求めなさい。そうすれば与えられます。

2016年6月12日主日礼拝

メッセンジャー:草島兄

メッセージタイトル:「求めなさい。そうすれば与えられます。」

聖書箇所:マタイ7:7「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」

 

今日は私が、主から受けた恵みを素直に皆さんとシェアしたいと思います。

実は、今日何を話すか、本当に悩みました。しかし、うちのトイレには、実はデイリーブレッドがあるのですが、その中に「神がどんなにすばらしいことをしてくださったか、また、どんなにあわれんでくださったかを話してあげなさい」と言われました。」‭‭マルコによる福音書‬ ‭5:19‬ ‭とあり、素直に今までの僕が主から受けた恵みを伝えたいと思います。

 

私が主に立ち返ったのは、今から15年前のことです。それまで、私は実家が仏教を信仰していたこともあり、何の疑いもなく、私自身も仏教に染まっていました。しかし、小さい頃からの疑問の一つが、なぜ皆言うことは素晴らしいことなのに、実際は違うんだろう?ということでした。そのギャップに悩み、いくつかの宗教の門を叩いてきました。手をかざすと病気が治るという宗派や、何十巻もある読み物を読む事で真理がわかるという教えなどなど。しかし、いずれも「何か違う」と言った違和感を覚え、なかなか納得できないでいました。そんなある時、大学生の頃です。いわゆる自転車に乗った爽やかな外人さん2人組と出会いました。彼らは非常に爽やかであると同時に、熱心に自分の信仰する神について語りました。その時、この人達なら裏切られることはないんじゃないかと期待を抱き、いわゆるモルモン教の教会に参加しました。しかし、しばらくすると同じ教会員同士の行き違いや人間関係に疲れ、次第に遠ざかっていました。そして、大学を中退し、インドに行ってみたり、自分探しをしていましたが、なかなか答えは見つかりませんでした。

 

そして16年前の2000年、思い切って自転車で日本一周という旅に出ることにしました。そこでは、多くの出会いや気づきがありました。最大の出来事は、今の妻に出会ったことでした。実は旅に出る前に付き合っていた彼女がおり、旅の終了後に結婚も考えていたのですが、僕の行動に付き合いきれず、旅の途中で振られたばかりでした。その時には、もう一生結婚なんてできないと思っていました。それが、沖縄で本当に偶然出会った人(今の妻)に、教会に誘われ、話を聞くうち、もしかしたらこれが自分が求めていたものなんじゃないかという、予兆を感じました。そして、高知県に入った時、思い切って日曜に教会に参加してみました。

その時の衝撃は、今でもはっきりと覚えています。こう、胸のあたりに赤く光るとても熱いものが湧いてきたと同時に、涙がとめどめとなく溢れてきました。そして、自分では訳がわからないまま、その教会の牧師に「救いを受けたい」と申し出ていたのです。幸いにも、その教会でバプテスマを受けることができました。

 

また、主は祝福と共にいやしの神です。

 

旅の最中、大阪に寄った際、実は母と父は私が小学生の時に離婚したのですが、離婚後、思い切って何十年ぶりに父親に連絡を取って、会うことができました。

別れ際に、、、

その後は縁あって高知のお世話になった教会で神学生として、その教会に勤めた後、沖縄から彼女を呼び寄せ、祝福によって結婚することができました。そしてイサクが生まれたのをキッカケに営業の仕事に就きました。しばらくして、北海道に帰ることを決めたのですが、その時は帰る旅費だけで精一杯でした。しかし、フェリーに乗る前に寄った香川の知人から100万円もの援助を頂け、驚きとともに主に心から感謝しました。

 

北海道に帰ってからは、病院で介護の仕事を始めました。しかし、人間関係でいじめられ、辞めようとした時に、看護師長から同時期に病院で始まった遺伝子治療プロジェクトの責任者になってほしいと依頼され、全く畑違いでしたが、管理者という立場で関わらせていただきました。仕事は、順調で非常にやりがいのあるもので、介護でいた同じ病院でも、全く違う働きを与えられたことに心から主に感謝しました。その病院では、ガンの患者さんで延命を望まない方に、通常は病院で行う緩和治療をわざわざ家まで来て行ってくれる訪問ホスピスに取り組んでいて、母が膵臓癌になった際には、それは大変お世話になり、お陰で母も安らかに永眠することができました。本当に主は全てを備え、整えられます。母の想いが詰まった病院を退職し

その後は、自分自身の成長と学びのためにしばらくは、セミナーや多くの講座に参加するなど、自己研鑽に努めていました。

そして、大学時代から願っていた「人を励まし、人の成長を応援したい」との思いから、引きこもりの方々を支援する団体と関わるなどしていました。

 

