神の国と神の義とをまず第一に求めること

2017年2月12日主日礼拝「神の国と神の義を第一に求めること」マタイ6:24~33佐々木俊一牧師

■前回のメッセージタイトルは、「わたしは新しいことをする!」でした。「わたし」とは神様のことであり、神様は私たち人間を用いて新しいことをするというお話をしました。しかし、新しいことをするにも、土台となる部分は変わっていません。土台は今も昔も同じです。新しいことをする前に、私たちは、今一度、土台がしっかりしているかどうかを点検することが必要だと思います。どのようなことにおいても基本が大切であり、時には意識して、基本に返ることが必要です。

  今日は、「神の国と神の義を第一に求めること」というタイトルでお話ししたいと思います。「神の国と神の義を第一に求めること」、それは、キリストに従う者たちの生き方として、基本的なことの一つと言えることです。

■24節 ここでは、「神にも仕え、また富にも仕えることはできない」と書かれています。つまり、神に仕えるのか、富に仕えるのか、どちらかにしなければならないのです。当然、イエス様に従いたいと思っている人は、神に仕える方を選択するでしょう。

  ページの下にある注釈を見ると、「富」とは原語で「マモン」と書かれています。「マモン」という言葉には、不正な富や貪欲という意味があるようです。また、「マモン」という言葉には、蓄えて保管された富(財産)という意味もあるようです。ここでは、単に、富やお金と言っておきましょう。お金について、Ⅰテモテ6:10にこんなことが書かれています。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」お金があらゆる悪の根と言うことではありません。お金が悪いのではなくて、お金を愛することが悪いのです。お金を愛するとはどういうことでしょうか。自分にとってお金が何よりも大切であり、お金に執着し、お金に貪欲であること、でしょうか。お金を愛することは、お金に仕えることと言ってもよいでしょう。お金に仕える生き方はどのような結果をもたらすでしょうか。Ⅰテモテ6:10に、「お金を追い求めたために、信仰から迷い出た」と書かれています。もしも、お金に仕える生き方を続けていくならば、私たちはいつしか信仰から迷い出てしまうかもしれません。神様への関心が乏しくなって、礼拝に行くことが大切なことだとは思えなくなってしまうかもしれません。信仰から迷い出ると言うことは、神様よりもっと大切なものができたということでもあります。信仰から迷い出ると言うことは、神様より頼れるものを見つけたと言うことでもあるのです。私たちは一番大切なものや一番頼りになるものを最も愛し、最も仕えるのです。

  私たちにとって、この世界で生きるために、お金は必要な物です。家族を養うためにお金を稼ぐ必要があります。子どもたちの学校や自分たちの老後のために貯蓄することも大切なことです。たまには、旅行や娯楽にも行きたいでしょう。楽しむことは良いことです。私はそのようなことがお金を愛することであるとか、お金に仕えることなどとは思っていません。しかし、もしも、そのようなことをあまりにも優先しすぎて、神様の事や神様を礼拝することを大切にしないようになっていくとしたら、それについては、考えてみる余地があるのではないかと思います。

■25節 お金を愛したり、お金に仕えることが、イコール、お金がいっぱいあるということではないようです。25節を読むと、たとえ、お金がないとしても、お金を愛したりお金に仕えたりということが起こりうることを表しています。お金がないために、何を食べ、何を飲み、何を着たらよいのだろうか、と思い煩うのです。また、お金はあるけれども、何を食べ、何を飲み、何を着ようか、といろいろと思い悩むこともあるでしょう。飲み食いとか着る物と言うのは、生きていくために必要なものの代表のようなものです。世の人々にとって大きな関心事が、飲み食いや着る物(衣食住)のことなのです。ですから、この世の事で心配したり思い煩ったりしないようにと、イエス様は言っているのです。この世の事で心配し過ぎたり、悩み続けるならば、私たちの心は神様のことも神様に仕えることも忘れてしまうでしょう。

■26節~30節 私たちはこの世のことで心配する必要のない理由がここに書かれています。一つの理由は、空を自由に飛んでいる鳥たちです。彼らは、自分で種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしないのに、ちゃんと生きています。なぜならば、父なる神様が鳥たちの事を考えて、養ってくださっているからです。鳥たちのようなものにも神様の守りと備えがあるのです。人間は鳥よりもずっとすぐれたものであると、イエス様は言っています。神様にとって人間はもっと大切な存在なのです。ですから、鳥たちを養っておられる神様が、人間を養わないはずがないのです。もう一つの理由は、人の命に比べたら、あっという間に枯れてしまう野の花です。そのような野の花でさえも、父なる神様はあれほど美しく着飾ってくださるのです。もっと大切な人間に良くしてくださらないはずがありません。神様はちゃんと人間のことを考えてくださっています。

