いのちを与える水

2016.10.23主日礼拝「いのちを与える水」<ヨハネ7:37-39>佐々木俊一牧師

   さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。(ヨハネ7:37~39)

■北海道では、9月と10月は、米、ジャガイモ、とうもろこしなどのいろいろな穀物、野菜、そして、りんご、ぶどう、なしなどのいろいろな果物の収穫があります。秋の収穫は、他のどの季節よりもたくさんの収穫があり、その年の最後の収穫の時ということもあって、各地でお祭りが行なわれます。

   イスラエルにおいても、この時期はその年の最後の収穫を迎えるので、収穫祭が行なわれます。それは、仮庵の祭りと言います。イスラエルの有名な三大祭り(過ぎ越しの祭り、七週の祭り、仮庵の祭り)の一つです。仮庵とは、草木で作った質素な小屋のことであり、あるいは、テントのことです。この祭りは9月中旬から10月の中旬の間に行われます。期間は8日間です。正確に言うと7日間ですが、8日目はもう一つのお祭りがくっ付いた形になっています。毎年日程が変わるのは、太陽暦ではなくて太陰暦だからです。2016年の仮庵の祭りは、10月17日から23日だそうです。今日が仮庵の祭りの7日目で、明日が8日目と言うことになります。

エジプトから脱出してカナンの地に入るまでの40年間、神様の助けと守りの中、イスラエルの民がテントに住んで生活したことを覚えるために始められた祭りです。現在もイスラエルの人々は、この時期に木々の大枝やナツメヤシの小枝で作った仮小屋の中で数日間過ごしながら、お祝いするそうです。

■37節、38節 ここに出て来る「祭り」とは、今お話した、「仮庵の祭り」のことです。ヨハネ7章の初めにそのことが書かれています。このとき、イエス様は公けにではなく、内密にこの祭りに行かれたと書かれています。

   仮庵の祭りの1日目と8日目は、「大いなる日」と呼ばれています。祭りの終わりの大いなる日に、イエス様は立ち上がって、大声で群集に向かって言われました。一言目はこうです。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」  このことばによってイエス様は、いったい何を伝えたかったのでしょうか。実は、収穫祭のある頃と言うのは、水が最も不足する時期なのです。イスラエルには、乾季と雨季があります。乾季は5月から10月です。雨季は11月から4月です。雨季といっても、日本のように雨量は多くはありません。しかし、一旦大雨になると、岩地や砂漠などの乾燥地帯では川のなかったところに川ができて、それが激しい洪水のように、勢いよくあふれ流れるほどです。そのような流れに侵食された地形が、イスラエルには多く見られます。

   11月頃から、新たな収穫のために種まきが始まります。それに備えてイスラエルの人々は、仮庵の祭りの間、神に向かって雨乞いをしました。祭司たちはシロアムの池から神殿まで水を運び、祭壇の上に何度も何度も水を注ぎながら、「神様、どうぞ、雨を降らせてください。」と言ってお願いするのです。そのような状況の中で、祭りの終わりの大いなる日に、イエス様は立ち上がり、群衆に向かって大声で言ったのです。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から生ける水の川が流れるようになる。」と。時期的に、命を与え、命を育てる、生きるための水が一番欲しい時に、人々に向かって、イエス様はこのことばを叫ばれました。

■39節 イエス様を信じる者は、心の奥底から生ける水の川が流れるようになるとはどういうことなのでしょうか。これは、イエス様を信じる者が後になってから受ける御霊(聖霊)のことを言われたのであると書かれています。

   ヨハネの福音書4章に、イエス様が井戸端で一人のサマリヤの女に出会ったことが書かれています。その時にも、同じようなことをイエス様は言っています。イエス様がサマリヤの女に言ったことはこうです。「わたしの与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」生ける水の川も永遠のいのちへの水も、御霊(聖霊)のことを意味していることがわかるかと思います。

■先ほど38節のところで、「聖書が言っているとおりに」と書かれてありました。この聖書とは、当然、旧約聖書のことです。旧約聖書の中にも、生ける水についての言及を多く見つけることができます。たとえば、仮庵の祭りの発端となった、イスラエルの民の荒野での40年間の歩みの中にも、そのようなことを見つけることができます。

