エクレシア、神に召し集められた人々

2017年6月4日主日礼拝<エクレシア~神に召し集められた人々>使徒2:38-42 佐々木俊一牧師

■今はもう放映していませんが、以前、ファミリーヒストリーという番組をよく見ていました。有名人のルーツを調査するドキュメンタリー番組でした。ルーツを遡っていくと、それぞれの家系に展開される感動的なドラマがありました。ある人々は、江戸時代や戦国時代にまで遡っていたように思います。私たちにもそれぞれにルーツがあります。でも、どこまでわかるでしょうか。しかし、考えてみると、日本人もアメリカ人もカナダ人もスコットランド人も、みなアダムとエバで一緒になります。肌や目の色が違っても、始まりは同じです。そういう意味で、人類はみな家族と言えます。

  新約聖書では、クリスチャンのことを神の家族と言っているところがあります。これはどういうことなのでしょうか。5月に、ジム先生が、「最初のアダムと最後のアダム」というタイトルでメッセージをしてくれました。肉においては、私たちのルーツはアダムに行き着きます。霊においては、または、クリスチャンとしては、最後のアダム、イエス・キリストに行き着きます。つまり、クリスチャンとしてのルーツは、イエス・キリストにあると言うことです。ヨハネの福音書3章で、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の御国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」とイエス様は言われました。

■今日読んでいただいた使徒の働き2章には、イエス・キリストの十字架の死と復活の後に起きた、とても重要な出来事について書かれています。それについては、旧約時代から予告されていたことであり、イエス様も弟子たちに何度も語っておられたことです。今日はそのことを記念し、お祝いする日なのです。日本バプテスト連盟のカレンダーには、「ペンテコステ」と書かれています。今日はペンテコステの日です。私たちはこの日を、「聖霊降臨日」と呼び、「教会」が誕生した日として認識しているはずです。

  使徒の働き2章には、エルサレムに最初の教会が誕生した時のことが書かれています。イエス様は過越しの祭りの時に十字架にかけられて死にました。しかし、それから3日目によみがえられました。それは、ちょうど週の初め日曜日のことでした。その日曜日から数えて50日目に、ユダヤ教では五旬節というお祭りを行います。この日に、モーセがシナイ山で神様から十戒と律法受け取ったとも言われています。また、この日は、小麦の初穂を神にささげる収穫祭の時でもありました。そして、この日も週の初めの日曜日でした。この時に、聖霊が地上に下られました。イエス様を信じる人々は、この時から教会として動き始めたのです。初めに集っていた人々はみなユダヤ人で、120人ほどでした。しかし、この日、なんと3000人のユダヤ人がイエス・キリストを救い主として信じ、バプテスマを受けたのです。

■使徒2:38を見てみましょう。「そこでペテロは彼らに言った。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。』」

  聖霊、つまり、御霊を受けるためにしなければならないことは何でしょうか。それは、まず、悔い改めることです。悔い改めるとは、自分が罪人であることを認めることです。そして、自分中心の生き方から神中心の生き方に改めることです。しかし、そう簡単には自分中心の生き方から神中心の生き方に変えることなどできるはずがありません。なぜなら、私たちは罪人なのですから。ですから、私たちには救い主イエス・キリストが必要なのです。イエス・キリストが私たちの罪のために十字架に死んでその代価を支払ってくれました。別の言い方をするならば、イエス・キリストが私たちの罪のために、代わって罰を受けてくれました。そのおかげで、私たちの過去・現在・未来のすべての罪は赦され、神のみ前に正しい者として立つことができるようになったのです。これはまさに、イエス・キリストの恵み以外の何ものでもありません。自分が罪人であることを認め、イエス・キリストを救い主として信じることが、聖霊を受けるために必要なことです。そして、その信仰の公への証しが、バプテスマなのです。聖霊を受けた者は御霊によって生まれた者であり、その人は神の家族の一員となるのです。

■次に、使徒2:39を見てみましょう。「なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」

  「この約束」とは、イエス・キリストの救いの約束であり、そして、信じる者に与えられる聖霊のことです。この約束は、まず初めにユダヤ人に与えられました。しかし、それは、ユダヤ人以外のすべての人々にも与えられた約束であることが明らかになっていきます。

  エルサレムにおいて、イエスを信じる者たちへの迫害が激しさを増していきました。彼らの多くがエルサレムから避難し、ユダヤ、サマリヤの他の町へ逃れて行きました。ただ逃げたのではありません。イエス様が救い主であることを他のユダヤ人に伝えながら逃げました。そして、もっと多くのユダヤ人がイエス様を救い主として信じました。人々はさらに北上し、シリアに向かって移動しました。ダマスコ(ダマスカス)やアンテオケ(アンタキヤ)に多くのクリスチャンが集まるようになりました。

