失うことで受ける祝福

2016.7.10 主日礼拝 『失うことで受ける祝福』マルコ8:34-36 佐々木俊一牧師

■イエス様を信じて、従って生きていこうとするとき、それまで自分が大事にしてきたものを捨てなければならない場合があります。たとえば、わかりやすく説明するために極端な例になるかもしれませんが、クリスチャンにとってきびしい状況にある国々においては、クリスチャンであることによって、社会的地位を失ったり、財産を失ったり、家族との関係を失ったり、時には身の安全を失い、命が危険にさらされたりすることさえあるのです。それでもクリスチャンであり続けようとするのは、厳しい現実の中にあっても、神様の守りと祝福と恵みを体験しているからだと思います。

■今日は、マルコ8:34~36のみことばをとおして、神様の祝福についてお話したいと思います。

 「それから、イエスは群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得たとしても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。』」

  私はこの箇所から、神様の祝福についてお話ししますと言いましたが、皆さんは、この箇所の中に神様の祝福を見つけたでしょうか。あるいは、この箇所を読んでどのような印象を持たれるでしょうか。イエス・キリストについてゆくためには、一大決心をしなければならない、自分をきびしく戒めて、不自由な生き方をしなければならない、そんな印象を受けるでしょうか。そう受け取られても仕方がないかもしれません。けれども、他の聖書箇所に、「真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:31)と書いてあるように、イエス様は私たちに、不自由な生き方ではなくて、もっと自由に生きられるようにと、これらの教えを語っているはずです。

  イエス様は、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せました。群衆とは多かれ少なかれ、イエス様に関心のある人々です。しかしながら、彼らはまだはっきりとイエス様についていくことを決心していません。そんな人々に対して、イエス様は今日のみことばを語っています。

■私が会社勤めをしていたときに、よくこのようなことを耳にしました。「クリスチャンになったら、酒もタバコもだめだから、なりたくてもなれない」、「教会っていうところは敷居が高い、自分みたいな人間が行くところじゃない」、「酒もタバコもだめなら、生きててもおもしろくない」、「教会に行ったら寄付しないとだめなんでしょ」、「日曜日に教会に行ってたら好きなことができない」、「家は先祖代々仏教で、長男なので仏壇や墓の世話をしないといけない」、等々。

  酒とタバコについて、今私が思うことは、もしも、酒やタバコのことで教会に来ることをためらっているとしたら、それは大変残念なことだと思います。仏壇のことや墓のことについても同じです。まずは、教会に来ること、聖書を読んでみることです。そして、イエス様のことを知ってもらいたいと思います。

■34節と35節の意味するところは、38節から推測できると思います。イエス様を信じることやイエス様の教えを受け入れることを公言することは、当時のユダヤ人社会から追放されることを意味していました。それによって人は、家族との関係を失ったり、社会的地位を失ったり、何かを失うという恐れがあったのです。ですから、34節の「自分を捨て」とは、ユダヤ人社会から追放される覚悟ができているかどうかを問うことばであったと、私は思います。自我を捨てるとか、禁欲的な事柄を意味するのではありません。自分のしたいこと、たとえば、酒を飲むことやタバコを吸うことを捨てることではないのです。もちろん、酒やタバコはやらない方が健康的であるとは思います。やっても、過度にならないように自己管理が必要でしょう。

  「自分の十字架を負い」と聞くと、私は、創世記22:6の出来事を思い起こします。イエス様ご自身のことやイエス様のことばは、旧約の出来事や人物に象徴されていることがよくあります。創世記22:6には、アブラハムがイサクにいけにえを焼くためのたきぎを背負わせたことが書かれています。このとき、神様は、アブラハムにイサクを捧げるように求めていました。しかし、神様は本気でそのように求めたのではありません。霊的な真理を表すために行なわせたことです。結局のところ、イサクはいけにえとされることはありませんでした。神様がいけにえとなるべき雄羊を備えてくださったからです。私たちはイサクのように自分の罪を焼き尽くすための十字架を背負ってイエス様についてゆきますが、私たち自身は十字架にかからなくてよいのです。イサクのために雄羊が備えられたように、私たちのためにイエス様が罪のいけにえとして備えられたからです。

