どんな礼拝でも大切にしたいこと

2016.8.28主日礼拝「どんな礼拝でも大切にしたいこと」<使徒15:13~19>佐々木俊一牧師

■16節~17節のことばは、旧約時代の預言者アモス(BC800/イザヤよりちょっと早い)によって語られたことばです。アモス書9章にあります。このところにダビデという名が出てきます。アモスという預言者が立たされていたのはダビデが亡くなってから200年後くらいのことだと思われます。

  ダビデは今からおよそ3000年前の人です。イエス・キリストの系図を遡るとダビデの名前にぶつかります。アブラハムの子孫、ダビデの子孫としてキリストがお生まれになると聖書で言われているとおりです。ダビデの家業は羊を飼う農家でした。そして、彼は羊飼いでした。しかし、後に彼はイスラエルの王になります。

  また、ダビデはシンガーソングライターの先駆者でもあります。竪琴の名手でした。竪琴とは小さなハープのような楽器です。ダビデは詩とメロディーを作り、竪琴を伴奏しながら歌いました。彼の歌は神に捧げる歌でした。喜びや悲しみからこみ上げる思いを歌にし、どんな時にも神様に感謝と賛美を捧げました。旧約聖書に詩篇というところがあります。全部で150篇ありますが、その多くはダビデによるものです。

■使徒の働き15章は「エルサレム会議」と言われているところです。ここで問題とされているのは、異邦人の救い、つまり、イスラエルの民以外の人々の救いの条件についてです。パリサイ人出身の信者たちは、異邦人信者も律法の規則に従うように指導すべきだと主張しました。しかし、結果は、基本的にはイエス・キリストを信じる信仰と恵みによって救われるのだということが明確にされました。

  16節に「ダビデの幕屋」ということばがありますが、何のことか聞いたことはあるでしょうか。まず、幕屋とはテントのことです。旧約聖書には、幕屋(テント)と言われるものが二つあります。ともに、神様が住まわれる場所であり、人々が礼拝を捧げる場所でした。一つは、モーセの幕屋です。それは、モーセの律法に従って神に捧げる礼拝を意味しています。どのような礼拝かと言うと、牛や羊などの動物を罪のためのいけにえとして捧げるのです。そこでは、毎日毎日、動物のいけにえが捧げられていました。その中で働く人々は祭司と呼ばれています。祭司たちは、人々が捧げものとして持って来た動物をほふり(殺し)、それを祭壇の上で焼き尽くしました。このような作業をする祭司たちですから、いつも手足や衣服は血や砂埃で汚れていました。彼らの汚れた手足は、幕屋の庭にある洗盤の水で洗い流しました。このような礼拝が旧約時代の正統な礼拝の形です。

  それに対して、ダビデの幕屋での捧げものは動物ではありません。そこでは、感謝や賛美や祈りが捧げられていました。レビ人と祭司たちがいろいろな楽器を演奏しました。それに合わせてダビデや歌い手たちが感謝や賛美の歌をもって神をほめたたえました。ダビデが契約の箱を自分の作った幕屋の中に運び入れたのをきっかけに、このような礼拝の形が始まりました。ダビデの時代には、モーセの幕屋とダビデの幕屋の両方で礼拝が捧げられていました。けれども、以前と異なり、モーセの幕屋には契約の箱がありませんでした。神が共におられることを意味する契約の箱は、ダビデの幕屋に置かれていたのです。ダビデという人は、新約時代のクリスチャンと神様との関係を表している人物です。そして、ダビデの幕屋で行なわれていた礼拝の形は、クリスチャンが捧げる礼拝を表すものです。しかし、いつしかダビデの幕屋の礼拝の形は、姿を消してしまいました。ところが、アモスが預言したとおりに、ダビデの幕屋で捧げられていた礼拝の形は再び回復するのです。イエス・キリストの十字架の贖いによって、信仰と恵みによって捧げられる礼拝が初代教会に回復したのです。それは、ユダヤ人たちだけのためではなくて、全世界の人々のためのものとなりました。

■初代教会の礼拝に影響を与えていたものが、もう一つあります。それは、シナゴーグと言われている、ユダヤ人の会堂での礼拝です。バビロン捕囚以来、本来の礼拝行為ができなくなったユダヤ人たちは、ともに集まり、聖書(律法と預言書)を朗読し、祈り、聖書のことばの解釈を教えました。それが、彼らの礼拝の形になりました。この形は、ダビデの礼拝の形と同様に、初代教会の人々の礼拝に影響を及ぼしているものです。エペソ5:19に、「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」とあります。このみことばは、人々がともに集まり礼拝を捧げるときにどのようなことをしていたのかを表わしているものです。彼らは、詩篇にメロディーをつけたものを歌い、または、他の賛美歌を歌い、互いに神様のことを語り合い、礼拝を捧げていました。使徒2:42,46を見ると、賛美の他に、メッセージをしたり、祈ったり、主の晩餐式をしたり、交わりをしたり、食事をしたりしているのがわかります。オープン・ドア・チャペルの日曜礼拝の様子と大変似ています。

