ふたつのセキュリティ

2016.10.09主日礼拝<ふたつのセキュリティ>マタイ11:28~30、箴言4:23 佐々木俊一牧師
■マタイ11:28~30「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
   この箇所に出てくる「くびき」については、以前、画像をスクリーンに映して説明したことがあるのでどういうものかおわかりになるかと思います。田畑を耕すときに、2頭の牛を並列に並べて、首に木の枠を取り付けて一緒に働かせる道具です。このとき、1頭の牛は経験豊富な牛であり、もう1頭は経験の浅い未熟な牛です。この2頭の組み合わせで、未熟な牛は経験豊かな牛のやり方を習いながら、一緒に作業ができるのです。
   このところでイエス様は、ご自分でご自分のことを言っておられます。何と言っておられるのかと言うと、「わたしは心優しく、へりくだっています。」と言っています。私たち人間は、自分で自分のことをこんな風には言えません。もしも私が自分自身をこのように言うものなら、かえって不評を買ってしまいます。しかし、イエス様は神様だからそのようなことが言えるのです。そして実際に、イエス様は心優しくへりくだったお方なのです。イエス様は心優しくへりくだったお方なので、イエス様のくびきは負いやすく、イエス様の荷は軽いのです。もしも、くびきを共にする相手がイエス様でなくて人だったら、お互いにストレスがたまって始終言い争っていなければならないかもしれません。相手がイエス様だから、そのくびきは負いやすく、荷は軽いのです。イエス様を信じてイエス様についていくことは、そんなにきついことではなく、苦しいことでもなく、むずかしいことでもないようです。そして、イエス様から生き方を習うなら、心に安らぎが来るということなのです。「安らぎ」はギリシャ語で「アナポウシス」とありました。意味としては、「rest(休憩、安心、解放、休み), recreation(気晴らし、気分転換), to refresh(新しくすること、さわやかにすること、再び盛んにすること)」などがあるようです。ですから、人生に疲れて、自分は何のために生きているのかわからなくなっている人、仕事があまりにも大変で、仕事の責任があまりにも重すぎて、その重圧に負けそうな人、人間関係が悪くてそこから逃げたいと悩んでいる人、そのような問題をかかえている人々がイエス様の身元に来るならば、きっと安らぎが与えられるはずです。
■みなさんは、イエス様を信じて良かったと思いますか。イエス様を信じたら前より生きるのが楽になりましたか。それとも、苦しくなったという方はいませんか。私の場合、正直に言いますと、イエス様を信じて前より苦しくなった時期がありました。それは、イエス様を信じて2年くらいの間の事です。信仰を持ったにもかかわらず、どうしてあの2年間は苦しかったのだろうかとふりかえってみました。バプテスマを受けて初めのうちは喜んでいたのですが、だんだん喜びが無くなっていきました。その理由としていくつか考えられます。一つは、クリスチャンになって新たな人間関係が与えられ、それは私にとってとても居心地の良いものでした。私はしばらくそれを楽しむことができました。けれども、私は人とのつながりにあまりにも大きな期待と楽しみを求めていたものですから、一旦それが思い通りに得られなくなってしまったり、人のエゴや欠点を見てしまったりすると、批判的な思いに悩まされるようになってしまいました。また、それは、私の心が神様に向いていなかったことを意味します。私は神様にではなくて、人に期待し人に求めていただけなのです。私が信仰を持ったにもかかわらず辛く感じていたのは、そんなところに原因があったのだと思います。そんな中、私は聖書をもっと読むように導かれ、神様がどのようのお方なのかを少しずつ理解するようになっていきました。そして、神様との関わりを喜び、人にではなくて神様に求めるようになりました。イエス様に従いたい、神様の御心に従いたいという思いも与えられました。もちろん、失敗もありましたし、神様の御心でないこともやってしまいました。やっと3歩進んだのに5歩下がるような歩みの時もありました。時間はかかりましたが、それでも着実に、神様の安らぎが私の内にしっかりと根をおろし始めました。たとえ、他人が自分のことを自分が願うように受け入れてくれなくても、また愛してくれなくても、神様は受け入れてくれているし、愛してくれているという自信と自己肯定感が与えられました。だから、自分は大丈夫だという思いが心の中に出来上がりました。私は英語の表現で、「I am secured.」という表現が大好きです。「大丈夫だよ、安心していいよ、安全だよ、守られているよ、緊張しないでリラックスしていいよ」という声が聞こえてきます。これは、神様が与えてくれる一つ目のセキュリティです。
