神のなさることは、すべて時にかなって美しい

2016年9月4日主日礼拝 メッセンジャー:谷岡姉

コヘレト(伝道者の書)3章1節~14節

メッセージ「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」

 

前回の私のメッセージは佐々木牧師が就任する前だったから、あれから8年経ったのでしょうか?

 

前回もコヘレト(伝道の書)3章1節~11節 「神のなさることはすべて時にかなって美しい」というタイトルで私の受洗、長男誕生、その後二人の子どもの早産での死亡、念願の次女の誕生のいきさつについて話しました。

今日もその続きで、11節から再び神様のみわざを証したいと思います。

でもその前に漫才師 綾小路きみまろの迷フレーズ 「あれからウン十年・・」迷とは有名の名でなく、迷うという字の迷フレーズを幾つか紹介・・・

 

・綾小路きみまろ 迷言集

「中高年の奥様 後ろから見たら ムーミン 前から見たら くまモン」

「中高年の奥様 デブなのに手には スマートフォン」

「中高年の奥様 そのような顔に どこから手を付けましたか」

「ハイヒールがローヒールになり セクシーがヘルシーになり 美容院に通ってた人が 接骨院に行くようになります」

「シワ シミ たるみは 中高年の必需品でございます もう気にする事はございません シミは ブローチだと思えばいい シワが デザイン たるみがアクセサリー イボは真珠だと思えばいい」

「美しい方ばかりです 首から下が」

「言ったことを忘れ 言おうとしたことまで忘れました」

 

私は、実は昔(十数年くらい前)綾小路きみまろのこのネタを聞いた時は超不愉快でした。女性を馬鹿にしていると。でも改めて今聞くと、妙に納得する部分があって、時とは、決して美しくなく、むしろ残酷なものです。

実は私たち夫婦も来年2017年で結婚30周年を迎えます。人の人生はなんと早いものか・・・

30年はあっという間だったけど30年の心身の衰えのなんと顕著な事か、困ったものです。

 

でも、そんな時、聖書の御言葉、神のなさることはみな永遠に変わらないとことを知らせてくれます。

 

 

実は、知る人ぞ知る、もしかして誰も知らないかもしれないが、私は超緊張症で

10年前には今の皇太子妃の雅子さまと同じ病名で「適応障害」という診断で心療内科に通院していました。

とにかく不安で人前で喋れない、手が震えて文字が書けない、人の目も声も、怖いという症状でしたが、投薬治療で症状は5年ほどで収まりましたが、いまなお、場面によっては症状が出てきて困っています。それでも皇太子妃雅子さまと違って、おおやけの場に出る公務なものなんて一切ないから、比べモノにならないほど、お気楽に生きています。

私の病気を知ってる上で、さらにたたみかけるように追い打ちをかける人間で、私の「語る。話す。」という行動を最も非難するのは、私の最愛なる夫です。夫はとても優しく温厚な性格でこの結婚は私にとって人生の大成功と信じています。それでも非難されるのが私の話の運び方なのです。もちろん彼は、年中講義をしてお金を貰うプロの話し手ですから、私の話は彼にとっては意味不明の理解しがたいものだそうです。他人には忍耐を持って聞き手上手になるくせに、妻には1分の我慢もならないようです。「あなたの話は何が言いたいか分からん。先ず要点を話せ。早く終われ。」

女の私は話を盛り上げたく、話を引っ張って引っ張って、ドラマのように劇場型に話すのが大好きなのですが、そのサービス精神を、最愛なる夫にことごとく粉砕され、人前で語るのに益々コンプレックスを持っているのです。このような私でも、礼拝中、子どもメッセージの担当は何回か奉仕しました。でも、その都度、一番厳しいコメントを夫から受け、彼に感想すら聞くことも恐れていました。

まさか、この私が礼拝のメッセージをするとなると、彼からどんな厳しい感想がと、憂いていましたが、

が、ハレルヤ!今日は、彼は私の奉仕の予定を知らず、石狩サーモンマラソンに参加し、まさに今、走っている最中であります。神様、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」!!!まさにあなたの言葉は生きています!!

