神のみわざの跡

2016.9.25主日礼拝<神のみわざの跡>詩篇105:16~24 佐々木俊一牧師

■9月10日(土)と11日(日)、豊浦で修養会の時を持ちました。青い海と緑の山々に囲まれたとても静かな場所でした。身も心もリラックスし、リフレッシュできたのではないかと思います。活動の一つとして、旧約聖書の人物についてグループごとにリサーチしてもらい、発表してもらいました。時間が短かったので十分なことはできませんでしたが、それでも、旧約聖書の人物をとおして神様がどのように働かれたのかを再確認することができたのではないかと思います。さらに、礼拝の時には、創世記50章を読んで、ヨセフを通して表された神様のみわざについて考えてみる時間があったと思います。今日はその続編としてのメッセージを語りたいと思っています。

■今日の説教聖書箇所に、ヨセフという名前が出てきます。このヨセフは、アブラハム、イサク、ヤコブ、そして、ヤコブの12人の息子たち、その中の一人がヨセフです。ヨセフは、ヤコブの11番目に生まれた息子です。ヤコブが年老いてからの息子でしたから、他の息子たち以上に特別な愛情を注いで育てました。他の兄弟たちの目からはっきりわかるほどに、特別な待遇でした。それに加えて、ヨセフには、兄たちの気持ちを逆なでするような一面があって、兄たちの悪い行いをいちいちヤコブに報告していました。そんなことで、ヨセフは、兄たちから妬まれ、憎まれていました。

  そんなヨセフでしたが、神様は彼に一つの突出した能力を与えていました。それは、夢を見ることです。みなさんの中にもよく夢を見る方がいるかもしれません。正夢などという言い方がありますが、ヨセフの見る夢もただの夢ではありませんでした。神様は夢をとおして彼に語りかけていたのです。また、夢を解き明かす能力も彼にはありました。夢のすべてが神様からのものと考えるのなら、それは極端な考えです。私たちの人生のすべてを私たちの見る夢にゆだねるとしたら、それは危険な行為です。ただ、聖書の中には、夢をとおして神様に語られた人々は、他にも多くいることも確かです。神様は、夢だけではなくて、いろいろな方法をとおして私たちに語りかけてくださいます。励ましを与えたり、慰めを与えたり、導きを与えたりしてくださいます。また、神様が造られた自然をとおして語りかけてくださることもありますし、偶然と思われるような出来事をとおして語りかけてくださることもあります。そして、何よりも、聖書のことばをとおして語りかけてくださいます。ですから、私たちは、聖書をよく読んで、確固とした神様のことばによって導かれたいと思います。  

■ヨセフは、ある日、夢を見ました。どんな夢かというと、それについては創世記37章に書かれています。二つの夢について説明があります。まとめると、将来、父も母も兄弟姉妹も、家族のみんながヨセフの前にひざまずきヨセフが彼らを治めるようになるという夢です。みなさん、もしも誰かがそのような夢を見た時には、たとえ、それが本当だとしても、どうか、自分の胸の中にしまっておいてください。ヨセフの兄たちはこの夢の話を聞いて怒りました。彼らのヨセフに対する憎しみは、ますます膨らんでしまいました。そして、その後、大きな事件に発展してしまいます。

■詩篇105:17 「ヨセフが奴隷に売られたのだ」とあります。創世記37:12以降に、ヨセフが奴隷として売られてしまった経緯が書かれています。ヤコブはヨセフに、兄たちの様子を見に行くように言いました。この時、ヨセフは17歳くらいでした。ヤコブの家族はヘブロンにいましたが、兄たちは羊のえさを求めて60キロ以上も離れたシェケムの方まで行っていました。その距離を17歳のヨセフは歩いて行きました。そして、悲劇がヨセフに襲いかかります。兄たちは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに彼を見つけて、彼を殺そうとたくらみました。ヨセフを殺した後は、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣に食い殺されたと言おう、そして、ヨセフの見たあの夢がどうなるのかを見てみようではないかと、心を合わせて考えました。しかし、結局のところ、4番目の兄、ユダの提案で、ヨセフを殺しても何の得にもならないから、ちょうどイシュマエル人の商人が通りかかったので、ヨセフを銀20枚で売ることにしました。こうして、ヨセフは、奴隷としてエジプトへ連れて行かれてしまったのです。この後、ヨセフにさらなる困難が次から次へと待ち受けていました。

