主はぶどうの木、私はその枝

2017.01.01主日礼拝「主はぶどうの木、私はその枝」ヨハネ15:5佐々木俊一牧師

■新しい年を迎えました。21世紀も17年目になります。聖書には、新年について書かれている箇所がいくつかあります。たとえば、出エジプト記12章です。モーセがイスラエルの民をエジプトから連れ出す時に、この時を「新年」、つまり、新しい年の始まりの月とするように、神様は言われました。西暦の月でいうと、3月中旬から4月中旬です。この月は、過越しの祭りがある月であり、また、イエス様が十字架にかかって死んで3日目によみがえられた月でもあります。

  旧約聖書を見ると、新年には、パン種の入っていない「マッツォ」というパンを食べる習慣があります。日本でも似たような習慣があります。もちを食べます。今は、一年中食べられますが、昔は、もちと言えば正月の食べ物でした。元旦から1週間はもちを食べるのが習慣だったそうです。また、新年を迎える前に大掃除をします。それは、パン種を家から完全に取り除くためです。旧約聖書の中では、パン種は罪の象徴として扱われています。そして、新年の一日目は仕事をしてはいけません。家で家族と共に過ごすのです。日本にもそのような習慣がありました。大掃除をして新年を迎えるのです。元旦から掃除をしたり、料理をしたり、仕事をしたりするのは、良くないことと考えられていたように思います。また、日本では、大みそかの夜は、午前0時を回るまで家族のみんなが寝ないで新年を迎えたものです。新年を迎えると同時に、神社にお参り行きます。神社に行くと、まず、鳥居があります。次に、狛犬が両側にあります。狛犬と言っても、犬というよりも、ライオン(獅子)です。一つは、「あ」という口を開け、もう一つは、「ん」という口で閉じています。考えてみると、「あ」と「ん」は日本語のアルファベットの初めと終わりです。聖書には、イエス・キリストのことを、アルファでありオメガであるお方、初めであり終わりであるお方と言われています。アルファとはギリシャ語アルファベットの初めであり、オメガは終わりです。神道は日本独自の宗教と言われていますが、旧約聖書の慣習に非常に似た点が多く見られます。ですから、キリスト教にしても、ユダヤ教にしても、外国の宗教だから日本人には関係ないなどと簡単に片づけられることではありません。日本という国も日本人という民族も、長い長い歴史の中で、世界の中に属してきたのです。歴史を遡ってみるならば、きっと、キリスト教やユダヤ教と、どこかでつながっているのだと私は考えます。人類の始まりは一つです。その始まりを造られたのは、創造主なる神様です。私たちはその神様を礼拝しています。

■新しい年の初めに、ヨハネ15:5からお話をしたいと思います。聖書には、よく果物の名前が出て来ます。ぶどう、いちじく、ざくろ、オリーブ、なつめやし、などがあります。その中でも、ぶどうが一番よく出てくるのではないかと思います。ぶどうのことは、よくわからないのですが、ぶどうの作り方にはいくつかあるようです。パレスチナの方では日本のような棚作りではなく、地面にはわせて作るので、ブドウの幹が太くてしっかりしているようです。

■ヨハネ15:5の「わたし」とは、だれでしょうか。お分かりですよね。イエス様のことです。これは、たとえですが、ここでイエス様はご自身のことを、「ぶどうの木である」と言っています。1節を見てみると、ただのぶどうの木ではありません。「まことのぶどうの木」であると言っています。まことのぶどうの木があるということは、そうでないぶどうの木もあるということです。「まことのぶどうの木」と「そうでないぶどうの木」とはどう異なるのでしょうか。ここで言われている「まことのぶどうの木」とは、農夫がこまめに手入れし育て上げたぶどうの木であり、それは、かおりがよくてとても甘いものです。それに対し、「そうでないぶどうの木」とは、手入れされることのないまま、野生種として育ったぶどうの木であり、それは、とても酸っぱいのです。

  イエス様はぶどうの木です。ならば、私たちはぶどうの木から出た枝であると聖書は言っています。木にしっかりつながっている枝には、ぶどうの実が豊かになります。けれども、折れて木から離れてしまった枝には、実がならないし、実がなりかけていたとしても、それ以上は大きくも美味しくもなりません。それと同じように、イエス様につながっているならば、美味しい実を豊かに結ぶ者とされるのです。

■「イエスにつながる」という言い方をしましたが、聖書では、「イエスにとどまる」という言い方をしています。イエスにとどまり続けるとき、私たちは豊かに実を結ぶのです。これは、神様の約束です。ただ、実の結び方は、人それぞれに神様の計画があるように思います。それでは、どのような形で実を結ぶのでしょうか。

  7節に、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」とあります。正直言って、私は、体験的に、このみことばは自分に関して言うならば、50%くらい当たっているのではないかと感じています。残りの50%はまだ答えがないように思います。それでも、私は、このみことばは真理であると思っていますから、このみことばの意味する本当のところを、自分の人生の中で知りたいと願っています。きっと、続きがあって、残りの50%の答えはこれから見ていくのだと思います。

