愛する子テモテへ

2017.05.14主日礼拝「私の愛する子テモテへ」Ⅱテモテ1:1~9a 佐々木俊一牧師

■今日は母の日です。日頃のお母さんたちのご苦労に感謝をし、神様の祝福と恵みがますます豊かに満ち溢れるようにお祈りします。

 女性は母親になると強くなります。そして、歳を重ねるとともに、男性よりも強くなります。みなさんは如何でしょうか。

 旧約聖書から新約聖書まで、多くの女性の名前が出て来ます。一見男性の影に隠れて女性の活躍が見落としがちになりますが、女性の活躍がなければ神様の計画が成就することはなかったでしょう。新約聖書のあるところにおいては、イエス様への熱い思いは女性の方がはるかに上回っていたのではないかと思えるほどです。現在と同様に、初代教会時代も女性信者の方が多かったのかもしれません。

 以前、私はこんなことばを発明したことがあります。「オバンジェリズム」です。女性の中でも子育てを経験してたくましさを備えた婦人の方々が、男よりも力強く伝道の働きしているのをたびたび見ることがありました。その時、女性による力強い「エバンジェリズム(伝道)」ということで造った言葉が、「オバンジェリズム」でした。けれども、不評でしたので、この言葉に封印をしました。ですが、今日また言ってみようと思いました。日本では、女性の方が男性よりもクリスチャン人口が多いですし、女性の方が比較的抵抗なくイエス様のことを他人に伝えたり、教会に誘ったりすることができるようです。そこは本当にすごいなと思います。それでは、今日の聖書箇所を見ていきましょう。

■1節~2節 この手紙はパウロからテモテに向けて書かれた手紙です。ローマでの2度目の入獄中に書かれたもので、間もなく殉教の死を遂げようとしていたパウロの最後の手紙となったようです。

 テモテの父はギリシャ人で、母はユダヤ人でした。テモテの祖母と母は、パウロが初めてルステラという町を訪れたときクリスチャンになったのではないかと思われます。ルステラという町は現在のトルコ中央部より少し南に下ったところにあります。彼らは以前敬虔なユダヤ教徒であったと思われます。しかし、パウロの宣教活動をとおして、イエス・キリストを救い主として信じたのでしょう。そして後に、テモテはパウロの伝道旅行に同伴するようになりました。テモテがパウロと一緒に伝道旅行をするようになったのは、20代前半の時のようです。この箇所で、パウロはテモテを、「(私の)愛する子テモテ」と呼んでいます。テモテはパウロにとって、自分の息子のような存在だったのです。

■3節~4節 パウロは、昼も夜も、いつもテモテのことを覚えて祈っていました。クリスチャンに対する社会状況は厳しさを増していきました。そんな中で働きを進めていたテモテのことを自分の息子のようにパウロはいつも気遣っていたのです。ですから、パウロはテモテのことを思い起こすたびに神に祈りました。そして、一生懸命神様に仕えるテモテのことを感謝しました。

 パウロはローマ、テモテはエペソにいて、二人は遠く離れて別々に宣教の働きをしていました。互いに互いの労苦を理解し合い、互いに会うことを切望していましたが、このとき、それは難しいことであったようです。パウロは何としかしてテモテに会いたいと願い、会って直接励ましたいと思い、そうすることによって、共に喜びに満たされたいと願いました。

■5節~7節 パウロはテモテの信仰を「純粋な信仰」と言っています。「純粋な信仰」とはどのような信仰でしょうか。「純粋な」の意味には、真実で嘘のない、本物という意味があります。真実で嘘のない、本物の信仰。私たちも真実で嘘のない、本物の信仰者にふさわしい歩みを心がけていきたいと思います。そのような信仰はまず、テモテの祖母ロイスと母ユニケに宿ったとあります。そして、テモテにもその純粋な信仰が宿っていることを、パウロは確信していました。だからこそ、パウロはたとえ若くてもテモテを同労者として選んだのです。テモテの祖母と母は、テモテに良い影響を与えていたのでしょう。父親のことは何も書かれていないのが気になりますが、しかし、それにしても、祖母ロイスと母ユニケの信仰はテモテに良い模範を示していました。そのことがテモテに純粋な信仰が宿る大きな要因となったことは言うまでもありません。私たち大人には子供たちに対して責任があります。人としても信仰者としても、できる限り良い模範を示す責任があります。しかしながら、私たちは人としても信仰者としても、不十分な者であることを知っています。ですから、その不足を補うために、祈るしかありません。子供たちのために祈ることがとても重要です。