■「クリスチャン」という呼び方はいつから始まったのでしょうか。使徒11:26には、イエスを信じる人々がクリスチャンと言われるようになった経緯が書かれています。それは、アンテオケで起こった出来事でした。アンテオケの教会には、ユダヤ人もいれば、ギリシャ人やシリア人もいました。ユダヤ人はふつう、他の民族や国民と一緒に何かをやるということはありませんでした。ですから、当時の常識を破るような驚くべき社会現象としてとらえられたのだと思います。ユダヤ人も、ギリシャ人も、シリア人もみんなが仲良くしているそんな光景を見た周囲の人々は、彼らのことをクリスチャンと呼ぶようになりました。常識を破ることは悪いことばかりではありません。常識を破って良いものが生まれるならば、私たちは、大胆に常識を破って良いものを生み出したいと思います。アンテオケの教会は、このようにして国際的な教会になり、世界に向けて福音を発信するためのベースになっていきました。

■先ほど、使徒2:39に、「私たちの神である主がお召しになる人々」というフレーズがありました。この「お召しになるということばから派生して、「エクレシア(教会)」という言葉になりました。英語では、「call(召集する、召し集める)」となっています。

  マタイの福音書16章を見ると、イエス様が初めて「教会」ということばを用いて、教会について語っています。「教会」が神のご計画であることは疑う余地がありません。教会には、神様の特別な計画があるのです。「イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、わたしを誰だと言いますか。』シモン・ペテロが答えて言った。『あなたは生ける神のみ子キリストです。』すると、彼に答えて言われた。『バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。』」

  「ペテロ」とは、「岩」という意味です。この「岩」の上にわたしの教会を建てるということは、シモン・ペテロが土台になるような特別な人であることを意味するのでしょうか。そうではありません。この岩とは、シモン・ペテロの告白と考えた方がよいでしょう。神の教会は、イエスが生ける神のみ子キリストであるという信仰告白を基盤として、初めて成り立つのです。イエス様が天に戻られた後、聖霊が下られました。それから、神様の特別な計画が教会を通して現されるようになりました。

■オープン・ドア・チャペルも一つの教会です。ですから、イエスが生ける神のみ子キリストであるという信仰告白を基盤としています。そして、オープン・ドア・チャペルはバプテスト教会です。ここで、バプテスト教会についてお話したいと思います。バプテスト教会の特徴として、会衆主義があげられます。会衆主義は、各個教会が牧師の任命をはじめ、すべての権限を持っているのです。これは、聖霊によって「集められた会衆」としての各個教会が聖書の権威と聖霊の自由において、すべてのことを決めることができるという考えなのです。他の教会による干渉や支配の及ぶことのできない独立性を保つ教会なのです。

  バプテストの歴史について少しお話したいと思います。「集められた会衆」という意識が誕生したのは、17世紀の革命期のイギリスです。それまで一般人は、王や領主に属する奴隷のような立場でした。彼らの宗教は生まれながらにして決まっており、王や領主に従属していたのです。そのような中でバプテスト派は、神のみ前での個人の自由と人権を主張し、集められた民としての教会を形成しました。

  バプテスト教会のような会衆主義においては、権限主義型のリーダーシップではなくて、権限が牧師だけに集中することなく、他のメンバーにも分け与えられた、権限分与・参与型のリーダーシップが望ましいと考えられています。会衆主義にとって、教会の主は牧師でも、信徒でもないことを覚えておかなければなりません。イエス・キリストこそが教会のかしらであるゆえに、聖書に根差し、主を主としていく意識的努力が必要です。聖書のことばと主キリストの主権を認め、主のみこころを第一とし、従ってゆく決意なしには、会衆主義教会の秩序を保つことはできません。お一人おひとりの思いや願いは尊重されるべきですが、お互いに主のみこころを求めつつ、主のみこころは何かというところで一致して歩んでいく努力が必要なのです。

   バプテストの教会は、みんなで作り上げる教会です。お一人おひとりが自発的に、そして、主体的に行動する教会です。エクレシア、神に召し集められた人々は、キリストのからだなる教会を愛し、神のみこころを行なうことを喜びとする群れです。オープン・ドア・チャペルを私たちの教会として愛していきたいと思います。教会には神様の特別な計画があります。そして、そこに召し集められたお一人おひとりにも特別な計画があります。そのことを覚えて、エクレシア、神に召し集められた者として歩んでいきたいと思います。それでは、お祈りします。