■詩篇105:18~19 「ヨセフは鉄かせの中にはいった」とあるように、17歳から30歳まで、ヨセフはいくつもの試練に見舞われました。「彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした」とあります。彼とは、ヨセフのことです。ヨセフのことばとは、「ヨセフの父も母も兄弟姉妹も、家族のみんなが、ヨセフの前にひざまずくようになる」ということです。ヨセフは、17歳から30歳までの13年間、自分に課せられる試練の中で試されました。どのように試されたのでしょうか。ヨセフはヤコブが信じていた神様を信じていました。天と地のすべてを造られた神様を信じていました。ヨセフに許された困難のゆえに、神様を恨んだり、神様を捨てたりすることはありませんでしたが、落ち込むことはあったでしょう。自分が見た夢とはまったく反対の出来事が連続して自分に降りかかるのですから。しかし、そのような中でも、ヨセフは神に信頼し、必ず神様はこのような境遇から救い出してくださる、脱出の道を備えていてくださると信じる方に立ち続けたのです。

■詩篇104:20~22 ある日、エジプトの王様が夢を見て、その夢を解き明かす者を探していました。その時、ヨセフは牢屋の中にいたのですが、ヨセフが夢を解き明かす能力があるという評判が王様の耳に入って、彼は王様の前に連れて行かれました。王様が自分の見た夢について話し終わると、ヨセフはその夢を解き明かしました。その夢は、7年間の豊作と、その後に来る7年間のききんを意味するものでした。このようなことがあって、ヨセフが30歳のとき、エジプトの王に召し出されて、王の次の位につき、王に代わってエジプトを治めるようになりました。ヨセフは7年間の豊作の間に食糧を蓄えさせ、7年間の飢饉に備えさせました。その政策が成功して、飢饉が起こったときには十分な食糧が確保されていました。飢饉が始まると、周囲の国々から多くの人々が食糧を求めてエジプトにやって来ました。周囲の国々はエジプトに吸収されて、エジプトは勢力を増し加えて行きました。やがて、ヤコブの家族が住んでいたカナンの地にも飢饉が起こりました。そのため、ヤコブの息子たちは食糧を求めてエジプトにやって来ました。こうして、ヤコブやヨセフの兄弟たちとの劇的な再会が起こるのです。ヨセフの見たあの二つの夢は、現実のものとなります。ヤコブもヨセフの兄弟たちも、ヨセフの前にひざまずいて、ヨセフは彼らを治めました。ヨセフは、彼が見た夢が実現するまで、試練の中にありました。この試練の中でヨセフは試され、神様のみわざは進んで行きました。

■試練や困難は、正直、誰にとっても嫌なものです。試練が好きだという人は誰もいないでしょう。避けることが出来ることであるならば避けてよいのです。でも、避けようと思っても避けられない試練や困難があります。そのようなとき、私たちは何ができるのでしょうか。何もできません。まったく、「まな板の上の鯉」状態です。ただ、主にゆだねて、長いトンネルの中から出るのを待ち続けるだけです。しかし、聖書の中に、試練についての約束のことばがあります。試練はいつまでも続くことはないということです。必ず、脱出の道が備えられているのです。この約束が本当であることは、みなさんも体験しておられることと思います。

  ヨセフは奴隷としてエジプトに売られてから13年間、ずっと暗いトンネルの中を歩み続けました。いつになったらそこから脱け出せるのかわからない不安がありました。しかし、この長いトンネルには終わりがありました。私たちは、聖書をとおして、ヨセフのとおった13年間の試練を客観的に見ることができます。そして、そこには、「神様のみわざの跡」を見ることができます。どのようなみわざを見ることができるでしょうか。

