主の計画

2017年1月8日主日礼拝「主の計画」エレミヤ書29:11俊子姉

 

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。-主の御告げ。ーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望をあたえるためのものだ。」

 

 これはよく知られている聖書箇所ですが、どのような状況で語られたものなのか見ていくと、まさに自分たちの王国が滅ばされて他国に連れて行かれるというこの上もないわざわいの中で語られたみことばだということがわかります。

 

 ここでイスラエル王国の歴史を振り返ります。ダビデという王はイスラエル王国の2代目の王で、次はソロモン王、ソロモン王はとてもすばらしい王様でしたが、晩年に偶像礼拝の罪により主にとがめられています。そのため、ソロモンの息子の世代にイスラエル王国は2つに引き裂かれてしまいました。北イスラエルと南ユダにです。もともと12部族で成り立っていましたが、北に10部族、南に2部族というように2つの国になりました。

 北王国には真の神様を礼拝しないで偶像の神を拝み、悪事に手を染める悪い王が次々と立ちました。神は預言者を何人も送り再三真の神に立ち返るように促しましたが、彼らはその預言に従うことなく、北イスラエル王国は210年ほどでアッシリアに滅ぼされてしまいます。

 一方南ユダはダビデの血筋を引き継いだ王国でした。南ユダには真の神に聞き従うすばらしい王が何人もいました。また神様はダビデとの約束『ダビデにはイスラエルの家の王座に着く人が絶えることはない。』をされたゆえに南ユダは350年ほど続きました。しかし、やはりユダにおいても偶像礼拝と罪が満ち、預言者の忠告にも従わない王と民を神様はバビロン帝国の手によって滅ぼすことに決められたのです。

 

 しかし、その中にも神様はご計画をもっておられました。エルサレムに留まるのかバビロンに捕囚として付いて行くのか、ある程度選択が許されていたようです。エレミヤを通して語られたのは、エルサレムに留まる者は剣とききんと疫病で死ぬ、バビロンに捕囚として連れられて行くものは分捕りものとして自分の命を得るというものでした。

 今日読んだエレミヤ29章はエレミヤの忠告に従ってバビロンに捕囚として付いて行った者たちへのエレミヤからの手紙です。29:5-7ではバビロンの土地で家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって息子、娘を生み…そこで増えよ。連れられて行った町の繁栄を祈れ。と普通の生活を送るように勧め、また10節では、『バビロンに70年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこのところに帰らせる。』と主は約束しておられます。また12-14においては、『あなたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを探し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。』と引いて行かれた地で真の主を尋ね求めるように導いておられます。ユダの民は引いて行かれたバビロンの地で真に主を呼び求め、主とお会いしたのではないでしょうか。

 

 さて、彼らへの神のご計画は成就したのでしょうか。70年が満ちたとき彼らはエルサレムへ戻されました。主はバビロンのクロス王にあわれみの心を与えられ、ユダの人々を確かに彼らの国へ返されたのです。ここからはエズラ記、ネヘミヤ記に書かれています。

 神様はクロス王にどのように働きかけられたのでしょう。クロス王はただ「帰っていいよ。」といった許可ではなく、エルサレムの神殿を再建せよ!よいう命令を伴う帰還をさせたのです。エルサレムの町は焼かれ城壁は崩され、神殿も滅ぼされていました。バビロンにはエルサレムの神殿から持ち去った金や銀の器具がたくさんありましたが、クロスはその全てを元の神殿に返すと約束したばかりか、神殿の再建にかかる材料費そして完成したあかつきには奉納されるいけにえの牛や羊、穀物、油などのすべての費用をバビロンの王家が支払い、何か足りないものがあるならそれも王の宝物倉から出すと約束し、その内容は代々受け継がれるようにと公文書としてしたためられていました。

 私の思うところ、クロス王はユダの神様こそが真実なる生ける神であることを体験し知っていたのではないでしょうか。というのも、クロス王はエルサレムの神殿で自分と自分の息子のために祈るようにとの命令も出しています。神様の約束は私たちの思うところをはるかに超えて成就されていったのです。

 

 詩篇126篇にバビロン捕囚から帰る民の喜びの歌が書かれています。『主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ているもののようであった。そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。』彼らにとってエルサレム帰還は夢のように思われ、その喜びは口は笑いで満たされ、舌は喜びの叫びで満たされたと表現されているほど大きいものだったことがわかります。あまりにもすごい神様のみ業に彼らは圧倒されてしまったのです。

 

 私の小さな証ですが、私はある時経済的な必要があって、S市の小学校で臨時採用の教員として7年間働きました。その7年の中の5年は闘いでした。どのような闘いかというと、職員間の人間関係の闘いです。いじめる人がいる職場では必ず私がいじめられ、怒鳴る人のいる職場では必ず私が怒鳴られました。一番ひどい闘いはT区の小学校で働いていた時でした。特別支援学級に配置されたのですが、その主任の方が毎年一人ターゲットを決めてはその人をいじめ抜くという方でした。私がターゲットとして選ばれ、いじめが始まりました。最初は自分が出すぎたのかなーとか自分に落ち度があるのだろうなどと思って、謝ったこともありましたが、だんだん相手の一方的な問題なのだとわかってきました。いろいろといちゃもんを付けたり、無理難題を押し付けて困らせようとしたり、私のやることを批判したりしました。そして、そのいじめはだんだんエスカレートしていきました。最後は保護者まで巻き込んで私を潰そうとさえしてきたのです。どこまでいくのかなーと思いました。それで3学期はいつもカバンの中に辞表を入れて、いつでも辞められるようにして通勤していました。

 私はそれほど精神的にタフな人間ではありません。一週間働くともう溜まってくるものがありました。それで土曜日になるといつも主の前に出てことばにならない祈りと礼拝を捧げ主の御顔を追い求めました。主が触れてくださり、心の中のざわざわを平安に変えられるのです。マイナスからプラスに引き上げられるのです。それで土曜日のその時間は私にとって至福の時になりました。これで次の一週間が始められます。

 7年間の教員生活が終わったとき残ったものがありました。それは自信と人間好きになった自分でした。普通はいじめられていると人間嫌いになります。怒鳴られていると自信を失くします。でもいじめられ怒鳴られている中で自信と人間好きが残ったのです。それからこの教会に初めて来たとき私は非常に暗い人間でした。ある方はわたしが病気なのかなーと思っておられたようです。でも今、私には喜びがあり、明るい者とされました。将来が与えられ、希望が与えられたのです。

 

 私たちにはわざわいや苦難が許されるときがありますが、わざわいはわざわいで終わることなく、苦難は苦難で終わることがない。主に思いを注ぎだし、心を尽くして主を尋ね求めていくときに私たちは主とお会いし、主が私たちにもっておられる祝福のご計画を、平安を与え、将来と希望を与えるご計画を現わしてくださることを信じます。