いつまでも主と共にいること

2016.8.14.召天者記念礼拝 「いつまでも主と共にいること」<Ⅰテサロニケ4:11~18>佐々木俊一牧師

■テサロニケの手紙Ⅰ・Ⅱの特徴は、イエス・キリストの再臨についてどの書簡よりも多く書かれていることです。イエス・キリストが再びこの地上に戻って来られると言う約束は、迫害の厳しかったテサロニケのクリスチャンにとって大きな慰めでした。悪しきこの世を裁き、キリストを待ち望んでいる人々を救い出してくださるという望みがあったからこそ、彼らは世の戦いの中で忍耐することができたのです。キリストを待ち望むテサロニケのクリスチャンに向けて、パウロはⅠテサロニケ4章の中で、聖く生きることと互いに愛し合うことの大切さを教えています。そして、その続きが11節以降に続いています。今日そのところを見ていきたいと思います。

■11節~12節  「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。」

  ここでパウロは、主イエス・キリストの来臨を待ち望む人々の日常生活のあり方についてどうあるべきかを教えています。①落ち着いた生活をすること。②自分の仕事に身を入れること。③自分の手で働くこと。仕事をして、給料をもらって、落ち着いた生活をすること、ごく当たり前のことを勧めています。クリスチャンに対し風当たりの強い社会状況の中で、もしかしたら、ふつうに仕事をすることはとても難しいことであったかもしれません。また、パウロの話のとおりにキリストがまもなく戻って来るのであれば、クリスチャンにとって不利な世の中で、無理して仕事を続ける必要はないのではないかと考える人もいたかもしれません。しかし、パウロがクリスチャンに求めたことは、この世を避けて生きることでもなく、何か特別なことをするのでもなく、この世の人々に対する良い証のためにも、積極的に社会と関わりをもって秩序と常識ある日常生活を淡々と行うことでした。

■13節~15節  「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスと一緒に連れてこられるはずです。私たちは主のことばのとおりに言いますが、主が再び来られる時まで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。」

  パウロには、自分たちが生きている間にキリストが戻って来られるという信仰、あるいは、期待感があったように思います。しかしながら、テサロニケの人々の中には、イエス・キリストが戻って来られる前に死んでいく人々がいるという事実を目の当たりにして、パウロの話に疑問を持つ人々がいたようです。それに対してパウロは、はっきりと答えています。イエスが死んで復活したように、イエスを信じて死んでいった人々も同様に復活するのだということ、そして、それらの人々は、イエスがこの地上に戻って来られる時に、イエスに連れられてイエスと一緒に来るのだということを、パウロは確信をもって語っています。

■16節~18節「主は号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」

  1章の終わり、2章の終わり、3章の終わり、4章の終わり、そして、5章の初めと終わりで、イエス・キリストの再臨についてパウロは語っています。しかし、イエス・キリストの再臨の全容をとらえるには、十分な説明とは言えません。これら限られた言葉から再臨の詳細を語ることはとても難しいことです。その解釈を絶対化することは危険を伴います。イエス様が再びこの地上に戻って来られることは確かなことですが、それがいつなのかとか、どのように来られるのかを語るとなると、それを断定したり絶対化したりすることは避けるべきです。はっきりと言えない部分やその時が来てみなければその解釈が正しいかどうかわからないことも含んでいるからです。

  パウロはローマ帝国の時代の中に、終わりの時代のしるしを見ていたのだと思います。そして、きびしい中を生きるテサロニケのクリスチャンたちを励ますために、イエス・キリストの再臨の希望をこの手紙の中で幾度となく示し、思い起こさせていたのだと思います。

  イエス・キリストの再臨を待ち望み、いつ来られてもよいように、神に喜ばれる生き方をこころがけることはよいことです。しかし、再臨信仰は、過去においても現在においても そうですが、時には攻撃的なカルト信仰に豹変することがあることを覚えて、十分に気をつけなければいけないことでもあります。

■今日の聖書箇所を通して、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。イエス様がこの地上に戻って来られるということは、私たちの信仰の重要な部分であると思います。しかし、それが今の時代なのか、どのようにやって来るのかについて完全な答えを語ることのできる人など誰もいません。

  パウロは、自分が生きている間にキリストが再び戻って来られることを信じ、聖霊の導きによってこれらの手紙を書いたことは間違いないと思います。しかし、彼が生きている間に、キリストが戻って来られることはありませんでした。それから2000年経った今に至って、イエス様はこの地上に戻って来てはいません。このことについてはイエス様ご自身がこのように言っています。イエス様ご自身もそれがいつなのかわからないということであり、それがいつなのかをわかっているのは、父なる神様だけであると言うことです。

イエス様が戻って来られるのは、私たちが生きている間のことなのか、それとも、私たちがこの地上からいなくなった後のことなのか、私たちにはわかりません。ただ、確かなことは、イエス様がこの地上に戻って来られるということと、その後、私たちはいつまでも主と共にいるということです。

■今日は召天者記念礼拝です。今年に入って、オープン・ドア・チャペルの兄弟姉妹の中には、肉親を失った方々幾人かおられます。肉親を失うことはとても寂しく、悲しいことです。しかし、天に召された方々がいつまでも主とともにいることを思うと、それは何よりも幸いなことであることを覚えさせられます。いつか私たちも、いつまでも主と共にいることになります。いつまでも主と共にいることが、この地上の何よりも、私たちにとって幸いなことであることを確信して生きていけるように、お祈りしたいと思います。