■詩篇22:3「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」ダビデはイスラエルの賛美の中に神様が住んでおられると歌っています。クリスチャンは霊的イスラエルといわれていますから、クリスチャンが捧げる賛美の中にも神様が住んでおられるはずです。目には見えませんが、目に見えるお方であるかのように、神様に向かって礼拝を捧げることは神様の喜ばれることだと思います。

  ダビデの幕屋での礼拝についてさらに見てみたいと思います。

1)感謝をささげる:詩篇100:4「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、み名をほめたたえよ。」

  私たちが礼拝に来るとき、その時によっていろいろな心の状態や状況の中からやって来ます。疲れていたり、傷ついていたり、恐れや心配があったり、罪の咎めを感じていたり、逆に、嬉しいことがあったり、喜んでいたりします。私たちの心の状態が安定している時は、感謝することは難しいことではありません。でも、心の状態が不安定な時は、感謝することが難しいのです。難しい時に捧げる感謝は、特に、感謝のいけにえと言えるでしょう。感謝を捧げることは、神様の力を受けるための入り口になります。感謝を捧げることは、礼拝を始めるのにふさわしいことです。

2)賛美をささげる:詩篇43:4「私は心を尽くしてあなたに感謝します。天使たちの前であなたをほめたたえます。」

  賛美ということばには7つくらいのことばがあるそうです。ここで使われている「ほめたたえます」には、「手を上げて賛美します」という動作を含むことば(ヤダー)です。詩篇69:30「私は神のみ名を歌をもってほめたたえ、神を感謝をもってあがめます。」ここで

使われている「ほめたたえる」は、自分が不利な状況に置かれているにもかかわらず、神様がしようとしていることに先んじて、感謝と賛美を捧げる、いわば、「賛美のいけにえ」という意味と「手を上げる」という意味を含んでいることば(トーダー)だそうです。

3)礼拝をささげる:ピリピ2:10「それは、イエスのみ名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」

  「礼拝する」とは、ひざをかがめることであり、ひれ伏すことであり、地面に頭をつけるほどに低くなることです(ヘブル語でシャカー、ギリシャ語でプロスクネオ)。

  ダビデは礼拝の初めに、感謝を捧げ、次に賛美を捧げ、そして、主の前にひれ伏しました。

■モーセの幕屋の礼拝があり、ダビデの幕屋の礼拝があります。両者には違いがありますが、しかし、それぞれに、その時代にあって神様が導かれた礼拝でした。今の時代を見ても、教会によって礼拝の行ない方には違いがあるのではないでしょうか。しかし、どのような礼拝の形であっても大切なことは同じです。

1)礼拝は、私たちが何かをもらうために行くのではありません。反対です。捧げるために行くのです。それは、旧約も新約も変わりません。旧約時代にはおもに、動物をささげものとして持って行きました。今はそのようなことをする人はいないでしょう。でも、生き物であることは同じです。それは、私たち自身です。ローマ12:1に、「そういうわけですから、兄弟たち。私は神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と書いてあります。私たちは、自分自身を神様にささげるのです。せっかくの休みの貴重な時間を割いて礼拝に来るのですから、そのこと自体が神様にささげることです。時間をささげ、献金をささげ、感謝と賛美をささげます。時には、感謝と賛美のいけにえをささげなければならないことがあるでしょう。このようにして、自分をささげることが、神様の喜ばれる礼拝なのです。忙しいときや健康を害しているときは、礼拝に来たくても来られません。そのような時には、家で静まって、神様に思いを向けることが大切です。私たちが平安と喜びのある健全な信仰生活を続けていくために、ぜひそのようにしていただきたいと思います。

2)どんな礼拝でも私たちの心が主のみ前にひれ伏すことがなければ、礼拝した意味がありません。なぜならば、礼拝とは「ひれ伏すこと」だからです。自分を低くすることによって、人は神様の祝福を大いに受けます。イザヤ57:15にこう書かれています。「わたしは高く聖なるところに住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」神様がともにおられることが、私たちにとって祝福を意味します。

  礼拝は私たちにとって、神様が与えてくれた安息の時でもあります。私たちが主を礼拝する中で、安息を得、平安を得ているならば、きっと私たちは神様に自分をささげ、神様の前に私たちの心は低くされているのだと思います。お一人お一人が、主日礼拝の中で、安息を得、平安を得ることができるように、さらに共に祈って行きたいと思います。それでは、お祈りします。