わたしは新しいことをする!

2017.1.22 主日礼拝 「わたしは新しいことをする!」 イザヤ43:19 佐々木俊一牧師 

■今日のメッセージのタイトルは、「わたしは新しいことをする!」です。「わたし」とは誰のことでしょうか。もちろん、皆さんが思っている通り、神様です。神様が、新しいことをするのです。

  「新しい」と聞くだけで、何か希望が湧いてくるような気がしませんか。リセットして、また新しくやり直せる気持ちにさせてくれませんか。また、マンネリという壁にぶつかって新鮮味を失っている時、何か新しいことに出会うと、やる気が出てくるような気がします。

  聖書の中には、「新しい」という言葉がたくさん出てきます。今日の説教聖書箇所にも、「新しい事」というのがあります。「新しい」がつくことばは他にもあります。「新しい契約」、「新しい心」、「新しい霊」、「新しい人」、「新しい命」、「新しい天と地」、「新しいぶどう酒」、「新しい皮袋」、「新しいエルサレム」、「新しい戒め」、「新しい歌」、「新しく造られる民」など、他にもまだあると思います。これら「新しい」という言葉に続く言葉の一つ一つが、救い主イエス・キリストと深い関わりがあります。神様は何か新しいことを、イエス・キリストをとおして、私たちに与えたいと思っておられるようです。

■新しいと言えば、つい最近、私たちは新しい年、「新年」を迎えました。今日は2017年1月22日です。皆さんは、新しい年を始めるにあたって、新しい目標を立てたでしょうか。気持ちも新たに新年を始めると言うのは、世界中の人々が行なっていることのように思います。

  ここで、イスラエルの新年についてお話したいと思います。イスラエルでは、現代も太陰暦です。彼らにはユダヤ暦というのがあって、今年は、5778年だそうです。西暦は正式には使っていませんが、ユダヤ暦に合わせて表示をしているそうです。太陰暦を基本としているため、年の初めの日にち(元旦)を西暦で言うと、毎年変わるようです。たとえば、2016年は10月3日に新年が始まりました。2017年は9月21日に新年が始まります。

  イスラエルの新年は、1月ではありません。第7の月(9月中旬~10月中旬)です。第7の月の1日が元旦です。この日、イスラエルの人々は仕事をしません。旧約聖書に、仕事をしてはならないと書かれていますから、新年の1日目には、彼らは仕事をしないのです。日本も似たところがあります。大掃除をはじめ、やるべきことは12月31日までに終えて、元旦は一切仕事をしてはならないという習わしがありました。ユダヤ人にとって、この日は、仕事から完全に離れて、神様を礼拝し、神様とともに過ごす日なのです。そして、この日は、仕事も学校もお休みです。ですから、家族や親戚がともに集まり、食事をし、ともに過ごし、お祝いをする日でもあるのです。

  それから、第7の月の10日は、「贖罪の日」(ヨムキプール)と呼ばれています。この日は、皆が悔い改めをする日です。過去1年間の罪を思い起こし、赦しを神に求める日なのです。自分を正し、初心にかえって新しくやり直す時です。旧約時代、この日に、大祭司が1年に1度、神殿の奥にある至聖所というところに小羊の血を携えて入り、自分の罪と人々の罪のために、代表して神様に赦しを求めました。

  次に、第7の月の15日には仮庵の祭りが始まります。一週間そのお祭りをします。これは、イスラエルの人々がエジプトから解放されて、その後40年間荒野でのテント生活を余儀なくされましたが、神様の助けと守りによって、ついにカナンの地に定住することができました。そのことをお祝いするのが仮庵の祭りです。

  レビ記23:39を読むと、イスラエルの歴史上の出来事を祝うこの仮庵の祭りが、収穫祭と結びついていることがわかります。この収穫祭を行なっている時というのは、雨の降らない時期であって、貯蓄している水が最も少なくなっている時期です。ですから、仮庵の祭りは、この一年の収穫を神に感謝するとともに、次の年もたくさんの雨が降って、豊かな収穫があるように、神様にお願いするときでもあるのです。

  皆さん、ご存知かもしれませんが、日本でも、お正月というのは、もともとは過去1年間の収穫の感謝を神にささげるときでした。それとともに、新しい年もまた、豊かな雨と豊かな収穫があるように、祈る時であったそうです。新年が迎春と言われるように、本当は種まきが始まる春がもっと近づいた2月に行なわれていたお祭りでした。

■ところで、イスラエルにはもう一つの新年があります。それは、出エジプト記12章に書かれています。第一の月はエジプトから脱出した月であり、それは、アビブ(ニサン)と言って、3月中旬から4月中旬の時です。その月はユダヤ人にとっては過越しの祭りを祝う時です。過越しの祭りとは、エジプト人の家々には神の裁きが及んだけれども、小羊の血が塗られたユダヤ人の家々では神の裁きが通り過ぎて行ったということを記念するためのお祭りです。この出来事により、イスラエルの民はエジプトから脱出することができました。イスラエルの民は、エジプトから脱出し、安息の地カナンに定住したことを過越しの祭りの中でお祝いします。

  そして、ちょうど過越しの祭りがある頃に、イースターがあります。私たちクリスチャンは、このときに、イエス・キリストの十字架の死によって罪赦されたこと、復活したイエス・キリストによって希望が示されたこと、イエス・キリストによって安息の地、神のみ国に永遠に定住する希望があることを覚えて、お祝いします。私たちクリスチャンにとっては、この時が新しい年、新年と言えるかもしれません。

