福音、それは神の恵み

2017年3月26日主日礼拝「福音、それは神の恵み」コロサイ1:6 佐々木俊一牧師

「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。」(コロサイ1:6) 

■今日は、私たちにとってとても大切なこと、福音、神の恵み、永遠のいのちについてお話をしたいと思います。            

■コロサイという町は、トルコ南西部にありました。現在のパムッカレ(温泉の豊富なところです)という世界遺産のあるところから南へ少しくだったところです。コロサイにあった教会はパウロが行って直接始めた教会ではありません。パウロの同労者であるエパフラスが始めた教会であると言われています。ここは、ピレモンへの手紙のピレモンや、その手紙に出てくるオネシモもいたところです。コロサイ4:13を見ると、そこには、ラオデキヤとヒエラポリスという町の名前が出て来ます。そこも教会のあった町です。コロサイと同様に、パムッカレの近くにあります。トルコにはローマ帝国時代、教会がたくさんありました。その時代の遺跡が至るところにあります。

■ローマ帝国時代、トルコには、ユダヤ人もギリシャ人もたくさん住んでいました。初代教会時代においては、トルコはアルテミスの女神をはじめとして、数多くの偶像があったところです。そのような環境の中にあっても、クリスチャンの数が増えていきました。偶像の影響を受けて生きていた人々にとって、福音はどのように聞こえたのでしょうか。特に、アルテミスの女神は、人々の思い入れが非常に強く、多額の富を産み出すビジネスの手段でもありました。ご利益宗教として人々の熱心な信仰の対象であり、その祭りに関わる刺激的な楽しみと満足によって多くの支持を得ていました。

  人は、ある商品について、それが本当に役に立つものであり、必要なものであると納得するならば、どんなに高いお金を払ってでも手に入れようとするでしょう。当時、偶像礼拝が当たり前の世の中で生きていた人々の中から、割合からすると少ないとしても、かなりの多くの人々が福音を聞いて受け入れました。それは、彼らが聞いた福音が、彼らにとって本当に必要なものであると理解したので、受け入れたのです。それでは、私たちは、福音をどのように理解しているのでしょうか。私たちは、福音が本当に必要なものであると納得しているでしょうか。考えてみたいと思います。

■月に一度第4金曜日に聖書の学びをしています。昨年10月でやっと、ローマ人への手紙16章を終えました。2013年4月に始まり、2016年10月まで、約3年半にわたってローマ書を学んできました。ローマ書には、義(正しさ)についてしつこいほどに述べられています。律法(規則)を守ることによる義と、信仰による義が対比されています。ローマ書の中心テーマはイエス・キリストを信じる信仰による義です。福音について知るためには、ローマ書を読めばだいたいわかります。ローマ書を読むときには、パウロが言いたいことは何なのかを所々で整理したほうが、福音をクリアにとらえることができると思います。ただ読むだけでは、漠然としかとらえられない結果になってしまうと思います。なぜなら、あまりにもはっきり言ってしまうと、かえって、誤解を招くことになるので、パウロはそうならないようにはっきり言っていないところがあるように思うからです。

  たとえば、どのような誤解が生じえるかと言うと、一つに、イエス・キリストを信じたら、罪を犯すのは自由。清く生きようなんて考えなくてもいい、どんどん罪を犯しても大丈夫。なぜなら、イエス・キリストがそのために十字架で死んでくれたのだからというものです。何となく正しいようにも聞こえますが、ここまで言ってしまうと、神様の意図するところから離れてしまうような気がします。

  次に、イエス・キリストを信じたならば、信じる前に犯してしまった罪は赦されるけれども、信じた後に犯してしまう罪は赦されない。だから、信じた後に罪を犯してはいけないというものです。これはどうでしょうか。これを福音と言えるでしょうか。これだと、私はまったくアウトです。このような誤解は、初代教会の時代にも、今の時代にもあります。ですから、パウロは、できるかぎり福音を正しく理解ができるように説明しようと努めています。

  ローマ書を読んではっきりとわかることは、義人(正しい人)は一人もいないということです。当時、律法(規則)を守って、正しい人だと認められようとしている人々がいました。彼らは、自分たちのことを正しい人だと思っていたようです。これはまったく自己欺瞞の何ものでもありません。聖書はどんなに頑張っても神様の目に正しい人など一人もいないと言っているのです。残念ながら、すべての人は罪人なのです。そう言われると納得のいかない人がいると思います。自分は法律を破ったこともないし、警察に捕まったこともない。どうして、罪人と言われなければならないのかわからないと言う人が必ずいます。けれども、たとえば、心の中である人のことを嫌いだと思ったり、憎いと思ったり、恨んだり、いなければいいのに、死んでしまえばいいのにと思ってしまうことは、そんなに珍しいことではありません。私もそのようなことは過去に幾度もあります。心で思うだけなら咎められることはないでしょう。でも、思っていることを実際に行動で表してしまうならば、処罰されます。イエス様は心に思うだけで、それは罪だと言われました。それは、つまり、すべての人が罪を犯しているのだと言うことです。義人は一人もいないのです。自分の力で義人になろうとしても無理なことです。神様は、神様が与えた救い主を信じ、その信仰によって義人となるように招いています。義人は神のみ国に招待されています。罪があるままでは神のみ国に入ることはできません。でも、罪を認めて救い主をただ信じるだけで、神のみ国に入ることができるのです。