 

こんな私でも、友人と個人的に話すのは大好きで、ファレスで、ランチのドリンク飲み放題をいいことに5時間でも8時間でも平気で語れるのです。

 

でも、礼拝のメッセージとなると、話題は世間話でも無く、自慢話でも無く、聖書的であらねばという事からずっと、この奉仕を断り続けていました。ましてや、この語りがHPに記録として残るものですからトンでもなく私には無理な奉仕と感じてました。

でも、反面、旅行等で礼拝を欠席した時は、その場には居なかったけど、HPに載るメッセージをとても楽しみにしていたのも事実です。特に最近は草島さんや土崎さんのメッセージにものすごく感動して、このような私でも何か少しでも、牧師などの訓練を受けて無い、ど素人の話をしたいと思い、悩みに悩み抜いたお話をします。どうぞ、この小さな語る者に神様の励ましと、聞く方々に寛容な心がありますように。

 

やっとここからが本題です。

コヘレトの書は、私の大好きな聖書の箇所でも有ります。どんな時でも、聖書の御言葉、神のなさることはみな永遠に変わらないとことを知らせてくれます。

私には超楽天家である部分と、限りなく心配症である部分があります。

例えば、夫の事、息子の事、実家の事、家庭経済のこと、健康のこと、全てに置いて、気をつけてはいるが心配は全くしていない。とにかく夢見る夢子ちゃんで妄想大好きで、未来には左うちわの自分が居て、今日よりも明日が楽しみで楽しみで仕方ない楽天家です。(左うちわ:一般的に利き手が右手であることから、利き手でない左手でうちわや扇をゆっくりと使う姿は、あくせくは働く必要が無く、ゆったりとした生活を送っているように見えるため、転じて、安楽に暮らすことを左うちわ、左おうぎと言うようになった。右腕:右利きが前提で優れたもの、頼りになるもの、右に出るものがいない、英語でもRight 正しい。)

 

事実、札幌に来てからの15年の間にも色々な試練があったらしいが、記憶が無いのです。私の脳にも問題があって記憶の部分が欠如しているらしいので、滅多に過去を振り返ることはしません。特に辛い経験は全て消去されているみたいです。他人から言われてやっと思い出すことができます。記憶できないという重大な障害も、私にとっては覚えなくてもいいラッキーな賜物に感じているのも事実で、反面、周りの人はさぞかし迷惑してるだろうなと、思っています。もしかして、この事でご迷惑をかけた方がいらっしゃるならこの場でお侘びいたします。ごめんなさいね。

脳天気な私がまたまた大好きな聖書の箇所は、それこそ、

マタイ6章:34節 「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である」。これは私の座右の銘です。

 

その私が唯一、心配の限りで心が張り裂けそうになるのが、娘の奈緒美です。彼女の事を思うだけで、小心者のチキンになります。英語ではCoward(カワッド)です。彼女の名を聞くだけで胃袋の奥に鉛をずんと乗せたように体が重くなり、全ての思考がマイナスになります。私が知らないうちに、このままあの子は死んでしまうのではと突拍子のない思いに、さい悩まされます。

理由は幾つか思い当たります。

たった13歳で、英語も全く喋れない子供を、外国の寄宿舎に放り込んでしまったという親の負い目です。その時は彼女にはものすごく特別な才能があり、親としては、このタレントを、最も最良の学校で伸ばすべきだという信念がありました。今思えば恐ろしい無茶ぶりの鬼親だと思います。

その後、彼女の歩んだ「芸術者」アーティストという茨の道をただ励ますだけで、彼女が親に心配かけないように抱え込んでいた事実を知らずに過ごしていました。確かに日本に於いても、私は芸術者の苦難の情報ばかりを選んで見ていても、でも、何故かウチの子は大丈夫的なバカ親でした。しかし、彼女は昔の同級生から、「あんなに陽気で明るい元気な奈緒美と違ってきたね」と言われるほど、全く別人の様に変わっていました。

あれから8年、彼女の人間形成は既に私の環境から離れ、外国で中学・高校と教育を受け、日本語よりも英語で考える脳を持っています。だから、ある出来事に対しても、私の受け止め方と彼女の受け止め方は違うはずです。でも違うとわかっていても、私は何故か最悪のケースを考えてしまうのです。きっと最悪のケースで覚悟していたらその結果少しでも悪くなかったらポジティブである喜びを感じるだろうという、これまた楽天家なる思想だと思います。でも常に彼女のことの最悪の状態だけ設定したら、そりゃ、あんた、彼女の事をチラって思うだけで胃が痛くなるのは当然です。

それでも、時々彼女がもたらす小さな幸せの報告、例えば誰某に褒められたとか、何とかの役についたとかの話に、もうスキップして街中を駆け巡りたいほど幸福感に満たされます。でも、その幸福に浸りながら明日には何か悪いことが起こるかもと、とてつもない不安感に襲われる悪循環なのです。 

完璧にチキンです。

今も私の出来る行動は、祈って祈って、教会の皆様に祈りをお願いして、それで一人になって考え込む時間が無いように、ヨガやらダンスやら用事を作ってひたすら出歩いているのです。

 

それでも日常生活に置いて、私がほぼ70%程、能天気でいられるのは、聖書の言葉が常に私を励ましてくれるからです。

 