 パウロには、テモテに是非とも思い起こしてほしいことがありました。それは、パウロの按手をもって神様がテモテの内に与えた賜物です。その賜物を再び燃え立たせるように励ましています。その賜物とはいったい何なのでしょうか。ヒントが7節にあります。それは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。テモテはもともと、臆病で人と関わるのがあまり得意でなかったのかもしれません。そんなテモテでしたが、神の権威の下、パウロの按手によって受けた賜物がありました。それが、力の霊、愛の霊、慎みの霊です。自信を無くし、消極的になりがちなテモテに、神様には不可能はないという信仰が再度吹き込まれたにちがいありません。能力によらず神の霊によって宣教は進んで行くことをテモテは再確認させられたのだと思います。

■8節~9節a 現在のクリスチャンも、パウロやテモテの時代のクリスチャンと似たような問題をかかえているのではないかと思います。人の悩みは今も昔もあまり変わりません。イエス・キリストを他人に伝えるのを恥ずかしいと思うのは、科学が発達した現代に生きるクリスチャンだけではないようです。テモテも恥ずかしいと思ったことがあるのです。クリスチャンは弱々しく見られたり、劣っているように見られたり、少数派であることが気になったりしませんか。そこで、パウロはテモテに言うのです。「あなたは神によって選ばれたのだ」と。神の選びによってテモテが救いへと導かれたこと、そして、神の選びによって宣教の働きへと召されたこと、それはけっして、人の思いによるのではなく、神の思いによって、神の計画によって導かれたことであることをテモテが確信できるように、パウロはエールを送っているのだと思います。つまり、それは神様からテモテへのエールでもあるのです。

■今日の聖書箇所をとおして二つの事をしっかりと受け止めたいと思います。一つは、パウロにとってテモテは、「愛する子」であったということです。パウロは独身でしたから、実の子どもはいませんでした。しかし、パウロにとってテモテは、実の子以上に自分の愛する子であったのです。パウロはその愛する子テモテのことを神に感謝し、喜びました。それはまた、テモテが神様にとって愛する子であり、神様はテモテのことを喜んでいるということでもあるのです。パウロをとおして、神様の思いがそこに表されているのだと言ってよいと思います。マタイ3:17に、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」とあります。このところには、父なる神が、ヨハネによってバプテスマを受けた子なるキリストを喜んだ時のことが書かれています。パウロはそのところと同じ表現を用いて、テモテを「私の愛する子」と呼んでいるのです。そして、そのことをとおして、私たちもまた、神様にとって「愛する子」であるということを知らなければなりません。私たちのことも、神様は喜んでおられるのです。私たちが神様を選んだのではなくて、神様が私たちを選び、そして、それぞれの立場や役割や働きや、また、教会へと導いてくださったのです。ですから、私たちは、そのところで、臆病の霊ではなくて、力と愛と慎みの霊によって神様に仕えたいと思います。

 もう一つは、パウロは、いつも愛する子テモテのために祈ったということです。みなさん、ご自分のお子さんのために日々祈ってください。また、テモテはパウロにとって、神の家族における愛する子でした。オープン・ドア・チャペルは神の家族です。その中には愛する子がたくさんいます。そのお一人お一人を覚えて祈ってください。祈るのと祈らないのとでは、将来に大きな違いをもたらすことでしょう。祈り続けるために忍耐が必要です。祈りの手ごたえを見るまでには時間がかかるものです。しかし、聖書によるならば、祈りをとおして神様が働かれることは確かなのです。ですから、祈りましょう。それではお祈りします。