神の御子イエス・キリスト

2016年12月11日主日礼拝「神の御子イエス・キリスト」ピリピ2:6~8佐々木俊一牧師

■「儲」という漢字を思い浮かべてみてください。「信」じる「者」と書きます。ある人が、「信じる者は儲かる」と言っていました。信者にもいろいろありますが、早くに聖書的価値観が普及した国々においては、政治的にも経済的にも発展し、繁栄した国が多いようです。もちろん、人間のすることですから、経済的な繁栄はいいことばかりではありません。マイナス面もあるでしょう。

  ところで、みなさん、儲かっているでしょうか。キリスト教はご利益宗教ではありませんが、しかし、神様は私たちの経済をも祝福してくださるお方です。経済のために祈り、収入が増えるように祈り求めることは悪いことではありません。ただ、初めはご利益を期待して教会にやってきたとしても、いつまでもそうではありません。神様との関わりの中で、私たちはもっと大切なことに気づかされます。

  神様は私たちの物質的な必要を備えてくださると共に、心の豊かさを私たちに与えてくださいます。物質的な豊かさだけでは、私たちはけっして幸せになれません。内面の豊かさが必要なのです。ですから、外側だけじゃなくて、内面も儲かっていますか、と聞くのがいいのかもしれません。今日も、聖書のみことばによって心豊かにされたいと思います。

■聖書の中心テーマは「救い主」です。旧約聖書は39巻、新約聖書は27巻あります。すべてに「救い主」のことが書かれてあります。旧約聖書の初めの方に、モーセ五書と言われている、「創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記」があります。イスラエルの歴史、または、イスラエルの律法や慣習について、ただ単に書かれているように思えますが、しかし、実は、「救い主」について書かれているのです。

  旧約聖書の最後の書は、マラキ書です。マラキという人が書きました。マラキは、バビロン帝国に捕えられていたユダヤ人たちがイスラエルの地に帰って来た頃に活動していた預言者です。その預言者マラキが神様のことばを語った後、400年間、神様のことばが語られることはありませんでした。全くの沈黙の期間が400年続きました。この間、イスラエルは、ギリシャ、シリヤ、エジプト、そして、最強の帝国ローマに支配されました。人々は圧制の苦しみの中で、他国の支配から救い出してくれる救い主を求めました。しかし、待っても、待っても、救い主が訪れることはありませんでした。そして、イエス・キリストがお生まれになる紀元前4年より少し前に、み使いを通して乙女マリヤに神様のことばが語られました。ついに、沈黙は打ち破られたのです。この時、神の計画は再び動き始めました。

■イエスの母マリヤとイエスの父ヨセフについて、少しお話ししたいと思います。父ヨセフの先祖はイスラエルのダビデ王です。そして、栄華を極めたソロモン王です。それから1000年が経つと、その子孫の一人であるヨセフは、貧しい大工(石工)でした。一方、マリヤは、祭司の家系でした。しかし、ルカの福音書のマリヤの家系図をたどるならば、ヨセフと同様、ダビデ王ともつながっています。

彼らは、ガリラヤ湖の西側にあるナザレという町に住んでいました。幼い頃から、彼らの親同士の間で結婚の約束をしていました。彼らには、貧しくとも信仰がありました。神を愛し、神に従う家庭の中で育てられたと思われます。そんなある日、彼らにとって、人生がひっくり返るような出来事が起こりました。マリヤとヨセフは結婚していないのにもかかわらず、子どもができてしまったのです。聖書にこのように書かれています。「聖霊によって身重になった。」 つまり、マリヤの胎の中にいる赤ちゃんは、男女の自然の法則によらず、神様の直接の働きかけによって、その体が形造られたということです。創世記の最初の人、アダムもまた、神によって直接形造らた人です。聖書では、そのアダムが第一のアダムと呼ばれ、イエスが第二のアダムと呼ばれる理由がここにもあります。両者ともに人としてオリジナルだということです。また、アダムの意味が、「神の血」という意味であることもとても興味深いことです。

■ミカ5:2「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」

  預言者ミカは、イザヤと同年代に生きた預言者です。BC750年頃のことです。ここを読むと、イスラエルを永遠に治める王、つまり、イスラエルにとっての救い主は、ベツレヘムから出ることになっています。ベツレヘムは、「ダビデの町」とも言われていました。なぜならば、そこは、ダビデが生まれ育った町であり、その先祖に与えられた土地であったからです。

  ローマ帝国の皇帝、アウグストの時代に、帝国内のすべての人々は住民登録をするようにという命令が出ました。ヨセフはユダの子孫であり、ダビデの子孫だったので、住民登録のために、ユダヤ地方のベツレヘムまで行かなければなりませんでした。ナザレからベツレヘムまで直線距離で120キロメートルくらいあります。当時の交通機関と言ったら、徒歩かロバです。マリヤは身重でしたから、きっと、ロバで旅をしたのだと思います。それにしても、その旅はふたりにとって大変厳しいものだったでしょう。