  私たち人間の側から考えてみても、心配したからと言って自分の命を延ばせるわけではありません。心配しても益にならないことが多いのです。ただ気持ちだけが落ち込んでいきます。それよりも、神様に信頼し、神様の守りと備えを信じて生きることの方が、ずっと力になり、希望があります。みなさん、昔をふり返ってみましょう。心配したり思い煩ったりして、何か良い結果を得たことがあるでしょうか。心配や思い煩いがいかに無駄なことであったかを思い知らされることの方が多いのではないでしょうか。自分自身の事をふり返ると、私はそう思うのです。

■30節 ここで言われている、「信仰の薄い人たち」という呼びかけが気になります。心配のし過ぎや思い煩いが習慣になることは、神様を信頼していないことの現れであると思います。そのような人をイエス様は「信仰の薄い人」と呼んでいます。そのようなことを人から言われると気分を害しますが、イエス様から言われると返す言葉がありません。自分としては「信仰の厚い人と」と言われたいのに、イエス様から「信仰の薄い人」と言われてしまったら、「はい、その通りです」と認めるしかありません。けれども、イエス様に「信仰の薄い人」と言われたからと言って、自分はイエス様に愛されていないとか、イエス様に見捨てられたとか思う必要はありません。これは、イエス様からの愛のことばとして受け取るべきです。イエス様が信仰の薄い人を叱責するのは、軽蔑してそう言っているのではありません。その人を駄目にするために言っているのでもありません。愛しているからこそ、そして、もっと神様を信頼してほしいからこそ、そう言っているのです。ありのままの自分、信仰の薄い自分を謙虚に認めるとき、私たちはそこから、さらに信仰の一歩を踏み出すことができるのだと思います。

■31節 何を食べるか、何を飲むか、何を着るかと言うのは、この世の代表的な営みです。この世の事で心配するのはやめなさい、とイエス様は言っています。心配や思い煩いは、イエス様を信じてイエス様の跡について行く人には、似合わない生き方です。この世のことに関心を持ってはいけないと言うのではありません。時には、この世のある事柄に関心を持っていたからこそ、困難なことを避けることができることもあるのです。ただ、行き過ぎはよくありません。また、そういう事に心を支配されて不安な思いになることもよくありません。私たちは、この世の事柄に心奪われて、神の国の人としての生き方を見失わないようにしたいものです。

  ローマ14:17を見てみましょう。「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」と書かれています。神の国の人がもっと気にかけるべき事柄があります。それは、私たちの内面の状態です。義(righteousness)と平和(peace)と喜び(joy)です。平和は、平安と言ってもよいでしょう。それらはみな聖霊の働きによるものです。私たちの内側にある聖霊による義と平安と喜びの火を消さないようにしましょう。時々、私たちはこの世の事柄で大変なことに直面します。しかし、神様の約束によるならば、それらは、心配には及ばないということです。ですから、大丈夫です。神様が必要な物は与えてくれますし、守ってくれます。そのことを信じましょう。

■33節 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」今日のメッセージの中心です。神の国とは何か、神の国を求めるとはどういうことか、そして、神の義とは何か、神の義を求めるとはどういうことか、これらの事についてお話しするとなると、長い時間が必要です。ですから、今日の聖書箇所の範囲で、これらのことをお話ししたいと思います。

  私たちの国籍はどこでしょうか。オープン・ドア・チャペルには、日本国籍の人、アメリカ国籍の人、カナダ国籍の人、イギリス国籍の人がいます。何かあった時には、それぞれに、それぞれの国の守りを受ける権利があります。それとともに、やらなければならない義務もあります。また、私たちには神の国の国籍もあります。こちらの方がずっと重要です。どうしたら神の国の国籍をもらえるのでしょう。神の国に新しく生まれ変わればよいのです。イエス・キリストを信じることによって、私たちは神の国の人となることができます。神の国の国籍が与えられた人は、神の国の守りを受けることができます。ですから、今日のメッセージにあったように、この世の事で心配する必要はないのです。そして、この世の事に仕えるのではなくて、神の国の事に仕えるように導かれています。それは、私たちが思い煩うことなく、平安をもって日々生きるためでもあります。

  私たちは、神の国や神の義のことを完全に分かっているわけでもなく、完全に行なえるわけでもありません。まずは、神の国と神の義を求めることが大切なのです。日々、聖書のことばと体験を通してこのことを学んでいきたいと思います。お金に仕えるのではなく、神に仕えていきましょう。この世のことに仕えるのではなく、神の国のことに仕えましょう。神様は私たちを愛して、良くしてくださるお方であることを覚えましょう。この世のことで心配や思い煩いがやってきた時には、神様を仰ぎ見、神様に頼りましょう。そして、「神の国と神の義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」この聖書のことばが真実であることを、もっと知りたいと思います。それではお祈りします。