   出エジプト記15:22~25にはこのような話が書かれています。イスラエルの民は水を捜し求めたけれども、三日の間水を見つけることができませんでした。やっとのことで水を見つけたのですが、でも、それは苦くて飲める水ではありませんでした。苦い水とはどういう水の事でしょうか。塩分や硫黄分など、ミネラルの含有量の多い水です。民は、何を飲んだらよいのかと、モーセに文句を言い始めました。モーセが神に叫び求めると、1本の木を示されたので、それをその水の中に投げ入れました。すると、その水は甘くなって飲める水になったとあります。ここに出てくる1本の木は、イエス様の十字架(木)を象徴しているという見方があります。

   次に、出エジプト記17:1~7を見てみると、ここでもイスラエルの民は飲む水がなかったとあります。そして、民は水に渇いて、モーセに文句を言いました。状況はエスカレートして、モーセを殺そうとさえしました。挙句の果てには、「神はいるのか、いないのか」と言って、神を試みたとあります。この時は、神様はモーセに、杖をとって岩を打つように言われました。すると、その岩から水が大量に流れ出て来ました。このときの岩もまた、イエス・キリストを象徴しているという見方があります。

   イスラエルの民が、水がないと言ってモーセに文句を言ったのは、これだけではありません。民数記20章にも別の記事が書かれています。ですから、イスラエルの民はモーセに、「水がない」と、何度も何度も文句を言ったのではないかと思われます。

   水を見つけるのが困難な荒野という環境の中で、神様はいつもイスラエルの民に水を備えてくださいました。イザヤ書12章に、このようなみことばがあります。「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。その日、あなたがたは言う。『主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを全世界に知らせよ。シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方。』」3節のところは有名なところです。「マイムマイム」というフォークダンスの歌詞として使われています。「マイム」とは、ヘブライ語で水のことです。「救いの泉」とは、イエス・キリストのことであると言われています。

■イエス・キリストを信じるユダヤ人にとって、旧約聖書は新約聖書の真理を裏付ける根拠になっています。旧約聖書は、新約聖書の真理や教理が正しいかどうかを判断する基礎になっているのです。イエスを救い主と信じているユダヤ人たちが旧約聖書を見ると、そこに、イエスこそが自分たちが待ち望んで来たメシヤであることの印を見つけるのです。

   使徒の働きを読むと、初代教会のクリスチャンたちは旧約聖書を一生懸命調べていたことがわかります。イエス様から聞いたことや自分たちの体験していることが何を意味しているのか、また、自分たちの理解が正しいのかどうかなどを旧約聖書によって彼らは確認していたのだと思います。私たちも彼らに見習って熱心に聖書を調べてみましょう。人からただ聞くだけでなくて、聖書を開いて自分で調べて、考えてみましょう。新約聖書に書かれていることを素直に信じることは大切なことです。さらに、それらのことが旧約聖書とどのようにつながっているのかを学んだり、確認したり、ある時は何かを発見したりすることは、楽しみとなり喜びとなると思います。きっと、旧約聖書を読んでも眠くならないようになると思います。

■イスラエルの民が荒野の中を40年間通らされたように、私たちも辛く苦しいところを通らされることがあります。何でこんなに苦しめられるのだろうかと思うことがあります。できることなら楽しく生きたいと私たちは願っています。でも、それがかなわないことが時々起こるのです。それが、人生です。私たちが辛く苦しい状況の中を通らされるのには、理由があるのだと思います。でも、はっきりとその理由が何かを言えることはほとんどありません。私自身、そのようなところを通らされましたし、でも、その理由が何かをはっきり答えられることはあまりないように思います。「神様、なぜですか。」と、その理由を何度聞いてもわからないとしても、また、そんな時、つい文句を言ってしまったとしても、それでも、イエス様を信じ続け、イエス様について行く時、自分の信仰が建て上げられていることに気づくことがあります。神様と自分とをつなぐパイプが太くしっかりとしたものになって行くように思います。

   私たちが辛く苦しい時というのは、水がなくて、喉が渇いて、水が欲しいと言っている時に似ているかもしれません。でも、その時を乗り越えた時というのは、私たちが実を結んで何かを収穫した時であり、また、次の収穫のための準備が始まろうとしている時なのだと思います。私たちが辛く苦しい時に力になってくださるお方が、神の霊ともキリストの霊とも言われている御霊(聖霊)なのだということも是非覚えていただきたいと思います。聖霊はこの地上においては、私たちに生きる力を与えてくださいます。そして、この体がいつか朽ちたとしても、その先には永遠の命を生きる自分がいることを確信させてくれるのも聖霊です。聖霊は、いのちを与える水にたとえられるお方です。この地上においても、その後の世界においても、私たちにいのちの水を与え続けてくださるお方なのです。それでは、お祈りします。