  次に、「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです」とあります。「それ」のところに、何が入るでしょうか。「いのち」です。「いのちを救おうとする者はいのちを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者はいのちを救うのです。」となります。この中で、「いのち」の意味は二つあるのではないでしょうか。一つはこの地上のいのちです。もう一つは神の御国でのいのち、永遠のいのちです。「この地上のいのちを救おうと思う者は永遠のいのちを失い、わたしと福音のためにこの地上のいのちを失う者は永遠のいのちを救うのです」とすればよいでしょうか。

  当時の宗教家の多くのように、イエス様と福音を公の場で否定し拒絶するならば、まことのいのちを失うことになるかもしれません。しかし、イエス様と福音を恥とせず、その信仰を公の場で告白する者は、この地上で失うものがあったとしても、確実に真のいのちを得るのです。このとき、私たちが負う十字架とは、もしかすると、この地上で失うものや失うこと、ある人々にとってはそれが財産であったり、社会的地位であったり、家族との関係であったり、この地上では価値のあるものとされているものであるかもしれません。それらのものを失うことは非常に辛いことであるかもしれませんが、もっと大切なものを私たちは得るのです。それは、真のいのちであり、朽ちることのないいのちであり、永遠のいのちです。たとい、全世界が自分のものになったとしても、この真のいのちを生きている間に自分のものにしなかったら何の得にもならないと、イエス様は言っています。

■自分の体験:息子が2歳くらいの時、新しいテレビを買いました。買って間もないころ、2歳の息子がその新しいテレビを棒で叩いて大はしゃぎしているのを目撃しました。私の怒りが頂点に達して、息子を捕まえて尻を何度も叩きました。妻が間に入って尻を叩くのを止めました。新しいテレビは傷だらけになって、もはや、新しいテレビではありませんでした。このとき、私は新しいテレビを失いましたが、冷静になって思えば、もっと大事なものは守られていました。このときのもっと大事なものとは家族であり、また、子どもへの適切な指導やしつけでした。新しいテレビはこの瞬間に失いましたが、このようなことを通して、子どもはしてはいけないことを学び、親は親らしくされていく良い機会を与えられているのだと思います。

  また、こんなこともありました。今乗っている車はトヨタのラクティスです。その前は、トヨタのワゴン車、ノアに乗っていました。私たちはそれを新車で買いました。13年間乗りました。ノアを買って1年もたっていないとき、私が江別市立病院の駐車場にバックで駐車した時の事です。そこは、ほとんど壁のない広い駐車場でした。このとき私が駐車した場所は、たまたま、低い壁のあるところでした。でも、車体よりも低く見えたので、普通にバックしたところ、壁の上の角が車体に触れてギザギザの模様がついてしまいました。妻には、車に傷をつけないように注意していた私でしたが、自分が傷つけてしまいました。私はこのとき本当にがっかりしました。何でこんなことになるのだろうと思いました。しかし、この時も、傷のない新品のノアを失いましたが、そのことをとおして、もっと大切なものがあることに気づかされました。自分の身勝手さや高慢に気づかされ、自分という人間が見直す良い機会になりましたし、感謝して前向きに進んでいくことも学ばされました。失っていないものに目を向けさせられ、何が大切かを再認識させられる時にもなりました。

■私たちが大事にしているものを失うとき、私たちの心のあり方の選択しだいで、マイナスにもプラスにもなりえます。このような時が、神様から離れる機会になってしまうこともあれば、もっと神様に強くつながるときにもなるのです。みなさんはどちらを選ぶでしょうか。神様にもっと強くつながる方を選ぶなら、たとえ、失ったものが大きくても、神様はそれを祝福に変えることのできるお方です。

  何よりも私たちが忘れてはならないことは、イエス様が十字架の上で私たちの罪のためにいのちを失ってくださったので、私たちの罪は赦されて、いのちを得たということです。そのいのちは、真のいのちであり、朽ちることのないいのちであり、永遠のいのちです。神様は、損失を祝福へと変えることのできるお方です。それではお祈りします。