神の聖さと神の愛

2016.7.3 主日礼拝「神の聖さと神の愛」<Ⅰテサロニケ4:1~10>佐々木俊一牧師

■1節~2節  「終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。」 

   イエス・キリストを救い主として信じ受け入れたということは、自分の罪を認め、生き方の向きを180度変えて進むことです。イエス・キリストは、父なる神と私たちとの間に平和な関係を与えてくださいました。それにより、私たちは、罪赦され、神の子とされ、イエス・キリストの御名によって祈り、神との交わりを持つことができるようになりました。以前の私たちは、自分中心に自分が生きたいように生きていました。けれども、今の私たちは、神が喜ばれるような生き方を無視して生きることはできません。神が喜ぶ生き方をしているかどうかを自分自身に問うことが時には必要なことです。それでは、パウロが主イエスにあってお願いし勧告する、神を喜ばす生き方とはどのようなことなのかを見ていきたいと思います。

■3節~7節 「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。・・・・・・・。」 

(1)聖くなること:神のみこころは、私たちが聖くなることであると、パウロは言います。私たちが聖く変えられることを、神は望んでおられます。具体的にどうすべきなのかについて、パウロは何と言っているでしょうか。

   ①不品行を避けること: ローマ帝国の時代はフリーセックスの時代と言えるかもしれません。 フリーセックスとは近代になって始まった性に対する新しい考え方ではなくて、昔から存在していました。当時のテサロニケの町も同様に、性的なことについてはそのような風潮があったようです。

   2008年2月15日付の朝日新聞に、全道28高校における性に関する調査結果が載っていました。8年前の調査結果です。高校生の性交渉経験者の数は、高校3年生の場合、男子が41.7%、女子が42.8%という結果が出ました。2016年においては、もっと増えているのではないかと思います。その中で興味深いことは、『家族から大切にされている』『家族と日常会話をする』と答えた生徒には、異性との性交渉に慎重な傾向があるという結果も出ました。思春期は、性への関心が芽生えるときです。それは悪いことではありません。とても自然なことです。けれども、この時期というのは、不安定で、衝動的で、自制力が十分に備わっていません。そんな条件の下では、親子の絆やコミュニケーションを保つということがとても重要なこととなるのではないかと思います。その関係が保たれてこそ、性の持つ意味や大切なことは何なのかに気づくことができるのだと思います。

   聖書の視点から見るならば、結婚以外の性交渉は罪と言えると思います。しかし、今の時代、大半の人には罪の意識などはありません。自分のからだを聖く保つことなど美徳でも何でもないのです。しかしながら、人がそこからはずれる時、多くの不幸がもたらされることも確かです。神はそのことをご存知であり、人々が互いに傷つけ合うのを悲しんでおられます。ですから、神は、私たちが自分のからだを聖く保ち、お互いに大切にし合うことを喜ばれるのです。

   ②男女関係のことで、兄弟姉妹を踏みつけたり欺いたりしないこと: 今も昔もクリスチャン同士の不倫があるのです。それは罪であり、兄弟姉妹を踏みつけ、欺く行為であることを自覚しなければいけません。不倫や姦淫の罪によって、どんなに多くの人々が傷つ いてきたでしょう。夫婦関係が壊れ、家族関係が壊れ、そして教会が壊れることさえあるのです。聖書によるならば、夫婦、家族、教会には神様の特別な計画があって、とても大切なものなのです。

■8節 「ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。」 

神様は、クリスチャンでありながら不品行を行ない、兄弟姉妹を踏みつけ、欺く者に向かって、そのことをやめるように迫っておられます。それを拒む者は、人を拒むのではなく、神を拒んでいるのだと、パウロは言います。神は、信じる者に救いの保証である聖霊をお与えになるお方です。

