時間と労力をかけて舞台を設定したうえで演出することのできることでした。イエスの時代にはそのようなテクノロジーはありませんでした。ですから、イエスが行なった奇蹟はまさに全知全能なる神の力によりなすことのできた奇蹟であるという結論だったと思います。

 今日の聖書箇所もそんな奇蹟の中の一つとして数えられる出来事です。人知を超えた全知全能なる神様だけがなせるわざです。

■1節~3節 今日の箇所の舞台はガリラヤ湖です。ガリラヤ湖にはいくつかの呼び方があります。ルカ5章1節ではゲネサレ湖となっています。ほかに、キネレテの海とかティベリアの海とも呼ばれています。ガリラヤ湖はイスラエル北部にある湖です。水面下200メートルのところにあります。ガリラヤ湖の水はもっと北にあるヘルモン山などの高い山々から流れて来ます。そして、100キロメートル南にある死海に注ぎ込んでいます。これら二つの湖の間を流れる川がヨルダン川です。ガリラヤ湖は淡水湖で魚がたくさん生息しています。それに対して、死海は人が浮いてしまうほどに塩分濃度が高く、生き物は生息できません。

 ガリラヤ湖にはたくさんの魚がいます。ですから、今でも漁をして生計を立てている人々がいます。また、観光業も盛んで、船での移動が観光客の人気になっています。宮の納入金として納めるための銀貨が出てきたという魚の話の元になっているピーターフィッシュ(ペテロの魚)も観光客に人気があります。

 ガリラヤ湖畔にあるカぺナウムという町で、イエス様が岸辺に立って群衆に向かって話をしていました。群衆は、イエス様に押し迫るほどの熱心さで聞いていたようです。岸辺では、漁師たちが舟からおりて網を洗っていました。イエス様は、シモン(ペテロ)という名の漁師に頼んで舟を陸から少し漕ぎ出してもらいました。そして、座って話を続けました。イエス様は、ガリラヤ湖の岸辺で人々によく話をされたのだと思います。似た記事がマタイの福音書とマルコの福音書にもあります。

■4節 イエス様は話を終えると、シモンに言いました。「深みに漕ぎ出して網をおろして魚をとりなさい。」 結果はどうだったでしょうか。大漁でした。このところで3つのことをお話ししたいと思います。

①イエス様(神様)は豊かに報いてくださるお方である。

 イエス様はシモンの舟に乗せてもらった後、シモンに命じたのではなく、頼んで(お願いして)舟を岸辺から離してもらいました。すでにこの時シモンは、イエス様の評判を聞いていたと思われますし、何度かイエス様に会っていたとも思われます。しかし、たとえそうであっても、この時点で信頼するほどの仲ではなかったでしょうし、親しかったわけでもありません。それでも、シモンは、イエス様の頼みを聞いて舟を出してあげました。シモンのちょっとした親切心だったのかもしれません。または、多少、イエス様に関心があったのかもしれません。そんなシモンに対してイエス様は、大漁をもって報いてくれました。私たちは報いを期待してやるわけではありませんが、神様のために、あるいは、人のために行なう行為に対しては、神様は大いに報いてくださるお方です。

②イエス様は対等にお付き合いしてくださるお方である。

 ここでちょっと考えてみたいのは、イエス様の態度です。イエス様は本当にいつも私たちに良い模範を示してくれます。横柄な態度でシモンに命じたのではありません。お願いして舟を陸から少し離れたところに移動してもらったのです。命令したのではなくてお願いしたのです。イエス様は神様です。けれども、イエス様は上から目線で人々を見てはいませんでした。どんな人に対しても分け隔てなく礼儀をわきまえていました。イエス様が権威を行使するのは、悪い者や悪霊や悪魔に対してです。貧しい者や嫌われている者に対してでさえ、イエス様の態度はいつも人への礼儀と尊厳をわきまえていました。イエス様は誰とでも対等にお付き合いしてくださるお方です。神なるお方がそうなのですから、私たち人間はお互いにもっとそうあるべきだと思います。

■5節~7節

③疑いつつも従ってみると、わかることがある。

 人は疑いやすいものです。しかし、疑いつつも、従うのと従わないのとでは結果が違います。文句を言いつつも従うのは、文句を言わずに従わないよりも、ずっとずっと良い結果を見ることができます。マタイ21:28のたとえはそのことを意味していると思います。あとで読んでみてください。