  また、こんな誤解があります。イエス・キリストを信じると、もう罪を犯さなくなるという誤解です。少しは本当かもしれませんが、まったく本当だとは言えません。実は、私も同じような誤解をしていたことがありました。イエス・キリストを信じてバプテスマを受けたら、もうそれからは、罪を犯さなくなると思っていました。しかし、その後も、罪深い思いや欲が自分の内側に起こることに直面し、真剣に悩みました。相談したくても、本当の自分を知られることが怖くて恥ずかしくて誰にも言えませんでした。徐々に喜びは失せて、ただクリスチャンを演じているような日々がしばらく続きました。

  クリスチャンは信仰による義人ですが、それでも、罪を犯します。心の中だけならまだいいのですが、心で思っていることを実際に行なってしまうことがあるのです。旧約聖書にダビデという王様がいました。彼は、新約時代における、クリスチャンと神様の親しい関係を預言的に表している人物です。ダビデは神の選びと恵みによってイスラエルの王様になりました。そんなダビデでしたが、大きな罪を犯してしまいました。殺人罪と姦淫の罪です。部下のウリヤの妻との間に子どもができてしまいました。その事実を隠蔽するために、ウリヤの戦死を偽装し、実行させました。うまくいったかに見えましたが、しかし、神の予見者ナタンによって、その罪は暴露されました。ダビデはその罪を認めました。そして、赦されはしました。しかし、その後の彼の人生は、その罪の結果を刈り取ることによって、非常に辛いところを通らなければならなかったのです。詩篇に、ダビデが必死になって、「神様、私から聖霊を取り去らないでください。」と懇願している箇所があります。これほどまでに、ダビデが神様に「聖霊を取り去らないでください。」と祈ったのは、聖霊が救いの保証だからです。このように、クリスチャンであっても、罪を犯してしまう可能性があるのです。ダビデのように、「神様、私から聖霊を取り去らないでください。」と祈らなければならないほどに、自分を罪の方へ追いやらないように私たちは気をつけたいものです。

  また、パウロでさえ、自分のしていることがわかりませんと言っているくらいです。なぜなら、自分がしたいと思っていることをしているのではなく、自分がしてはいけないと思っていることをしてしまうからだと言っています。罪はいけないとわかっているのにもかかわらず、やってしまう自分がいることにパウロは気づかされていました。もしも、自分がしたくないことをしているのだとしたら、それを行なっているのは、もはや、自分ではなくて、自分の内に住む罪なのだと、パウロは言っています。そして、こう結論づけています。「こういうわけで、キリスト・イエスにある者が罪に定められることはけっしてありません。」と。

■福音について私たちが知っておきたいことを3つお話ししたいと思います。

①私たちはもう罪を犯さなくてもいいということです。ローマ8:12にあるように、私たちは、罪に従って生きる責任から自由にされている者なのです。ですから、私たちはもう罪を行わなくてもよいのだということを心に留めておきましょう。

②もしも、クリスチャンが罪を犯してしまったときには、すでにその償いを救い主イエス・キリストがしてくださっています。罪を犯してしまったときに、神様の愛を失ってしまったと思わなくてよいです。神様が私たちの父であり、私たちが神様の愛すべき子どもであることに変わりがありません。しかし、イエス様が十字架にかけられて死んだのは、この罪のためであったということはしっかりと心に留めておきましょう。

③私たちは自分の力によるのではなくて、御霊と恵みによって、神のみ国を相続する者として日々新しく変えられ、生かされています。報いは私たちの行ないに対して与えられるものですが、恵みは私たちの行ないによらず、受けるにふさわしい者でないにもかかわらず、イエス・キリストを救い主として信じているという理由だけで与えられるものです。私たちには永遠のいのちが与えられています。そして、私たちの向かうところは天の御国です。そのことを心に留めておきましょう。

  私たちは律法の下にはありません。神の恵みの下にあります。私たちは自分の弱さや足りなさのために失敗してしまうことがあります。けれども、それによっていつまでも落ち込む必要はありません。私たちには、新しくやり直す機会が与えられているのです。もちろん、何か社会的責任が生じたときには、その償いはきちんとすべきです。しかし、それでも、回復する機会が与えられているのです。

  私たちは、キリストのゆえに罪赦された者です。その恵みの下を歩み続ける私たちは、ただ形だけきまりを守って正しい者であろうとするのではなくて、神様への愛と他人への思いやりをもって、お互いに赦し合い、愛し合い、仕え合う歩みをしていきたいと思います。そのようにして、キリストの愛が私たちの間で現わされるならば、福音がほんとうに理解され、さらに、実を結んで広がり続けることになると思います。そして、この福音、神の恵みを、多くの人々に届けたいと思います。それでは、お祈りします。