■イザヤ書43:19をもう一度お読みしたいと思います。「見よ。わたしは新しいことをする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」新年を迎えるにあたって、イザヤ43:19という箇所は、私たちに新たな希望を示してくれる箇所ではないかと思います。この聖書箇所の前後を読むと、まず、この箇所がイスラエルの民に向けて語られたことばであることがわかります。預言書のことばは、その当時生きていた人々に向かって語られたことばであると同時に、未来に生きる人々に向かって語られていることばでもあります。それらのことばをとおして、将来、この地上で起こることについて記されているとともに、それはまた、霊的な意味をも表しています。先ほど、イスラエルの新年についてお話しました。仮庵の祭りと過越しの祭りについてお話しました。これらの祭りは、実際にイスラエルの民に起こった出来事を記念するための祭りです。それとともに、それらのお祭りは、将来起こる出来事を表しており、それはまた、霊的な事柄をも表しているのです。イザヤ43:19も、この二つの観点から解釈することができると思います。

  イスラエルの地について言うならば、この箇所のことばはもうすでに成就したことであると言えます。現在、イスラエルの国土は、荒野に道を、荒地に川を設けると言う聖書のことばがかなり成就していると言えます。もっと詳しいことがエゼキエル36章に書かれています。それらのことばもかなり成就していると言えるでしょう。イスラエルの国土の60%は乾燥地帯です。そうでないところでも、水はけの悪い湿地帯が広がっていました。そこは、マラリアなどの伝染病が蔓延していたところです。しかし、今は、そのような土地は、野菜や果物や花が育つ土地に変えられています。乾燥地帯も科学技術の進歩により、緑化が進んでいます。現在、イスラエルの食料自給率はほぼ100%だそうです。さらに花や野菜や果物を他国に輸出しているほどです。 まさに、イスラエルはエゼキエル36章に書かれているように、エデンの園のような豊かな地に変えられようとしています。

  霊的な意味ではどうでしょうか。実は、霊的な意味でも、その新しいことを神様は、もうすでに行ってしまわれました。神様は、イエス・キリストをとおして、すでに新しいことを行ってしまわれたのです。救い主イエス・キリストはこの地上に来られ、十字架にかけられて死なれました。それは、救い主イエス・キリストを信じる者が滅びることなく永遠の命を持つためです。私たちは将来死と共に、神様がなされた新しいことが確かなことであったことを体験するでしょう。

■新しいことがもうすでに成就してしまったということは、この先、新しいことはこの地上では期待できないということなのでしょうか。そうではありません。現在のこの地球を見回してください。また、そこに住む人々を見てください。さらに、自分を含めて、その周りを見てください。荒れ果てた状態を見つけることは難しいことではありません。世界は、神様のなされる「新しいこと」を必要としているところでいっぱいです。それでは、どうしたら神様のなされる「新しいこと」が起こるのでしょうか。そのことについて二つのことをお話ししたいと思います。

  まず一つは、私たちが、神様を求め、神様を礼拝し、神様に仕え、神様を大切にすることです。それは、また、家族を大切にし、神の家族、教会をも大切にすることにつながっていくことだと思います。それは、私たちの信仰の証であると言えます。信仰のあるところに神様は働かれます。ですから、私たちが神様を求め、神様を礼拝し、神様に仕え、神様を大切にすることが、神様が新しいことを行ってくださるのを見るための入り口であると言えるでしょう。

  二つ目は、誰が新しいことをするのかということです。イザヤ43:19には、「わたしは新しいことをする!」とありました。誰が新しいことをするのでしょう。神様です。ですが、私たちは、神様が新しいことをするのを、ただ、待つだけなのでしょうか。忍耐して待つことが必要な時もあります。しかし、そうでない時もあります。私たちが動き始めなければ、何も起こらないこともあるのです。ですから、新しいことをするのは、あなたであり、神様であるということです。また、私たちであり、神様であるということです。イザヤ43:19にしても、エゼキエル36章にしても、神様がそうなると言ったことは必ずそうなりました。けれども、神様がイスラエルの土地を豊かにしたのでしょうか。実際にイスラエルの土地を豊かにするために働いたのは、イスラエルの人々です。神様のことばは必ず成就します。しかし、それは、神様が人を用いて神様のことばを成し遂げることでもあるのです。

■最後に、出エジプト記36:2をお読みしたいと思います。「モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、および、主が知恵を授けられた、心に知恵のある者すべて、すなわち感動して、進み出てその仕事をしたいと思うすべてを、呼び寄せた。」このとき、イスラエル人は、神様の命令を受けて幕屋を作ろうとしていました。イスラエル人にとっては一大イベントです。この仕事に参加する人間として神様が選んだ人々とは、どのような人々だったでしょうか。それは、この神様の働きをしたいと思う人、つまり、自発的にしようと一歩前に進み出た者たちです。神様は、したいという気持ち、しようとする意志を重要視されるお方であると私は思います。

  神様は、お一人お一人の人生、それぞれの家族、それぞれの教会を祝福して、豊かな実をもたらしてくださいます。私たちが期待する以上に、何か新しいことを始めてくださいます。荒野に道を、荒地に川を流すような神の働きをきっと見ることができると信じます。2017年、この新しい年に、新しいことをなしてくださる神様に期待したいと思います。それではお祈りします。