 シモンはプロの漁師です。漁についてはイエス様よりよく知っているという自負があったと思います。ガリラヤ湖の漁の画像を見てみましょうか。ガリラヤの漁師の常識として、漁は暗いうちに行うものだったのです。それなのに、イエス様は普通じゃ考えられないようなばかばかしいことを求めて来ました。しかも、一晩中働いたのに一匹も獲れなくてがっかりしている時にそんなことを言われたのです。疲れているのに網の手入れをして、やっとひと段落しようとしている時に、また「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」などと言われたら、頭に来ても当然です。しかし、シモンはイエス様の言われたことを拒否しませんでした。普通だったら怒りだしてしまうところでしたが、何しろ有名な先生の言うことでしたから、疑いつつもシモンはイエス様の言われたことに従ってみました。すると、たくさんの魚が網にかかり、網が破れそうになりました。他の舟の応援が必要になるほどでした。

■8節~9節 従ってみた結果、シモンにわかったことがあります。それは、イエス様が神様のように恐れ多いお方であるということです。ですから、シモンは、イエス様の前にひれ伏しました。ぶつぶつ言いながらも従うのと従わないのとでは結果が違うのです。私たちはいま信仰の道を歩んでいます。いつも調子が良いわけではありません。神様に文句が言いたくなることがあるでしょう。正直言って、1度や2度はやめたくなったことがあるのではないでしょうか。文句を言いながらも、それでも、信仰の道を選び続けるならば、その報いは必ずあるのです。疑いつつも従ってみるとわかることがあります。ぶつぶつ言いながらも従い続けるならばわかることがあるのです。もしも、シモンがイエス様の話を聞いて、自分はプロの漁師だから、素人の言うことなんか受け入れられないという態度であったとしたら、シモンは神様のわざを見なかったでしょう。

■10節~11節 「深みに漕ぎ出す」ということが、シモンにとっては実のところどういうことだったのでしょうか。シモンはイエス様の言われるとおりに深みに漕ぎ出して網を放ちました。その結果、たくさんの魚を獲ることができました。非常にエキサイティングな体験です。しかし、シモンにとって「深みに漕ぎ出す」とは、もう一つ他の意味がありました。どちらかというと、そのことを神様はシモンに与えたかったことなのです。それは、「あなたは人間をとる漁師になる」ということでした。つまり、それは、福音を人々に宣べ伝える働きをする人になるということです。そのために、シモンは何もかも捨ててイエスに従ったとあります。そのように書かれてはいますが、シモンには親も妻も家族もありました。何もかも捨てたということは、彼らの経済的なことやその他もろもろの必要に対する責任を放棄したということではありません。捨てたというより、神様にゆだねたと言ったほうが良いでしょう。聖書には具体的に書かれていませんが、きっと、神様の何らかの助けがあったことと思います。

■私たちはそれぞれの人生の中で、「深みに漕ぎ出しなさい!」というイエス様のことばが響いてくる、そんな人生の岐路を経験したことがあるかと思います。私もそんな経験をしたことがあります。私自身、神様の導きを信じて牧師の道を選びました。それは、私だけでなく、妻にとっても、深みに漕ぎ出すことを意味していました。その後、いいこともあればそうでないこともありました。ただ辛く苦しいだけの歩みではなく、あるときは楽しく喜ばしくもありました。しかし、その結果は開拓伝道の失敗でした。結果だけを考えるならば、私たちの選択は神様の御心ではなかった、間違っていたということになるでしょう。けれども、その中身を見るならば、その経験を通して神様の愛と恵みにふれたり、自我が砕かれたり、主の前にへりくだることを学ばされたり、主への信頼が強められたりするような機会が与えられました。結果は失敗でしたが、神様はすべてを益としてくださいます。その後、一度は牧師として立つことはしばらくないだろうと思っていたのですが、不思議な神様の導きによって、オープン・ドア・チャペルに来ることになりました。あれから早9年になります。

 今、私たちにとって、「深みに漕ぎ出す」とはどういうことでしょうか。シモンがイエス様の具体的な指示に従って一歩踏み出してみると、神様のみわざを見ました。その結果、シモンは恐れをもってイエス様のみ前にひれ伏しあがめました。その思いは、さらに、シモンを霊的な深みへと導きました。そんな事の繰り返しの中で、シモンはさらに霊的な深みへと漕ぎ出し、神様のみわざをなす者として立てられていきました。

 シモンのように、私たちもそれぞれの人生の中で深みに漕ぎ出すように導かれることがあると思います。深みに漕ぎ出していくとき、私たちも神様の導きや神様のわざを体験することがあると思います。その時私たちは、シモンのように神様にふれられて神様のみ前にひれ伏して、さらに霊的な深みへと導かれていきたいと思います。それではお祈りします。