その流れで、当時働いていない方々に向けて、国の方で支援する事業があり、そこで働く機会を与えられました。

そこは、失業中の方々に働くための基礎技術を教える学校で、自分としては、失業中とはいえ、それぞれ年齢も様々、元の仕事も様々な方に、恐れ多くも就職の支援をすることができるのかという不安がありました。そのため、一番最初の講義の時には、終わった時には過呼吸になる程、緊張したのを覚えています。しかし、できる限り誠心誠意関わっていくうちに、最後はお互い涙ながらの卒業式を迎えられるほど、生徒の方々と関わることができました。そこで、就職を通して人を支援する事の重要性に改めて気付き、そこでの任期を終えた後はその分野での仕事を探しましがた、なかなか見つかりません。これは!と思った企業に何社も応募しましがた、連絡は来ず、面接に行って、ほぼ採用と思ったところも、断られ、失意の中、気持ちを切り替えて、主に委ねることにしました。そして、見つけたのが、専門学校での就職支援という仕事でした。

 

主は言います。「探しなさい。そうすれば見つかります」と。

 

若い学生さんとうまく関われるか自信はなかったのですが、これが、いざ仕事についてみると、自分が思っていた以上に、待遇や環境が良く、また生徒と関わる中での学びや気づきが多く与えられ、本当にいつも主は私が思っている以上を備えてくれると、感謝しました。

 

専門学校では、クラス担任と、就職担当としての仕事が与えられました。そこでは、そもそも働きたくないという学生、仕事への怖れを抱いている学生、家庭問題、精神的な問題、様々な問題を抱えている学生と一人一人深く関わる中で、時には落ち込み、時には学生と共に涙し、常に自分は目の前の学生に何ができるんだろうと考え、取り組み続けてきました。しかし、やはり自分の力だけではどうしようもない事も多々ありました。そんな時には、後は神さまに祈って、主にお任せすることで、最善が与えられてきました。どうしても、人と関わる中で、自分ではどうしようもない事が人生では多いです。そんな時、ある人は諦め、ある人は自分自身を頼り、ある人は他人を頼ります。しかし、そのどれもが人の手による解決を求めます。目に見える解決、直ぐに答えの出る解決、私たちは忍耐の弱いものだからです。

 

でも、そんな時、神さまがいてくれます。祈ってみる。聖書を読んでみる。そしてまた祈ってみる。そして教会には尊い同じ兄弟姉妹もいて、共に祈ってくれます。そして、神様に求めゆだねる時、後は神さまがとりなしてくれます。今までが全てそうでした。

専門学校の仕事はやりがいのあるものでしたが、さらに専門性を高め、よりキャリアコーチングという、就職支援だけでなく、その中で相手を励まし、元気づけ、勇気づけたいとの思いから、かなり引き止められましたが、退職を決意しました。しかし、私は辞めるのを決めたのは良いものの、実は次の仕事も決まっておらず、おそらく妻にとっては内心不安でしょうがなかったと思います。

しかし、主は叩くものには開かれます。

 

たまたま妻が探してくれたいた時、それまでなかった求人があり、見てみるとまさに私が望むとおりの内容でした。掲載期間がわずかだったこともあり、急いで書類を書いて用意し、なんとか提出期限の最終日の夕方という、本当にギリギリに出すことができました。普通は余裕を持って出すべきのところ、あまりに締め切り直前だったためか、書類を送ってから何の返事もなく、もうダメかと半ば諦めていましたが、神さまは「大丈夫」というメッセージを送り続けてくれました。専門学校を辞めるまであと2週間、行き先も見えないまま、送別会が開かれました。複雑な思いのまま、「主は必ず成される」と信じ、周りの職員からは「次はどうするの?」と聞かれても、「ノープランです」としか、答えられないまま、その日は家に帰ってきました。もう書類を出してから1週間が過ぎた。次を探すしかないと落ち込んでいたところ、見慣れない封筒が届いており、書類選考が通り、面接をしたいという内容でした。その時は本当に心から喜びに震え、妻と一緒に主に感謝しました。

 

その後は、面接を受け、かなり倍率は高かったものの、翌日には採用の連絡を頂きました。それが、今の大学での就職アドバイザーとしての仕事です。お陰で、今の仕事は今まで私が望んだ全てを叶えるに足る非常に、良い職場、やりがいのある仕事で、大学生の方々が日々、悩んでやってきて、帰りるときには、スッキリした顔で「がんばってみます」と言ってくれるよう、心と書いて「しん」を込めて日々関わっています。

 

求めるものには、与え、

 

探すものには、見つけてくださり、

 

叩くものには、開いてくださる。

 

私の人生は、本当にこの御言葉を感じさせてくださることばかりで、それと同時に本当にどんな時も、先が見えないときも、自分ではどうしようもない時も、とにかくどんな時も、主を求め、主により頼むなら、その祈りは虚しくされることはありません。

 

これからも、主と共に

 

御言葉に生きたいと思います。

 

 

祈り。