日々、主と共に生きる

2016.11.6主日礼拝「日々、主と共に生きる」Ⅰテサロニケ5:1~11佐々木俊一牧師

■テサロニケという町は、現在もギリシャに存在する大きな都市の一つです。聖書にあるように、当時、テサロニケはクリスチャンへの迫害が激しいところであったようです。そんな激しい迫害の中を生きていたテサロニケのクリスチャンにとって、主イエス・キリストが再びこの地上に戻って来られるという約束は、大きな希望であり、慰めでした。

■1節 イエス・キリストがこの地上に再び戻って来られると信じているクリスチャンは、いつ戻って来られるのか、大変興味のあるところだと思います。けれども、マタイ24:36には、「その日、その時がいつであるかは誰も知りません。天のみ使いたちもイエス様も知りません。ただ、父なる神様だけが知っているのです」と書かれています。私たちは、イエス様がいつ戻って来られるのか、正確な時を知ることはできません。しかしながら、その時のきざしがどのようなものかについては、ある程度のことが明らかにされています。マタイ24章、ルカ21章、Ⅱテモテ3章、そして、ヨハネの黙示録などに書かれていますし、旧約聖書にも見つけることができます。

  イエス・キリストが再びこの地上に戻って来られることについて語る時、あるいは、聞く時、私たちは気をつけなければならないことがあります。それは、このような話を利用して、危機感をあおると言うことです。過去においてもありましたし、また、現在もあります。そのようなやり方で勧誘するグループがたくさんあります。キリスト教系の異端にもありますし、仏教系の宗教団体にもあります。そして、そのようなやり方で信者を増やしているキリスト教会もあるのです。ですから、気をつけなければなりません。私たちの周囲にはそのような惑わしがあることを知っておく必要があります。

  しかし、だからと言って、イエス様が再びこの地上に戻って来られるという聖書の約束に封印してしまうとしたら、これもまた、問題です。イエス様のこの約束を無視したり、無関心であったりであったりすることは、健全な信仰とは言えません。

■2節~3節 「主の日」とは、どんな日でしょうか。イエス様がこの地上に戻って来られる日と言ってよいでしょう。主の日は盗人のように来ると言っています。盗人のように来るとはどういうことでしょうか。盗人は人が目をさまして起きている間は来ません。安心して寝静まった時をめがけてやって来ます。盗人が入らないように用心していると、盗人は来ないのです。でも、盗人なんか来ないと思って注意を怠ると、盗人にやられてしまうことがあります。「平和だ。安全だ。大丈夫だ。」と思って何も備えないでいると、突如として主の日がやって来るとパウロは言うのです。それは、ちょうど、妊婦の陣痛のように突然やって来て、逃れることは絶対にできないのです。

■4節~6節 イエス・キリストを信じている者にとって、その日が盗人のように襲うことはありません。なぜならば、イエス・キリストを信じて備えているからです。しかし、パウロはクリスチャンにさえ、何やら警告のようなものを発しています。「ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」とパウロは言っています。クリスチャンの中に、信仰的に眠っているような人がいるのでしょうか。クリスチャンの中に、何か悪いことを行っている人がいるのでしょうか。パウロの言い方は、時には私たちにとって耳が痛くなるような言葉であったり、厳しく感じられるものであったりすることはありませんか。

  福音書を読むと、イエス様は、世の人々の中でも特に罪深いと思われるような人々と、共に親しく食事をしていたことがわかります。そして、彼らに神の御国のことを教え、神の救いへと招いておられました。イエス様は、どんなに罪深い者であっても、無条件で愛してくださるお方でした。イエス様のことばと行動によって、神様の愛の大きさを、私たちは知ることができるのです。

  それに対して、パウロはどうでしょうか。パウロの手紙を読むと、自分の罪に目を向けさせられ、何か責められるような気持になることはありませんか。そのため、パウロの手紙を読むよりも、どちらかと言うと、福音書を読む方が心地よいと思うことはありませんか。パウロの言い方に、少々律法的で不自由な感じを持ったことはありませんか。でも、それは当然です。なぜならば、パウロはもともと律法の学者であり、律法に忠実に生きていたパリサイ人だったからです。なぜ、神様はそのような人を選んで神様の使徒として立てたのでしょうか。神様がパウロを選んだ以上、パウロの手紙を軽視することなどできません。きっと、神様の意図があるのだと思います。

  パウロの示す基準があまりにも高すぎて、自分には従えないと思うことはないでしょうか。また、反対に、パウロの示す基準に導かれて、自分の心の姿勢や態度を改めさせられたことはありませんか。私たちが神様の愛と恵みをしっかりと受けとめるためには、私たち自身が自分の罪を罪として自覚する必要があります。その上で、イエス・キリストの十字架のみわざが本当に私たちに必要なのだということがわかるのです。パウロの厳しい言葉の裏側には、神様の愛が語られていることを私たちはしっかりととらえたいと思います。

■7節~9節 「眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。」もしかすると、これを聞いてパウロが嫌いになる人がいるかもしれません。ここのところは、お酒を飲むことやお酒に酔うことの是非について言われているのでしょうか。そうではないと私は思います。私が思うには、お酒に酔ったときの状態を例にして、それに似たような霊的状態のことをパウロは言っているのだと思います。お酒を飲むと酔います。お酒をあまりにもたくさん飲むと、自分の感情や思考や行動、そして、体の動きさえコントロールすることが難しくなることがあります。そのうちに、意識がもうろうとして眠りこけてしまうでしょう。そして、「夜」というのは、「主の日」を意味しているのだと思います。主イエスがこの地上に戻って来られる時というのは、信仰的に惑わしの厳しい状況にあるのかもしれません。ある者は信仰から離れ、ある者は他の福音について行ってしまうのかもしれません。そのような状況の中で、私たちは霊的に眠ったような状態や酔っぱらったような状態であってはならないのです。なぜなら、正しい判断ができないからです。霊的な意識をはっきりと保って惑わされないようにしなければなりません。

  6節に「目を覚まして、慎み深くしていましょう」とあります。この言葉は、「セルフコントロール(自制)」という意味を含んでいます。霊的な事柄についても、自分をコントロールすることが必要です。8節にもまた、「慎み深くしていましょう」と書かれています。どのように慎み深くしていたらよいのでしょうか。主イエス・キリストの信仰と愛と救いの望みにしっかりとつながり、そこにとどまることです。そこから出るようなことには従わないことです。主イエス・キリストの信仰と愛と救いの望みに従いつつ、救いをまっとうするのです。

■10節「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが目覚めていても、眠っていても主と共に生きるためです。」「目覚めていても」とは、生きている状態のことです。私たちは今生きています。もしかしたら、私たちが生きている間に、イエス様は再びこの地上に来られるかもしれません。そして、「眠っていても」とは、死んだ状態のことです。もしかしたら、私たちが天に召された後に、イエス様は来られるかもしれません。どちらにしても、私たちは主と共に生きるために存在しているのです。

  この地上においては、日々、主と共に生きる者でありたいと思います。朝起きたときに、神様に生かされていることを感謝しましょう。家族が共にあることを感謝しましょう。他にもいろいろなことを感謝しましょう。そして、新しい1日の始まりに、神様のために生きることを宣言しましょう。夜寝るときは、その日いろいろとあったことを神様に感謝しましょう。神様の助けと守りがあったことを感謝しましょう。うまくいかなかったことも神様に感謝しましょう。もしも、何か悪いと感じたことがあったら神様に告白しましょう。そして、その赦しを感謝しましょう。感謝して、眠りにつきましょう。日々、主と共に生きて行きましょう。それではお祈りします。