みことばを受ける

2017年7月2日主日礼拝「みことばを受ける」聖書箇所:第一サムエル記3:1~10

                                    佐々木俊子姉

■サムエルとその生い立ち

 サムエルはエルカナとハンナの子として生まれました。エルカナには二人の妻があり、もう一人の妻には子どもがありましたが、ハンナは不妊の女で、子どもがありませんでした。彼らは毎年、シロにある神の宮へ行ってそこで礼拝をし、いけにえを捧げるのをならわしにしていましたが、ハンナはある年、シロの宮で自分に子どもを与えてくださるように主に祈ります。『もしこのはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。』宮で祭司として仕えていたエリは、『安心して行きなさい。神があなたの願ったその願いをかなえてくださるように。』と彼女を祝福します。主は彼女の願いを聞き入れられました。ハンナはみごもり、男の子を産みます。その子が乳離れしたとき、(おそらく3、4歳)ハンナは約束通りサムエルを連れて宮に行き、祭司エリにその子を委ねます。ハンナは自分の誓を主に果たしたのでした。

 今日読んでいただいた聖書箇所はサムエルが少年になったときのことです。サムエルに初めて神様の声がありました。サムエルは神様からの声と気づかずに、エリが自分を呼んだのだと勘違いしてしまい、エリのところに行きます。そんなことが三度あり、エリは神様がサムエルをお呼びになったのだと気づきます。そこで、もし今度呼ばれたなら、『主よ、お話しください。しもべは聞いております。』と申し上げるようサムエルを諭しました。サムエルが初めて聞いた主からのみことばは、残念ながらエリの家への裁きでした。エリの息子たちは主に忠実な祭司でなかったばかりか、主に逆らうようなことさえしていたのです。

■サムエルの召し

 第一サムエル記の2章35節を見ると、神様は『わたしは、わたしの心と思いの中で事を行う忠実な祭司を、わたしのために起こそう。彼は、いつまでもわたしに油そそがれた者の前を歩むであろう。』と語っておられます。神様はエリの息子たちに代わり、主のみこころに忠実な者をさがしておられ、また油注がれた者すなわち、王の前を歩む者、王を導く者を探しておられました。

 旧約聖書の中でサムエル記の場所を見てみると、士師記(ルツ記もありますが)と列王記に挟まれているのがわかります。サムエルは最後の士師(さばきづかさ)と言われ、最初の預言者とも言われています。士師の治める時代と王の治める時代の狭間にあってひとつの時代を導いた人ということができるでしょう。

サムエルは主の御心にかなった祭司として主に仕えることになります。イスラエルの最初の王、サウルに油を注いで王とし、サウルが主に従うのをやめたときには、次に王として見出されたダビデに油を注いで王としました。

■祭司の役割

 ここで祭司の役割を考えてみたいと思います。祭司は神と人との仲保者でした。神と人との間に入って、仲介をするのです。旧約の時代には人の罪を動物の血によってあがなっていました。祭司は動物を殺してその血を注ぎ、罪の赦しを求めました。香をたき、律法を民に教え、主のみこころを訊ねました。それが祭司の役目でした。

 では、イエス様が十字架で私たちの罪のあがないとなってくださった今、祭司の役割をするのはだれなのでしょうか?新約聖書でイエス様のことを大祭司と呼んでいるところがあります。イエス様は大祭司です。では祭司はだれなのでしょうか?・・・それは私たちです。イエス様を信じる者たち、それが祭司です。万人祭司ということばがあります。信じる者は全て祭司であるという意味です。私たちは今日、私たちの罪の犠牲となって死んでくださったイエス様の血潮を携えて聖所に入ることができます。聖所はおろか、かつては年に一度大祭司しか入ることのできなかった至聖所にまで入ることができます。そこは神様のご臨在の満ちあふれた場所です。親しく神様と交わることができるのです。わたしたちはこの祭司の務めを任じられていると同時にこの恵みに預かっているということを心に留めましょう。

 今日の聖書箇所で、神様は祭司であるサムエルに語り掛けられました。では神様は祭司である私たちに今日も語り掛けられるでしょうか?もう語り掛けられないのでしょうか?・・・語られる、と私は思います。いえ、むしろ神様は語りたいと思われているでしょう。愛する者たちに語りたい、語らせてほしいと。

■自分の証

 神様はいろいろなことを通して語られると思いますが、多くの場合は完成された神のことばである聖書を通して語られるように思います。聖書は理性によって、文脈通りに読むことが基本であり、土台です。それはすごく大切なことです。でもそれだけではなく、みことばから非常に強く語られた経験のある方がおられると思います。このみことばが私に強く迫ってきたとか、このみことばによって本当に励ましを受けたとか、このみことばによって私は人生の目標が与えられたとか、このみことばによっていたされた、ときには叱られた、そういった経験をされている方が何人もおられるでしょう。

 今から16、7年前のことですが、私の主人が過労とストレスからひどい耳鳴りとめまい、そして不眠になったことがあります。耳鳴りはものすごくひどくて、セミが頭の後ろに3、40匹とまって鳴いているようだと言っていました。祈っても祈っても状況は変わらず、眠れない日が何日も続いて、もう主人は体も心も参ってしまいました。別れてお互いに実家に帰ろうかなどと言い出したこともありました。私もどうなるのだろうと心配で、過敏性大腸症候群(心配や不安、緊張が元で、ところかまわず急にお腹が痛くなる。)になってしまいました。そんなある日、3人でホームセンターに行きました。(ここには行けたようです。)子どもとふたりで通路を歩いているとき、急にみことばがやって来ました。第一ヨハネ4:6でした。『私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。』ええっ?ていう感じでした。思いがけないことでした。でもみことばを聞いたあと、「ああ、私たちは大丈夫なんだ。」と気づきました。「私たちは大丈夫。」イザヤ55:11に『そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』と書かれています。神様から来たみことばはむなしく地に落ちないのです。かならずその通りになるのです。ですからみことばが来たらそれでハレルヤなのです。その後すぐにではありませんが、主人の耳鳴りはだんだん小さくなり、めまいは軽くなり、眠剤を飲んでですが眠れるようになり、牧師を続けることができるようになりました。みことば通りになったのです。

■まとめ

 今日は『みことばを受ける』というテーマでお話しさせていただきましたが、私たちは神様に対してサムエルのように、『お話しください。しもべは聞いております。』という姿勢をもって聞いていきたい、主のみことばを受け取っていきたいと思います。