  ヨセフもマリヤもダビデの子孫でしたが、彼らはナザレに住んでいました。そのため、当時の教師や学者は、イエスはベツレヘムから出た者ではない、つまり、イエスが救い主であるはずがないと考えました。ところが、実際に、イエス様はベツレヘムで生まれました。アウグストが出した命令に従って、ヨセフとマリヤはナザレからベツレヘムに行きました。その時に、イエス・キリストは生まれたのです。

  住民登録の時、ベツレヘムはたくさんの人でどこの宿も満杯でした。そのため、ヨセフとマリヤは部屋がとれず、宿の馬小屋に泊まることになりました。そこで、イエス様はお生まれになりました。これが、神の計画した時でした。マリヤもヨセフも、もし、アウグストの命令がなければ、ベツレヘムに来ることはなかったでしょう。イエス・キリストは聖書に示されたとおりに、ダビデの家系の中にあって、また、ベツレヘムでお生まれになったのです。

■ところで、どうして、神の御子なるお方が、こんなに臭くて汚いところで生まれなければならなかったのでしょう。柔らかくて暖かな布団ではなくて、堅くて冷たい飼い葉おけに寝かされました。豪華な王宮ではなくて、あまりにも粗末な宿の馬小屋で生まれたのはどうしてなのでしょう。

  「キリストは、神のみ姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして(特権を主張されずに)、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」 (ピリピ2:6~8)

  「キリスト」とは、「油注がれた者」という意味です。それはまた、「救い主」を意味しています。そして、「イエス」とは、「救い」という意味であり、旧約聖書の「ヨシュア」と同じ意味です。「イエス」も「ヨシュア」も一般的な名前であり、コロサイ4:11には別の「イエス」という人物が出て来るほどです。「イエス・キリスト」とは、「救い主イエス」ということになります。

  イエス様は神であられるのに、神としての特権を主張されませんでした。お生まれになった時から、イエス様はこのみことば通りに歩まれました。

  イエス様はナザレに住み、貧しい大工のヨセフの長男として育ちました。ある人々は、イエス様はマリヤの不貞によって生まれた子どもであると噂していたことも考えられます。父ヨセフの仕事を手伝い、公に神様の働きをされる30歳まで家業を手伝っていたことと思います。神様の働きを始めた時、周囲の人々は、イエス様をただの貧しい大工の息子ではないかと見下げました。今まで大工の息子だったのが、学校にも行っていないのに、聖書を教え始めたのですから、戸惑いがあったのかもしれません。この後、イエス様への反発がだんだん激しくなって行きます。それにもかかわらず、イエス様は、神の御子としてのアイデンティティが揺らぐようなことはありませんでした(もちろん、イエス様ご自身、神なるお方ですから、そのことを自覚しておられたことは言うまでもありません)。そして、坦々と神の働きを進めて行きました。

■イエス様は私たちに良き模範をいつも示してくださいます。私たち人間のアイデンティティは人の言う言葉によって大きな影響を受けながら形成されます。親を初め、自分を取り巻く人々の評価が自分の価値を決めて行くのです。ある場合には、人々のことばや評価によって、自分は生きる価値がない、愛される価値がないと思い込むほどに傷ついていることがあります。

  完全に人であり、完全に神であられるお方、イエス様は、この地上において、人々によってどん底まで卑しめられました。しかし、その中で、イエス様は、神に愛されている者としての尊厳と価値を私たちに示してくださっています。人間一人一人の価値は、人間が決めることではありません。神様が決めることです。そして、神様はすでに、人間一人一人のことを高価で尊いと言ってくださっているのです。何が出来るのか、何を持っているのかによって価値が決まるのではありません。また、人から自分がどのように扱われようとも、どのようなことを言われようとも、それによって価値が決まるのではありません。神様はそのような言葉や行為の一切をはねつけてしまわれるでしょう。私たちは人の言うことを恐れることはないのです。神様は私たちをどう見てくださっているでしょうか。それが私たちにとって大きな問題です。幸いなことに、神様はご自身が造られたものすべてを愛しておられます。

  また、人々によって卑しめられたとしても、イエス様はいつも、神様のみこころを求め、神様のみこころを行なうことに専念していました。イエス様にとって重要なことは、神様のみこころがなることでした。これもまた、私たちにとって良い模範であり、祝福されたクリスチャンライフを送るために大切なことだと言えます。もしも、私たちが不当な扱いを受けたとしても、神のみこころを坦々と行い続けるならば、私たちの神の子としてのアイデンティティはますます強められ、神様との関係はよりいっそう深められていくことでしょう。

■イエス様は神であられるお方なのに、そのあり方を捨てて自分を無にして仕えるものとしての姿をとり、卑しめられるような扱いを受けたにもかかわらず、神の御子としてのアイデンティティを貫き通しました。そして、神の御子イエス・キリストとして、十字架の死にまで従われたのです。神の御子イエス・キリストはこのことのために、この世界にお生まれになりました。こうして、救いの道はすべての人々の前に置かれているのです。その道を選ぶかどうかは、お一人お一人の意志にゆだねられています。イエス・キリストをご自分の救い主として信じて、これから歩んで行きたい、そのように思われる方がおられるかもしれません。その方々のために、今お祈りしたいと思います。それでは、お祈りします。