天国への道

2017.04.23主日礼拝「天国への道」ヨハネ14:6佐々木俊一牧師

■イエス・キリストはきのうも、きょうも、いつまでも、私たちの希望です。死の力を打ち破りよみがえられました。そして、今も生きておられます。

  「死」というテーマは、人間にとって古くからある難問だと思います。多くの人々が「死」について論じてきました。「死」について共通して思うことは、死に対する不条理です。なぜ人は生まれて、そして、死ななければならないのか、その理由がわかりません。死んだらどうなるのか、考えれば考えるほど心は暗くなります。「死」は、人間に絶望感と恐怖感を与えてきました。ですから、死についてはあまり考えないほうがよいというのが日本人の一般的な考え方だと思います。

  しかし、イエス様は「死」という暗闇の中に、光を灯してくださいました。その光のおかげで、「死」はもはや恐いことではないということがわかってきました。もちろん、恐怖心がすべて取り除かれるわけではありません。未体験のことについては、誰でも恐怖心を持つものです。

  イエス様は十字架に死んで3日目に復活しました。信じられない話ですが、本当の話です。現代は、偽装や詐欺が当たり前のような時代になってしまいましたが、イエス様の時代においても同じように偽証や偽装工作が行われていました。興味深い記事が、マタイ28章にあります。読んでみましょう。マタイ28:12~15、「女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こった事を全部、祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、こう言った。『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った。』と言うのだ。もし、このことが総督の耳にはいっても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」そこで、彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。」イエス様が復活されたとき、イエス様の復活が偽装工作に思われるように、ユダヤ人の偉い人たちが偽装工作を行ないました。彼らはローマ兵に多額のお金を与えて、イエスの弟子たちがイエスのからだを盗んで行った、と証言するようにしたてたのです。この話が事実として広くユダヤ人の間に広まってしまったことが聖書に書かれています。

■それでは、今日の聖書箇所を読んでみましょう。「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」

  イエスは彼に言われたと書かれていましたが、彼とは誰のことでしょうか。前の節を読んでみると、それは、トマスであることがわかります。あの疑い深いと評されているあのトマスです。トマスはイエス様に何と質問をしたのでしょうか。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」イエス様とトマスの会話がかみ合っていないのがわかると思います。それは当然です。トマスにとって、イエス様が十字架にかかってこの地上からいなくなってしまうなんてことは予想もしていないことでした。イエス様は、この地上にユダヤ人のための国を作ってくださるのだという計画をしっかりと握っていたのです。イエス様がヨハネ14:1~4で言っていることは、もうじきこの地上を去って父なる神のおられる天に行かれるということです。その目的は、「あなた方のために場所を備えに行くことだ」、と言っています。そして、「場所を備えたら、またこの地上に戻って来てあなたたちを迎える」、とも言っています。また、イエス様は、「わたしの行く道はあなたがたも知っている」、と言うのです。でも、トマスには何のことかわかりませんでした。イエス様の行く道とはどんな道なのでしょうか。イエス様の行く道とは、父なる神のおられる天の御国に通じる道です。また、人々の救いのために十字架に向かう道です。そして、イエス様は、「わたしが道だ」と言うのです。その道は、人が天の御国に行くために通らなければならない道です。イエス様を通してでなければ、だれひとり天の御国に行くことはできません。この道を設けてくださったのがイエス様です。

■マタイ27:51を見てみましょう。「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。」と書かれています。神殿の幕とは、聖所と至聖所を仕切る垂れ幕のことです。年に一度だけ、大祭司だけが、その垂れ幕を通り抜けて至聖所に入ることができました。そのとき、大祭司は必ず小羊の血を携えて入らなければなりませんでした。その小羊の血は、大祭司と民たちが犯した罪を贖うためのものでした。このように、神様にお会いするためには、垂れ幕という隔たりを小羊の血を携えて通り抜けなければなりませんでした。

  マタイ27:51に、神殿の幕、つまり、聖所と至聖所を仕切っていた垂れ幕が上から下まで真二つに裂けたという出来事について書かれてありました。その出来事は何を意味するのでしょうか。それは、神と人との間にあった隔たり(壁)が取り除かれたということです。それによって、私たちは、大胆に神様のみ前に出ることができるようになりました。

■へブル10:19~20にこのように書かれています。「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」 

  マタイ27:51にある神と人とを隔てていた神殿の幕は、上から下まで真二つに引き裂かれました。それは、イエス・キリストのからだを象徴的に表していると言えます。イエス・キリストのからだが引き裂かれ、打ち砕かれることによって、神と人とを隔てていた障害物は取り除かれました。イエス・キリストによって、いつでも自由に神様に近づくことができるようにされたのです。それは、私たちがイエス・キリストをとおして、父なる神のおられる天の御国に入ることができることをも意味しています。そういうことで、イエス様は天の御国に通じる「道」と言えるのです。

■終わりに、コロサイ1:20をお読みしたいと思います。「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」このように、イエス・キリストがその血によって私たちに神との平和をもたらしてくださいました。私たちを神様から遠ざけてきた罪は、私たちの救い主イエス・キリストが罪そのものとなって十字架の上で処分されました。

  イエス様は、神と人との間に立って、両者の和解を成し遂げてくださいました。十字架は、神の怒りと責め、そして、人の怒りと責めが爆発したところです。神は人間の罪に対する怒りとその責任をイエス・キリストに負わせました。そして、人間は自分たちの怒りと罪の責任をイエス・キリストになすりつけました。責任転嫁です。こうして、イエス様は罪の後始末を人間に代わってしてくださったのです。しかし、罪の後始末をして死んで終わったのではありません。三日目によみがえられました。そのことを信じる人は、同じように終わりの日によみがえります、とイエス様は言われました。イエス様のことばをそのまま信じましょう。天国への道、それは、イエス・キリストです。それでは、お祈りします。