■箴言4:23 「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」
   今の時代、セキュリティという言葉をよく耳にします。インターネット関係でもセキュリティという言葉を見ない日はありません。ウィンドウズにインターネットオプションというのがあります。インターネットのセキュリティのレベルがあります。中・中高・高の三段階です。高いレベルにすると、高いレベルの安全性を確保できます。けれども、インターネットの利用の範囲は狭まり、不自由さを感じます。低いレベルにすると、安全性は弱くなります。コンピューターウィルスやネット犯罪に巻き込まれるリスクが高まります。自由はありますが、リスクを覚悟しなければなりません。
   ところで、私たち人間は、ある意味、パソコンに似たところがあると思いませんか。今の時代、数多くの情報が飛び交っています。特に、インターネットを通して発信される情報量はすさまじいものがあります。インターネットというツールは使いようによっては益にもなれば害にもなります。情報には、良いものもあれば、悪いものもあるからです。これらの情報は、私たちの目や耳から入り、心の中に保存されます。心の中に保存された情報は私たちに何も影響はないのでしょうか。もちろん、あります。私たちの思考にも感情にも意志にも影響力があります。もしかすると、精神的な面だけではなくて霊的な面への影響もあるかもしれません。
   私たちの心を守るために、神様が与える2つ目のセキュリティがあります。パソコンのためには三つのレベルのセキュリティがありました。高・中高・中です。私たちは私たちの心を守るために、良い情報と悪い情報を見分けるための基準が必要です。社会の一般的な基準は一見寛容で自由な感じがします。しかし、社会一般の基準で判断するならば、私たちの心には神様の御心でない情報がたくさん入って来るのを許可することになります。私たちはクリスチャンですから、やはり神様の基準、聖書の基準を自分たちの生きる基準にしたいと思います。この基準は人を裁くための基準ではありません。あくまでも、何が正しいのかを明らかにするための基準であり、自分の心を守るための基準です。一つは十戒を初めとする律法という基準があります。何度も言いますが、これは人を裁くための基準ではありません。自分の心を守るために必要な基準です。そして、もう一つはイエス様が与えた新しい戒めです。それは、「互いに愛し合いなさい。」です。愛は律法を全うすることができるとパウロは書簡に書いています。神様の愛を知った人々は自分を正しく愛することができるようになると私は信じます。その人々は神様を大切にし、隣人を大切にすることを学びながら生きている人々だと思います。これらの基準は、私たちが力の限り見張って心を見守るために必要な基準です。
   しかしながら、人は完全ではありません。力の限り見張って心を見守っていても、私たちは過ちを犯してしまうことがあります。そのようなときは、私たちの罪のために死んでくださったイエス様がおられることを覚えましょう。イエス様は実に私たちにとって最後の最後まで救ってくださるお方です。それゆえに、イエス様に感謝し、み名をほめたたえましょう。ただ、イエス様の十字架の死があったからこそ私たちは罪赦され生かされているのですから、私たちは甘えてばかりもいられないことは覚えておきましょう。聖書を毎日読んでください。なぜならば、聖書のことばは私たちの思いや心を洗い清めてくれるからです。そして、示される過ちがあるならば、神のみ前にそのことを告白することです。それによって神様は私たちの罪を赦し、すべての悪から私たちを清めてくださると聖書に書かれています。
   二つのセキュリティを覚えていただきたいと思います。一つは、神様は私たちを受け入れてくださり、愛してくださり、守ってくださっています。ですから、私たちは大丈夫です。安心していいのです。この安心感が、一つのセキュリティです。もう一つは、私たちの心を見守るための神様の基準です。私たちはこの基準を尊重したいと思います。それではお祈りします。