①    試練の中でヨセフは変えられた。

  17歳の頃のヨセフは、少々生意気な思い上がった少年だったかもしれません。人の気持ちがわからない、思いやりのない性格だったかもしれません。これについては、親であるヤコブに大きな責任があるのではないかと思います。しかし、神様は、よくできた人間を用いるのではなく、欠けのある不完全な人間を用いられるようです。ただし、そのような欠けのある不完全な人間は、場合によっては、鉄のかせが許されるのです。そして、そこで練られて変えられるのです。ヨセフは神のみ手により鉄のかせの中に入れられました。それは、ヨセフを罰するためでもなく、つぶすためでもなく、建て上げるためです。ヨセフが兄弟たちと再会したときは、若い頃のヨセフとは違いました。ヨセフは変えられていたのです。以前のヨセフでしたら、人々への配慮もなく権威を乱用したでしょうが、彼は、へりくだりをもって権威を用いる人に変えられていたように思います。だからこそ、兄たちが自分にした悪を赦し、和解し、彼らを受け入れることができました。ヨセフは、自分が見た夢のように、人々の上に立って権威を行使する人になりましたが、それにふさわしい者として鉄かせの中で変えられたのです。そして、神はヨセフを用いられました。

②    試練の先には祝福がある。

  私たちが変えられるということが、何よりも神様のみわざです。加えて、いやし、奇跡的な事柄、成功、地位、栄誉など、いろいろな形で表わされる実際的な祝福もまた神様のみわざです。ヨセフに許された試練の中に、目には見えませんが、神様のみ手の働きがあったので、ヨセフはエジプトで王に次ぐ地位を受けて国を治めるに至りました。試練の先には、神様の祝福があることを覚えましょう。

③  試練の中には救いを成し遂げるための神様の助けがある。

  ヨセフの試練は、何よりも神の救いが成就するまでの過程において、イスラエルの民が守られるために神がなされたみわざであると言えます。詩篇105:17に「主はひとりの人を彼らにさきがけて送られた」とあります。ヨセフに許された試練によって、ヨセフの兄弟と家族は飢饉から救われました。アブラハム、イサク、ヤコブの家系がイエス・キリストの誕生を迎えるそのときまで、守られなければならないのです。救い主が来られるその時まで、この家系が絶えてしまってはなりません。神のみ手が先回りして彼らを守られたのです。

  一人一人の人間にとっても、試練は、イエス・キリストの救いを知る良い機会として用いられます。また、もっと深く親しく神様を知るための機会として用いられます。

■旧約聖書に出て来る人々は、それぞれに許された試練があります。彼らにそのような試練が許された大きな理由は、ヨセフと同様、神様の救いをすべての人に知らせるためです。創世記50:19~20「ヨセフは彼らに言った。『恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのために計らいとなさいました。それは、きょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。』」これは福音です。救い主イエス・キリストがなさったことを表わしています。人はイエス・キリストに悪を計りましたが、神はそれを良いことのために計らいとなさいました。それは、多くの人々が罪赦され、永遠の命を受けて救われるためです。ヨセフの兄弟たちは、父ヤコブが死んだ後、ある恐れがありました。それは、ヨセフが自分たちを恨んで自分たちの悪に対して仕返しをするのではないだろうかと思ったのです。しかし、そんな心配をする必要はありませんでした。ヨセフはすでに彼の兄弟たちを赦していました。

  ヨハネ5:46~47に、「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じるはずです。モーセが書いたのは、わたしのことだからです。」とあります。モーセの書とは、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のことです。また、ルカ24:44に、「さて、そこでイエスは言われた。『わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず成就するということでした。』」創世記や詩篇には救い主のことが書かれています。ヨセフをとおして現わされた神のみわざもまた、神の救いを表しているのだということを覚えておいていただきたいと思います。それでは、お祈りします。