祈り

2017年5月28日(日)主日礼拝「祈り」ヨハネ16:26~27佐々木俊一牧師

■『祈り』についてどのように考えていますか。祈ったら必ず神様は聞いてくださると思いますか。それとも、聞いてくれることもあれば聞いてくれないこともあると思いますか。

 私自身、正直に言うと、聖書に書かれてあるようにはうまくいかないものだなあと思ったことがあります。その時は、祈ることにどうしてもモチベーションが上がらないと感じました。祈っても祈らなくても同じだろうとか、なるようになるしかないだろうとか、心のどこかにそんな気持ちがあったのです。けれども、そんな気持ちに影響されたままにならないで、過去を思い起こしてみるならば、祈って聞かれた祈りがたくさんあることに気づくのです。祈って聞かれなかった祈りよりも、聞かれた祈りの方が実際に多かったのです。私の気持ちは、聞かれた祈りよりも、聞かれなかった祈りに強く影響を受けていることに気づかされました。

■ヨハネ16:26 「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。」とあります。「その日」とは、いつのことでしょう。それは、イエス様が救いのみわざを成し遂げた後のことです。イエス様は人類の罪のために十字架にかけられて死んで三日目によみがえられました。40日の間、弟子たちの前に現れ、そして、天に戻られました。その後、聖霊が地上にくだられました。聖霊が地上にくだられてから、イエス・キリストを信じる誰もがそのみ名によって直接神様に祈り求めることができるようになりました。  

■マタイ6:8 ここでは、イエス様は弟子たちに、「祈り方」を教えています。神様のことを『天の父』と呼んでいます。このようなことは今までに考えもしなかったことであり、弟子たちにとっては新しいことであったのです。祈る時は神様のことを、『天の父』と呼んで祈るようにイエス様はお手本を示しました。

 さらに、マタイ6:8で注目すべきことがあります。それは、神様は私たちが祈る前から何を必要としているのかを知っているということです。もし、そうであるなら、なぜ、私たちは祈るのでしょうか。祈らなくてもよいのではないでしょうか。

 ことばを話せない赤ちゃんのことを考えてみましょう。母親は赤ちゃんの泣き声や表情によって、お腹がすいているのか、おむつを取りかえてほしいのか、具合が悪いのかがわかります。母親は事前に赤ちゃんが何を必要としているのかを学んでいるのですが、赤ちゃんが合図を送った時に必要としているものを与えるのです。赤ちゃんが成長して自分のほしいものをことばで言えるようになると、たとえば、おもちゃがほしいと言えば、買い与えるでしょう。でも、スマートフォンがほしいとか、アイフォンがほしいとか言ったら、買って与えるでしょうか。与えないでしょう。なぜならば、まだ必要でなないし、高価だし、使うには難しすぎるからです。

 神様は本当に必要なものは与えてくださるお方です。そして、私たちが求める以前に何が必要かを知っておられるのです。しかし、私たちは何が必要かを願い求めなければなりません。それは、神様との関係作りのためです。赤ちゃんが母親に求めるように、私たちも神様に求めるのです。私たちにとって与えられるもの以上に、神様と関わることがもっと重要なのです。  

■ヨハネ16:27 「それはあなたがたがわたしを愛し、またわたしを神から出てきた者として信じたので、父ご自身あなたがたを愛しておられるからです。」

 イエス様のみ名によって祈り求める時、神様は与えてくださいます。神様を愛する者に必要なものを与えることは、神様にとって喜びなのです。私たちはその神様の愛を知る必要があります。

■ご利益宗教について考えてみましょう。ご利益宗教は、神様との関係などはどうでもよいことです。とにかく、自分の願いがかなうならばそれで満足なのです。ご利益宗教とはそういうものです。しかし、私たちの信じる神様はそうではありません。願いがかなえばそれで満足というものではありません。親と子の関係を考えたらよくわかります。親は、子がほしいと言うものを何でもかんでも買い与えるならば、その時はよくても、将来、その子が健全な人間として成長するかどうかを考えると心配です。そのつけを親はいつか必ず支払うことになるでしょう。何を与えるにも愛情が伝わらなければ意味がありません。

