主の晩餐

2017.02.26主日礼拝「主の晩餐」Ⅰコリント11:17~34 佐々木俊一牧師

■ここを読む限りにおいて、コリントの教会はなんてひどい教会なのだろう、これでも教会と言えるのだろうか、と思う方も多いのではないでしょうか。しかし、11章の初めでは、パウロはコリントの教会をほめています。パウロがコリントの教会の人々に伝えたものをそのとおりに堅く守っているので、ほめているのです。一方ではほめ、もう一方では警告しています。このギャップをどう理解したらよいのでしょうか。それは、一つの教会と言ってもいろいろな面があるからでしょう。良い面もあれば、そうでない面もあります。人が多ければ多い分、良いことも多いでしょうが、問題も多く発生します。すべてが良くて完全な教会なんてありません。しかし、そうだとしても、コリントの教会の悪いところを放っておくわけにはいきませんでした。そのままでは、いつか必ず分裂して教会が壊れてしまいます。

■17節~22節 「あなたがたの集まりが益にならないで害になっている」と、パウロは言っています。益にならない集まり、それどころか、害になるような集まりとはどのような集まりなのでしょうか。それは、20節以降に書かれています。「食事の時、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるという始末です。」彼らは共に集まる時に一緒に食事をし、この時、いわゆる主の晩餐式を行っていたのでしょう。しかし、彼らのやり方では、もはや主の晩餐を行えるような状態ではなかったのだと思います。他の人のことを顧みることなく自分の空腹をただ満たすための食事会であり、我先にと好きな物を好きなだけ食べ、酔うほどにぶどう酒を飲むそのふるまいは、主の晩餐とは程遠いものでした。そんなコリントの教会の状態を聞いたパウロは、「あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。」と叱責しています。このところから、ここで言われている分裂とは、裕福な者たちと貧しい者たちとの間の分裂と考えられるでしょう。後からやって来る人々の多くは貧しい人々や奴隷たちが多かったようです。我先にと自分の食事を済ませようとする裕福な人々に向かってパウロは、「あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめている。あなたがたのふるまいは神の教会として恥ずべき行為である。もっと、他の人々、特に、貧しい人々のへの思いやりを持つべきではないのか。」と言っているように思います。コリントの教会は、キリストを信じ、キリストに従う者として一番持たなければならない愛の心や正義やあわれみの思いが欠けていたのです。このような理由で、コリントの教会の人々の集まりは益にならないで害になっていると、パウロは言っています。

■使徒の働き2:46~47を見てみましょう。ここには主の晩餐の良い模範が書かれています。「毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」コリントの教会とはえらい違いです。初代教会時代、エルサレムの教会でも、よくみんなで食事をしていたようです。共に食事をすることが彼らにとっては礼拝の一部であったのだと思います。彼らは、集まるごとに一緒に食事をし、イエス・キリストを覚えて主の晩餐の時を持っていました。本来の主の晩餐の姿をこのところに見ることができます。これこそが健全な教会の姿であり、健全な主の晩餐のあり方です。喜びと真心を感じさせる教会、神を心から喜び賛美と礼拝をささげる教会、そんな教会が教会として共に集まり、共に食事をし、共に主の晩餐を持つとき、そこには、この世には感じられない平和と自由と安心があるのではないでしょうか。それらは、ユダヤ教の集まりやローマ帝国が治める当時の世の中では感じることのできないことでした。クリスチャンの集まりの中には、当時の人々のニーズに応える力があったのだと思います。それゆえに、エルサレムの教会において、すべての民に好意を持たれ、主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださったということが起こりました。このように、クリスチャンの集まりは、益になる集まりでありたいと思います。私たちもそのような集まりを持って行きましょう。

■23節~25節 次に、主の晩餐がどのように始まったのかについて見ていきましょう。この箇所に書かれていることは、マタイ、マルコ、ルカの福音書にも見ることができます。この3つの福音書によるならば、過越しの食事の時に、初めての主の晩餐が行なわれました。初めての主の晩餐が行なわれたのは、礼拝中ではなく、食事の時です。そして、その食事は、ユダヤ人にとって特別な食事でした。それが、過越しの祭りの最初の日に持たれる過越しの食事と言われているものです。まず、過越しの祭りとはいったい何のことでしょうか。過越しの祭りの起源とその意味について知りたい方は出エジプト記12章を読んでみてください。過越しの祭りの始まりを簡単に言うと、今から3500年くらい前、モーセは神の命令を受けて、奴隷状態にあったイスラエルの民をエジプトの支配から救い出すために、約束の地カナンの地(現在のパレスチナ)に連れて行こうとしました。しかし、エジプトの王パロの激しい抵抗にあってなかなかそれができませんでした。ついに、神様の裁きがエジプト王パロに下されました。イスラエルの民の家々は神様の指示に従い、家の門とかもいに小羊の血を塗りました。しかし、エジプト人の家々には小羊の血が塗られていませんでした。その結果、エジプト人の家々には神の裁きが下されました。しかし、小羊の血が塗られていたイスラエル人の家々は、神の裁きが過ぎ越して行きました。つまり、小羊の血がしるしとなって、イスラエル人の家々は神の裁きを受けないで済んだのです。こうして、イスラエルの民はエジプトから脱出して、約束の地へ行くことができました。その出来事を思い起こし、お祝いし、次世代に伝えていくのが過越しの祭りです。