このところに関して、聖書の中で思い浮かぶ人物がいます。それは、ソロモンです。Ⅱ歴代誌の1章にあるお話です。ソロモンが王になった時、ソロモンは、神様にイスラエルの国を治めるための知恵と知識を願いました。神様は、ソロモンが、富や財宝や名誉を求めず、王としての責務を果たせるように、そのために必要な知恵と知識を求めたことをとても喜ばれました。それゆえに、ソロモンが求めなかった富も財宝も名誉もすべてを与えたのです。

  この世の成功を与えることは神様にとっては難しいことではありません。しかし、それよりももっと大切なことがあることに気付いてほしいと、神様は望んでいるのではないでしょうか。私たちが自分に与えられた役割や働きをまっとうするために必要なものを第一に神様に求めることは、神様の喜ばれることです。ですから、私たちは、神様が私たちに与えている役割をやり遂げるために必要な力を与えてくださるように、願いたいと思います。そうするならば、きっと、それに加えて神様は、さらに祝福を与えてくださるのだと思います。

  イエスにとどまり続ける時に、私たちはどのような形で実を結ぶでしょうか。

1)自分に与えられた人生の中で、召しや役割をまっとうするための力が与えられます。

2)成功や地位、財産や名誉なども含めて、神様の祝福は私たちの地上の生活にも反映されます。

■イエスにとどまり続けようとする人々に、イエスが求めていることがあります。9節から12節を見てみましょう。それは、「互いに愛し合う」ということです。イエス様を信じる人々は、その交わりの中で、互いに愛し合うことが求められています。それにより、神様のみ名がほめたたえられ、もっと多くの人々が神様の愛を知ることができるからです(ヨハネ13:34~35)。イエス様にならって、互いに愛し合うことを続けるなら、さらに私たちは、イエスの姿へと変えられることも体験するでしょう。

  イエスにとどまり続ける時に、私たちはどのような形で実を結ぶでしょうか。

3)世の人々に対して影響力を持ち、神の愛を知らせ、信じる者が起こされます。

4)イエスに似た者へと変えられていきます。

  愛することは、簡単なこともあれば、そうでないこともあります。時には、人への思いやりのために、自分のことを犠牲にしなければならないこともあります。しかし、そのようなことをお互いに行なうならば、必ず、神様は豊かな実をもたらしてくださいます。

■神様は、私たちがより豊かに実を結ぶことを期待しています。そこで、私たちがもっと多くの実を結ぶために、神様がなさることがあります。2節を見ると、もっと実を結ぶために刈り込みをなさいますと書いてあります。刈り込みと聞くと、何か痛そうに聞こえます。そういう目に会うことを私たちは正直言って遠慮したいです。しかし、神様は、私たちが実を結ぶために、必要なこととして何か困難なことを許されることがあるようです。

  この刈り込みは、ぶどうの実を使って造るワインの製造過程にも似ているところがあると思います。それでは、ワインの製造過程とはどのようなものでしょう。

<ワインの製造過程>

□エレミヤ48:11、12を見てみましょう。48章はモアブ人への預言のことばです。モアブ人とは、アブラハムのおいである、ロトの子孫です。この箇所には、モアブ人の特質がどのようにして形成されたのかが書かれています。ワインの製造過程にたとえられているのですが、結局のところ、その過程を経なかったために、悪いところが取り除かれることなく、大人になってしまったと書かれています。

  美味しいワインを造るためには、ぶどう汁が何度か器から器へと移されなければなりません。ぶどうのかすが完全に底に沈んだ状態になった時に、そのかすが入らないように別の器に移し変えるのです。このかすは、非常に苦くてまずいものです。また、このかすの中には、硝酸カリウムを含んでいて、酸っぱくなるのです。酢を作るには良いのですが、ワインにするには、質が悪くなってしまいます。ですから、かすが下に沈むまで、ぶどう汁の入った器は、暗い地下室に、ある期間置く必要があるのです。そして、ちょうど良いときに、ワイン造りの熟練した専門家がやってきて、器から器へと移し変え、悪いものを取り除いて、発酵させて、美味しいワインができるのです。

  神様は熟練したワインメーカーです。ワインは、かすを残したまま、あまり長く暗い地下室に放って置くと、発酵しすぎて味が悪くなってしまうそうです。神様は熟練したワインメーカーですから、ちょうど良いときに、悪いものを取り除かれた私たちを、困難の中から取り上げてくださいます。困難があまりにも長いと、投げ出したくなったり、あきらめたりしてしまいそうになります。けれども、そのような時にこそ、神様に信頼し、ゆだねて行きたいと思います。困難が許されるのは、神様が私たちのことを憎たらしいからではありません。私たちを愛し、私たちに期待し、私たち皆が幸せになることを願っているからです。

  神様は私たちに何を期待し、また、どうすることが皆の幸せをもたらすことであると考えておられるでしょうか。それは、互いに愛し合うということです。「互いに」ということが、大きなポイントです。「互いに」でなければ長続きしません。そうでなければ、結局、互いにあきらめて終わりです。「互いに愛し合う」ということをさらに学び合うことを通して、2017年は、「主はぶどうの木、私はその枝」としての歩みをしていきたいと思います。私たちは、必ず、豊かな実を結びます。それが、聖書の約束です。それでは、お祈りします。