■神様は本当に必要なものは与えてくださるお方です。そんな神様と良き関係を築くために、私たちはどうすべきでしょうか。それは、神様を、『天の父』として認めることです。それは頭の信仰から心の信仰に変わることでもあります。

 自分の子供が産まれた時、私はとても嬉しかったのを覚えています。しかし、それ以上に嬉しかったことがあります。自分の子供が自分のことを父親として認識してくれた時です。自分のことを初めて、『お父さん』と呼んでくれたときには本当に嬉しかったのを覚えています。

 私たちが神様を、私たちの『天の父』として認めるとき、神様は喜んでくださいます。ですから、私たちがイエス・キリストのみ名によって、『天のお父さま』と呼んで祈ることは、神様にとって大きな喜びなのです。イエス・キリストのみ名によって神様に祈り求めることは、神様にとって喜びであり、そして、イエス・キリストのみ名によって祈り求めるならば、本当に必要なものは与えてくださるのです。

 しかし、祈り求めてもその通りにならない時があります。そのような時、私たちのリアクションは非常に重要です。神様が「NO」と言った時、その時にこそ、私たちの神様への態度が明らかにされるからです。神様が「NO」と言った時にも、神様を尊ぶことができるでしょうか。神様を『天のお父さま』と呼ぶことができるでしょうか。

■パウロの場合: パウロは祈りの人だと思いますが、パウロが祈った祈りはすべて聞かれたと思いますか。パウロの書簡を読むとそうでないことがわかります。パウロは自分に許された病をかかえながら宣教活動を続けました。もしも、この病がなければ、パウロの宣教はもっとスムーズに楽に進んでいったことでしょう。パウロは自分の病のいやしのために祈りましたが、聞かれませんでした。弱さのうちに神の栄光が現されるというのが、祈りの中で受けた神様の答えでした。

 他にもパウロは多くのことについて祈ったことと思います。たとえば、「移動が守られるように、嵐に会わないように、事故に会わないように、病気にかからないように、過激なユダヤ人による迫害や妨げから守られるように、盗難に会わないように、必要な経済が与えられるように」など、いろいろ祈ったことでしょう。けれども、パウロはこれらすべてのことについて祈ったにもかかわらず、これらすべてのことを体験してしまったのです。祈っていたので、その程度で済んだのかもしれません。祈っていなかったらもっとひどいことになっていたのかもしれません。はっきりしたことはわかりません。しかし、はっきり言えることは、このようなきびしい中を通らされながらも、パウロとその仲間は守られて、神様の働きをやり遂げたということです。

 もしも、祈った通りに聞かれなかったとしても、神様が私たちを守って、与えられた人生の目的や召しをやり遂げさせてくださったとしたら、どうして、神様は私たちの祈りに聞いてくださらないのですかと言えるでしょうか。

 神様に仕えていくことは喜びでありますが、時には戦いでもあります。人生も同じです。人生は喜びでありますが、時には戦いが許されます。ですから、戦いがあることを覚悟しておく必要があるでしょう。

■Ⅱテサロニケ3:1~2 「終わりに、兄弟たちよ。私たちのために祈ってください。主のみことばが、あなたがたのところで、あなたがたのところでと同じように早く広まり、またあがめられますように。また、私たちが、ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように。」

ヘブル13:19 「また、もっと祈ってくださるよう特にお願いします。それだけ、私があなたがたのところに早く帰れるようになるからです。」

 パウロは、祈っても聞かれない祈りがありながらも、しかし、祈りには力があることも認めているゆえに、祈りの要請をしています。祈りは、私たちの気づかないところで何らかの影響力をもたらしているようです。私たちは、神様を『天のお父さん』と呼び、与えられている『イエスのみ名』によって祈り続けたいと思います。それでは、お祈りします。