   今から3000年前のイスラエルに、ダビデというすばらしい王様がいました。ダビデ王は神を愛し、神に仕えることを何よりも喜びとしていた人物です。そんなすばらしい王様が、姦淫の罪と殺人の罪を犯してしまったのです。彼の部下のウリヤの妻、バテシェバとの不倫を隠すため、策略を企てました。けれども、それがうまく行かず、結局偽装して戦場でウリヤを殺してしまったのです。その罪は誰にも知られぬままになっているかのようでしたが、預言者ナタンによって暴かれてしまいました。ダビデはこの時、救いの保証である聖霊を取り去らないでくださいと、神に切実に願いました。神の御前で罪を悔い改めたダビデは、赦されました。悔い改めるということは、とても重要なことです。悔い改める時、私たちは、イエス・キリストの血潮によってすべての罪からきよめられるからです。罪の刈り取りはしなければいけませんが、救いを失うことはありません。

   3節~8節までのところで、みなさんはどう思われたでしょうか。自分は不品行を行っていないし、これからも行うつもりはないし、自分は家族を大切にしているから、自分にはあまり関係のない話だと思ったでしょうか。しかし、私たちの周囲には不品行の誘惑は十分にあるのです。そして、敵は非常に巧妙であることを知らなければなりません。

■9節~10節 「兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。・・・・・・・。」

(2)互いに愛し合うこと(兄弟愛)。

   兄弟愛とは互いに愛し合うことです。テサロニケの教会の人々は、互いに愛し合うことについては、パウロから教えられなくてもすでに神様から教えられていたのでした。彼らは自分たちの教会だけでなく、マケド二ヤ全体のクリスチャンとの交わりがあり、愛を実践していました。そして、パウロは、もともっと互いに愛し合うようにさらに勧めます。愛はここまでやればよいというものではなく、限りのないものなのです。

■神の聖さと神の愛は矛盾しているように思えます。旧約聖書を読んで受ける神のイメージと新約聖書の福音書を読んで受ける神のイメージがあまりにも違っていると思いませんか。旧約では、神は聖いお方であるゆえに、罪や汚れに対しては徹底して裁きます。新約では、神は愛のお方であるゆえに、罪や汚れのある人々を徹底して愛し、赦します。旧約聖書では裁きの神ですが、新約聖書では愛と赦しの神です。

   イエス様は、不品行に染まった罪人たちの中に入って行きました。そして、福音を伝えました。イエス様の行動とメッセージは、裁きではなく、愛と赦しでした。パウロは裁きについて事細かに語っていますが、イエス様はそうではありません。ですから、私たちは、イエス様をとおして、神が愛であることを知ることができるのです。

   聖い神は、私たちに徹底して聖く生きるように命じます。「イエス・キリストはあなたの罪のために十字架で死にました。だから、どんなに罪を犯しても大丈夫です。」とは絶対に言いません。私たちは罪を犯してはならないし、聖く生きなければならないのです。これが神の命令です。しかし、このような神の命令があるにもかかわらず、私たちには罪を犯してしまうという現実があります。小さい罪、大きい罪、いろいろな罪があります。神様の目にはどれも同じ罪です。愛と赦しの神は言います。「もし、あなたたちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しいお方ですから、その罪を赦し、すべての悪からあなたたちをきよめてくださいます。」と。なぜそういうことができるのでしょうか。それは、イエス様が私たちの罪のために十字架で死んでくださったからです。ですから、私たちはイエス様に感謝し、イエス様の御名をほめたたえるのです。

   私たちの間に愛がある時、愛は罪に対して強く立ち向かうことのできる心を作り上げます。私たちの間に愛がない時、私たちは罪に対して弱くなるでしょう。愛は罪を覆います。私たちの内にある罪を覆い、その力を弱めます。また、互いの罪を覆い、互いに赦す力を与えます。何よりもイエス様の愛が私たちを罪からきよめ、私たちを造り変え、神の裁きから救ってくれました。

神の命令は、私たちが聖くなることと、私たちが互いに愛し合うことです。神はそのことを私たちに望み、喜んでくださいます。それではお祈りします。