主が備えてくださるから大丈夫!

2017.3.12主日礼拝「主が備えてくださるから大丈夫!」創世記22:12~14 佐々木俊一牧師

■12節 「あなたの手を、その子にくだしてはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」 

 この箇所ではいったい何が起こっているのでしょうか。ここを読む限り、大変な事が起こっていることは推測できます。子どもが今すぐにも殺されてしまうような状況が伝わってきます。22章の初めから読めば、どうしてこんな出来事が起こったのかわかります。子どもの名前はイサクと言います。イサクの父はアブラハムです。アブラハムは彼の息子を殺そうとしていました。しかし、そこへ神のみ使いがやって来てそれを止めたところが、この場面です。

 そもそもアブラハムはなぜ息子のイサクを殺そうとしたのでしょうか。2節にその理由が書かれています。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」神様に呼びかけられ、このようなことを語られたアブラハムが下した選択は、翌朝早く、モリヤの地に向かって出発することでした。

 イサクは、アブラハムが100歳、妻のサラが90歳の時にやっと与えられたたった一人の子どもです。神様の約束によって、奇跡的にも二人の間に男の子が与えられました。神様が与えてくださったその男の子を、今度は神様によって取り去られようとしていました。そんな状況をアブラハムとサラは受け入れることができたのでしょうか。サラについては何も書かれていません。ただわかることは、この受け入れがたい非情な状況の中で、アブラハムは神様の言われるとおりに従ったと言うことです。

 このとき、アブラハムとその家族はベエル・シェバに住んでいました。モリヤの地は現在のエルサレムにあります。ベエル・シェバからエルサレムまではおよそ80キロです。当時歩いて3日かかったようです。モリヤの地に近づくと、アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎをイサクに背負わせ、自分は火とナイフとを手に取って、ふたりは一緒に進んで行きました。すると、イサクは状況の異常さに気づいたのでしょうか、父アブラハムにこんな質問をしました。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えました。「わが子よ。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」と言って、ふたりは歩き続けました。ふたりが神様の言われた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築きました。次に、たきぎを並べ、自分のひとり子イサクを縛って祭壇の上に置きました。このとき、イサクはアブラハムに対しまったく無抵抗であったのか、抵抗した姿は見られません。アブラハムが手を伸ばし、刀をとって自分の愛する子をほふろうとした時です。主の使いが、「アブラハム。アブラハム。」と叫んで、アブラハムを止めました。

 当時の社会的背景や神の計画の奥深さを推し量ることなしに、真に神様の目的を知ることはできないでしょう。旧約時代、偶像礼拝の儀式の中で子どもがいけにえとしてささげられることは珍しいことではなかったようです。それによって神々への献身度がテストされたのかもしれません。しかし、旧約聖書を読むと、神様はそのような習慣を禁じていることがわかります。ですから、神様はイサクをいけにえとして殺すことなど初めから望んではいなかったと思われます。ただ、神様と契約関係にあるアブラハムが神様を何よりも第一にするのかどうかをテストしたことは、12節に書かれてあることから理解できます。

■13節 「アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。」

 神様は初めから計画的に、全焼のいけにえとして一頭の雄羊を備えておられたようです。それにより、イサクは全焼のいけにえとしてささげられることから自由にされました。こうしてアブラハムは、ひとり子イサクの代わりに一頭の雄羊を全焼のいけにえとして神様にささげました。

■14節 「そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名付けた。今日でも、『主の山の上には備えがある。』と言い伝えられている。」

 注釈を見ると、「アドナイ・イルエ」とは、「主が備えてくださる」という意味です。主は私たちにとって私たちの必要を備えてくださるお方であることがわかります。

 モリヤの山はエルサレムにあります。そこは昔、イスラエルの神殿があったところです。現在、イスラエルの神殿跡には、大きなイスラムのモスクが建っています。岩のドーム、または、黄金ドームと呼ばれています。一度そこに入ったことがありますが、中に巨大な岩があります。その岩はガラス越しに見ることができるようになっています。モスリムの人々の間では、その岩の上にムハンマド(モハメッド)が立ち、天に挙げられたと言い伝えられています。しかし、ユダヤの人々の間では、その岩はアブラハムがイサクを全焼のいけにえとしてささげるために祭壇を築いた場所であると言い伝えられています。どちらにとっても、神聖な場所として見なされています。