  過越しの食事の時に、イエス様はユダヤ人の習慣に従って、このように弟子たちを導いたはずです。食事が終わりに近づくと、イエス様は、マッツォという種無しのパンが三つ入ったかばんを取り上げて、真ん中にあるパンを取り出しました。それを小さく割って、弟子たちに与えました。そして、言いました。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」かばんの中にあった3つのパンは、アブラハム、イサク、ヤコブ、3人の先祖を象徴していました。ユダヤ人の習慣によるならば、イエス様は、真ん中のイサクを表すパンを取って、それを裂いて弟子たちに与えたはずです。みなさん、アブラハムがイサクを神へのいけにえとしてささげようとしたあの出来事を覚えていますか。あの時、イサクのために代わりのいけにえとして雄羊が備えられていました。イサクを表すパンは、実はキリスト・イエスを表しています。イエス様こそが真の神の小羊なのです。さらに、興味深いことは、この真ん中のパンのことをユダヤ人は、アフィコメン(afikomen)と呼んでいます。その意味は、来るべきお方(coming one)です。それは、救い主イエス・キリストのことなのです。

  それから、イエス様はぶどう酒の入った杯をとって、弟子たちに与えました。そして、言いました。「この杯は、あなたがたのために流される私の血による新しい契約です。」イエス・キリストの新しい契約の中に入る者は、共に、イエス・キリストのからだを表す裂かれたパンを食べ、イエス・キリストの流された血潮を表すぶどう酒を飲むのです。そして、神の小羊イエス・キリストの血による新しい契約の中にあることを、しっかりと思い起こすのです。来るべきお方、イエス・キリストが再びこの地上に来られるまで、この契約の中にある者たちは、この主の晩餐を行い続け、次世代に伝えていくように命じられています。

  イエス様はどうして過越しの祭りの時に主の晩餐を弟子たちに導いたのでしょうか。それは、モーセがイスラエルの民をエジプトの支配から救い出し、約束の地に連れて行ったことが、イエス様が罪と死とこの世の支配から人々を救い出し、神の国へと連れて行ってくれること表しているからです。また、イスラエルの家々に塗られた小羊の血が、イエス・キリストが十字架で流された血潮を意味するからです。流された血潮のしるしのあるところは、神の裁きは過ぎ越していくのです。つまり、イエス・キリストの流された血潮の意味を信じる者は神の裁きを受けることはありません。

■26節「あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」とあります。主の死を告げ知らせるとはどういうことでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架の出来事を人々に宣べ伝えることです。つまり、主の晩餐には、伝道または宣教の役割もあったのです。エルサレムの教会においても、コリントの教会においても、主の晩餐はおもに食事の時に行われていたようです。そこにいる人々の多くはクリスチャンだったと思いますが、求道者の方々もいれば、初めての方々もいたと思います。また、親はクリスチャンでも、子供はまだはっきりと信仰を言い表していなかった例もあったことでしょう。そのような中で、主の晩餐はイエス・キリストの十字架の出来事を伝える絶好のチャンスであったと思います。食事の時ですから、楽しい交わりがあり、笑い声があり、和やかで温かな雰囲気の中で主の晩餐は行われたと思います。そのような雰囲気の中で行われたものですから、仲間に加わりたいと思う人々がたくさんいたのではないでしょうか。エルサレムの教会において、毎日のように救われる人々が起こされたのは、きっと、そこにそのような雰囲気があったからでしょう。もちろん、それは、神の働きであり、聖霊の働きであることは言うまでもありません。

■27節~34節 先ほどは、主の晩餐は、楽しく、和やかで、温かな雰囲気の中で行なわれたに違いないと言ったばかりなのですが、ここを読むと、主の晩餐はただ事ではない、恐ろしくさえあると感じるのではないでしょうか。しかしながら、ここでパウロが問題にしているのは、21節にあるふるまいであり、それが、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめているということなのです。パウロは、この行為について何とか悔い改めへと導きたかったのだと思います。そして、分裂の危機を回避したかったので、ここで、人々が今一度神に対する正しい意味での畏れを持つように、とても厳しい言い方になっているのだと私は思います。

  29節に、「みからだをわきまえないで」と書かれています。「みからだをわきまえないで」とはどういうことでしょうか。一つは、私たちの罪のために鞭で打ち裂かれ、十字架で死んだイエス・キリストの苦しみを思わない態度です。もしも、イエス・キリストの苦しみの事を思っているのならば、主の晩餐の席において、我先にと食事を済ませようとしたり、酔っぱらったりというようなことにはならないはずです。また、もう一つは、キリストのみからだなる教会、その教会を構成する人々に対して思いやりのない態度です。もしも、思いやりがあるのならば、主の晩餐の席において、我先にと食事を済ませようとしたり、酔っぱらったりというようなことにはならないはずです。

主の晩餐は、私たちのクリスチャンとしての歩みを振り返るよい機会です。もしも、悔い改めるべきことがあるのなら、私たちはこの時に、主の御心の方へと向きを変えて前進して行くべきです。そして、主の晩餐は、神様の愛と赦しと恵みの大きさを思い起こす時でもあります。神様は、情け深く、いつまでも怒っておられるお方ではありません。それゆえに、私たちは、大胆にみ座に近づき、感謝して、主の晩餐を受けることができるのです。

■今日は、主の晩餐についてお話してきましたが、終わりに大切なことを復習したいと思います。

①健全な主の晩餐の席には、喜びと真心があり、神への賛美と礼拝があり、この世には感じられない平和と自由と安心があります。

②主の晩餐には、伝道または宣教の役割もあります。和やかで温かな雰囲気の主の晩餐の中、仲間に加わりたいと思う人々がいるはずです。

③主の晩餐は、私たちのクリスチャンとしての歩みを振り返るよい機会です。

一つのパンは、キリストのからだを意味します。それを小さく裂いて、その一つ一つを私たちはいただきます。それは、キリストにあって私たちは一つであり、お一人お一人がキリストのからだである教会を形つくる大切な存在であることを意味します。このことも、ぜひ覚えていただきたいと思います。それではお祈りします。