復活の信仰の証し人

2017年4月9日主日礼拝「復活の信仰の証し人」<Ⅰコリント15:1~8>佐々木俊一牧師

■今日は、イエス様がエルサレムに入場された棕櫚の日曜日です。イエス様はゼカリヤ9:9に書かれてあるとおり、ロバの子に乗ってエルサレムに入場されました。人々は熱狂し、イエス様の通る道に自分たちの上着を敷いたり、棕櫚の木の枝を取って敷いたりして、大歓迎しました。エルサレム入場後すぐに神殿に入られたことを考えると、イエス様はオリーブ山の麓にある東の門を通り抜けてエルサレムに入ったのでしょう。その門を通り抜けると、すぐそこに神殿がありました。現在、この門はエゼキエル44:1にあるように、封鎖されています。1000年くらい前にモスリムの人々によって封鎖されたのだそうです。しかし、エゼキエル書によるならば、イエス様が再び戻って来られる時には、この門は開かれているのだそうです。

 イエス様はエルサレムに入場された後、5日後には捕らえられて十字架につけられてしまいます。そして、十字架の上で死なれました。

■1節~4節  「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかり保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、」

ここに最も大切なことが書かれています。福音の核心です。 このことばを信じてしっかり保っていれば、このことばによって救われると聖書は言っています。

 救われるとはどういうことでしょうか。何から救われるのでしょうか。人間には一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっていると聖書に書かれています。その裁きによって罪に定められるならば、私たちは神の御国に入ることができません。罪を持ったままでは神の御国に入ることはできないのです。しかし、イエス・キリストは人が罪に定められないように、そして、永遠の死に至らないように、救いの道を設けてくれました。イエス・キリストを信じる者は、神様との間に平和な関係がもたらされます。その人には、聖霊が与えられ、永遠の命が与えられ、罪のない者として見なされ、神の御国に入ることができるのです。この救いはイエス・キリストが戻って来られた時に完成すると言われています。けれども、救いはこの地上に生きている時からすでに始まっているとも言えます。イエス・キリストを信じ、神様と平和な関係を回復することによって、私たちは豊かな人生を送ることができます。霊的に死んだ状態から霊的に生きた状態に回復されたので、以前にはなかった心の満たしや喜びや平安を体験します。これは物質的な豊かさやこの世の楽しみによっては受けることのできない領域です。もちろん、神様は物質的な、肉体的な、あるいは、人間関係のような私たちの必要をもご存知ですから、それらのことについても神様の助けや守りやいやしなどの祝福を体験します。

■5節~8節 「また、ケパ(ペテロ)に現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私(パウロ)にも、現われてくださいました。」

 イエス様がよみがえられたあとのことについて書かれています。ケパ(ペテロ)に現われ、それから、十二弟子や500人以上の兄弟姉妹たちに同時に現われました。当時、彼らの何人かは死んだ者もいましたが、多くはまだ生きていました。その後、ヤコブに現われ、使徒たち全部に現われ、最後にパウロに現われました。彼らは、復活のイエス・キリストの証人です。その中のひとりであるペテロは、Ⅱペテロ1:16でこのように言っています。「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。」彼らはキリストの威光の目撃者なのです。それゆえに、人生をこの地上だけのことと考えるなら何の得にもならないことであるにもかかわらず、彼らは命を惜しむことなく、イエス・キリストの十字架と復活の証人として、この福音を世界に宣べ伝えました。そして、彼らの多くがそのために命を失いました。

■ペテロもそんな殉教者のひとりです。以前の彼は、弟子たちの中でも非常に目立ちたがり屋で、口ほどに強くもなく優れてもいないのに、常に人の上に立ちたいと思っている人でした。実際、イエス様が予告されたとおり、ペテロは鶏が鳴く前に、イエスなんて知らないと3度否定し、呪ったほどです。何という裏切り行為でしょうか。この時、ペテロはイエス様に言われたことを思い出しました。そして、激しく泣いたと書いてあります。イエス様の十字架の死後、彼は自分も捕まって殺されるのではないかと思い、恐くて隠れていました。そして、失望と落胆の中、弱り果てていました。そんなペテロが自分の命を惜しむことなく福音を語る者に変えられたのは、いったい何があったからなのでしょうか。もちろん、それは、復活のイエス・キリストにお会いしたことが大きな理由でしょう。しかし、他にも理由があります。使徒1:8にこのように書かれています。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および、地の果てにまで、わたしの証人となります。」ペテロも他の弟子たちも、聖霊を受けてから大きく変えられて行ったのです。その後、彼らはキリストの証人として歩み、復活のイエス・キリストを宣べ伝えました。彼らは復活のイエスを宣べ伝えただけではなく、彼ら自身が復活の信仰を体験しました。復活の信仰とは、イエス・キリストの復活を信じる信仰であり、また、それを信じる者が同じように復活することを信じる信仰です。でも、それだけではありません。彼らは宣教の働きの中、多くの困難に遭遇しました。これでもうおしまいだと思えるような状況が何度もありました。しかし、それで終わることはありませんでした。働きは進んで行ったのです。復活の信仰とは、私たちにとって、落胆と失望のどん底にあったとしても、それで終わらないという信仰でもあるのです。神様にとっては、それが計画の始まりである場合が、聖書を見ると何と多いことでしょう。

■クリスチャンの重要な召しの一つは、復活の信仰を証しすることです。もうこれで終わりだとあきらめてしまっても仕方ないような状況の中で、神様に信頼し、神様に期待することです。倒れそうでも真っ逆さまには倒れないクリスチャンの生き様をとおして、神様を証しすることです。

 イエス様の弟子たちは困難な中にあっても、聖霊と喜びと感謝に満たされました。私たちも聖霊と喜びと感謝に満たされたいと思います。そして、私たちの人生をとおして、復活の信仰の証し人として生きて行きたいと思います。それでは、お祈りします。