 「主の山」とは、何を意味するのでしょう。みなさん、この歌を知っていますか。「さあ、みんなで主の山に登ろう。ヤコブの神の家。さあ、みんなで主の山に登ろう。ヤコブの神の家。主は道を教え、我らはそれを行く、シオンからみ教えが出て、御言葉がエルサレムから出る。」 という歌を知っているでしょうか。イザヤ2:3を歌にしたものです。この箇所によるならば、「主の山」とは、「神の家」です。それでは、「神の家」とは何でしょうか。一つは、神殿です。また、一つは教会です。教会はキリストのからだとも言われています。現在、一般的には教会とは教会の建物を指しますが、本当の意味は、キリストを信じる者たちの群れのことです。

 「主の山に備えあり」とは、「主の家に備えあり」と言ってもよいのではないでしょうか。主の家では私たちは何をしますか。神様に礼拝をささげます。神様に賛美をささげます。神様に感謝をささげます。神様に祈りをささげます。神様に私たち自身をささげます。そこに神様の備えもあります。私たちそれぞれの信仰の歩みにおいても、私たちは神様を愛し、神様を求め、神様に信頼し、神様に従う中に、私たちそれぞれに神様の備えがあります。

 私たちはそれぞれに、自分の意志で、イエス・キリストを自分の主(救い主)として受け入れ、従い歩むことを決めました。しかし、その後の信仰の歩みは順風満帆というわけではありません。イエス・キリストを信じたからと言って、人生がばら色になるわけではないのです。いいこともあればそうでないこともあります。嬉しいこともあれば嫌なこともあります。神様は祈りに応え、私たちも祈りの手ごたえを感じることはよくあります。けれども、アブラハムが体験したことほどではないとしても、私たちの信仰をつまずかせるような出来事は起こりえるのです。そんなことだったら、神様を信じても信じる意味がないと思うでしょうか。神様に頼るよりも自分の力で生きる方がまだましだと思うでしょうか。

そこで、私が思うのは、それでも、イエス・キリストを主として信じ、礼拝をささげ、祈りをささげ、感謝をささげ、神様との関係を保ち続けるならば、そのとき初めてわかる領域というものが、私たちの信仰の歩みにはあるということです。私自身、自分が若い時よりも、結婚して家族を持った後の方が、さらに、子育ても終えて年齢を重ねた後の方が、「主の山には備えあり、主の家には備えあり」ということを実感しています。そして、そこに、私たちの大丈夫があり、平安があります。

■終わりに、へブル11:17~19を見てみましょう。「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。』と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」

 へブル11:17~19には、アブラハムに起こった出来事のもう一つの目的が書かれてあります。創世記22:12で、アブラハムとイサクに許された出来事は、神様のアブラハムへの信仰のテストであったことが語られています。そして、もう一つの目的は、未来において起ころうとしている神様の救いの計画を、アブラハムとイサクの出来事をとおして未来の人々によくわかるように示すことでした。へブル11:19の終わりに、「これは型です。」とあります。何の型かというと、それは、イサクとイサクに起こった出来事は、イエス・キリストの型であり、イエス・キリストと十字架のみわざを表していると言うことです。イサクが全焼のいけにえのための木を自分で背負い山道を歩いて行ったように、キリストは罪の赦しのためのいけにえとなるためにご自分で十字架を背負いゴルゴタの丘に向かって歩いて行きました。イサクが全焼のいけにえとしてささげられるにもかかわらず無抵抗の姿で描かれているように、キリストは十字架に架けられるにもかかわらず抵抗することなく罪の赦しのためにいけにえとなりました。また、アブラハムには神様の約束を信じるゆえに、神様はイサクを死者の中からよみがえらせてくださると考えたように、キリストは、十字架に死んで3日目に死者の中からよみがえりました。そして、イサクの代わりに全焼のいけにえとして雄羊が備えられたように、すべての人類のために罪のいけにえとしてキリスト・イエスが備えられました。イエス・キリストが私たちの罪のためのいけにえとなってくれたので、私たちは永遠の滅びから自由にされたのです。

 私たちにはそれぞれの必要があり、それに対する、願いと祈りがあります。それらのことについて、私は大丈夫だろうかと思うことがあります。しかし、主は備えてくださるお方です。主の時に、主の備えを私たちは見ます。「主が備えてくださるから大丈夫」という内なる声を聞いて信仰の歩みを続けて生きましょう。それでは、お祈りします。