コレヘト:11節「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」

神様は人間に「永遠への思い」を与えられたと書いてあります。まさしく私のように夢みる夢子ちゃんの様に妄想する事も与えられました。娘に対しても未だ夢を見続けています。でも私が見ることは出来るのは過去と現在。その経験から将来を予測しようとしても将来はわからない。だから「人間に出来ることは与えられた現在を精一杯生きることだ」とコヘレトは語ります。娘は私が想像する以上に与えられた環境で精一杯生きています。これ以上、私が何かを与えられるはずも無いのに、何を私は求めているのか。人間は見きわめることができないと言う言葉を謙虚に受け止めるだけなのです。

 

コヘレト:12節「私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。」

人は明日のことはわからない。そのことを不安に思ったり、嘆くのではなく、「明日のことは主に委ねよ」とイエス様も言われました。 先ほど私が引用したマタイ6章34節です。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である」。今を喜び、楽しむようにと言っています。

少し前の流行言葉と意味は違いますが、「今でしょ!」「与えられた今日でしょ!」

 ついつい嬉しいくせに、喜んでばかりもいられないさって言う自分の心にも、反省させられます。素直に喜びましょう。

 

 

コヘレト:13節「また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にも幸せを見いだすこともまた神の賜物であることも。」

聞きました? 食べたり飲んだりして幸せを感じるって神様からのプレゼントなのです。

飲み食いの大好きな私には信じられないくらい素敵な言葉です。でも戒めでもあります。ただかぶりつく前に、頭を垂れて、感謝を捧げてから、口に運びましょう。

神様からの賜物として、全てを見ることが出来る人は、感謝出来る人になるのです。この人生の日々も、飲んだり食べたりするものも、労苦して得た結果も、富や財産も、それらをもって楽しむことも、そのすべてを神からの賜物として、享受し、満足できる人は幸せな人だと言っています。

同じ3章の22節にも似たような言葉があります。「私は見た。人は自分の仕事を楽しむよりほかに何も良いことがないことを。それがその人の受ける分であるからだ。」

神様から与えられた仕事を楽しんでいますか?仕事は苦しいものですか?仕事があることは誰かの助けとなるはずです。誰からも必要とされないことは悲しいことです。仕事に対する報酬での感情は人それぞれあると思いますが、働くことは生きる喜びであるのは間違いないはずです。そしてコレヘトは自分の労苦により、魂に満足を見出した時の喜びに勝るものは無いと言います。その喜びは神からのプレゼントなのです。両手を広げて受け取りましょう。

 

コヘレト:14節「私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。」

ここまで来るとただひたすらアーメンです。聞きました? 

付け加えることの取り去る事も出来ないのですよ。ということは、私たちが何をしても、何かをしたからって計画は変わらないのですよ。天の御父である神様が、私たちのことを最も愛し、最も良い計画をご用意していると知ったら、私たちはもろて(両手)をあげて全て委ねればいいのです。そして準備してくださる「良い時」を固く信じて、祈り進めばいいのです。必ず勝利が与えられるのです。

もしかして、その委ねて待つ時間が、私たちにとって辛い時であっても、聖書はこのような言葉で私を守って下さいます。

第一コリント 10章13節「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

 

 

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」

このような言葉を読む時、私たちは、人生に起こるさまざまな出来事に、一喜一憂するのではなく、全ては、神様が与えた時の中にあって移り変わってゆくものなのだ、と冷静な平常心を保つこともできますし、落ち込むことがあっても、またそこから這い上がる時を神が与えてくださるのだ、と大きく構えることができます。

 「禍福(かふく)はあざなえる縄のごとし」ということわざも日本にありますように、幸福だからといって有頂天になる事もなく、かといって不幸の中にあっても自暴自棄になることもなく、すべては表裏一体で起こる事なのだ、ととらえる見方が示されています。いつ、どんな時でも、信仰さえあればハッピーに生きられるというわけではありません。辛いときも、苦しいときもあるし、理不尽だと思う出来事に出くわすときもあります。

しかし、必ず時が巡ってきて、その時に神の「最も良い」計画が明らかにされるという確信があれば、今、日々の「今ここ」を、喜びを持って頑張れるのではないのかと、コヘレトが語っています。

 

今回のお話をまとめていくうちに、私の内にどれだけの平安が私に与えられ、どれだけの希望が与えられ、何よりもこの貴重な時間が、決して巻き戻しできない時間、でも次の瞬間の時間がただ流れてくるのでなく、神様から計画された時として与えられているものだと感じただけでも、きっと今からの私の心は、自分の憂いのために無駄な時間を費やすことはないだろうと確信します。

少なくとも、今日と明日は大丈夫でしょう。たとい記憶できない私がすぐに忘れても、きっと神様は色んな方法で私に思い出させてくれると信じます。

ただただ、感謝して。アーメン!