愛がある時

2016年6月5日主日礼拝「愛がある時」Ⅰテサロニケ3:1~13佐々木俊一牧師

  2章18節に、パウロはテサロニケの教会に行こうと二度心に決めましたが、何らかの妨げで行くことができなかった、と書かれています。その理由について具体的な説明はありません。ただ、パウロが言うには、サタンが妨げた、とあります。聖書によると、サタンとは霊的な存在であることがわかります。ですから、目には見えません。その存在をいつも意識する必要はありませんし、恐れをいだく必要もありません。けれども、サタンという存在がいて、福音宣教を妨げたり、クリスチャンの信仰を弱らせたり、いろいろな形で誘惑を試みることがあるということを知っておくことは、信仰の対応をとる上で必要なことではないかと思います。そのことを知っていると、たとえば、人から何らかの妨げや反発を受けたとしても、それに対して肉的な対応を取らないでも済むことがあります。その結果、大きな問題に発展せずに収まるということもあるのです。極端な考えや行動にならない限り、その存在の認識は、かえって私たちを主の御心の対応へと導くものだと思います。サタンの働きがあることを認めた上で、パウロがそれに対してどう対応しているのかを3章の中で見ることができると思います。

□1節~5節 パウロは2回目の伝道旅行でテサロニケを訪問しました。けれども、過激なユダヤ人による迫害によって、たった数週間でテサロニケから出て行かなければなりませんでした。そのため、伝えるべき教えを十分に伝えることができませんでした。その後、パウロは、ペレア、アテネと宣教しながらコリントにたどり着きました。そして、そこに1年半腰を据えて伝道活動をすることになります(使徒18章)。この時(AD50年くらい)に、テサロニケ人への手紙が書かれたようです。

  パウロは二度テサロニケに戻ろうとしましたが、戻ることはできませんでした。パウロはそれを、サタンが妨げた、と言っています。そこで、パウロの代わりにテモテが行くことになりました。どうしても行かなければならない理由が、3章に書かれています。

<テモテがテサロニケに遣わされた目的>

① 人々を強め励まし、苦難の中にあっても、動揺して信仰をあきらめてしまうことのないように。

② 人々の信仰の状態を知るために。

<テサロニケにおけるサタンの働き>

  テモテが行ってみると、テサロニケでは福音が広がって、イエス・キリストを信じる者が増えていました。けれども、それを妨げようとする反対勢力も活発になっていたのです。

① 迫害: 過激なユダヤ人によるクリスチャンへの迫害がありました。彼らはこんな偽りを流していました。「クリスチャンはイエスという別の王をローマ皇帝カイザルの代わりに立てようとしている」という噂です。それを聞いたテサロニケの町の人々は、カイザルの反撃を恐れてクリスチャンを迫害したのです。

② 誘惑者: 偽教師・偽預言者の出現です。ユダヤ人の律法的な教えを福音に混ぜて教える者がいました。また、イエス・キリストの受肉や神性を否定したり、もうすでに再臨が起こったとする偽りの教理を教える者がいました。

  パウロはテサロニケを離れる前に、迫害や偽教師による苦難が起こることを前もって語っていました。パウロが語っていたことが、テサロニケのクリスチャンにも実際に起こっていました。このことは、パウロ以前に、イエス様がすでに語っておられたことでもあります。マタイ24章を見てみると、クリスチャンへの迫害、偽教師や偽預言者の出現についてすでに語られています。それはまた、今の時代に向けても語られていることです。日本においてはそれほど顕著に現れていませんが、世界を見渡すと、迫害の問題も偽教師や偽預言者の問題もたくさん起こっています。たとえば、現在、中国ではたくさんの人がキリストに導かれているそうです。しかし、そこでは、共産党員による、クリスチャンへの迫害があります。また、聖書が不足しているために、容易に偽物の福音が信仰や教会の中に入り込んでしまうケースが起こっているそうです。

□6節~9節 初代教会の時代、どこにおいても迫害や偽教師・偽預言者の問題がありました。テサロニケにおいては、それが特に激しかったのかもしれません。しかし、テモテは良い知らせを持って、テサロニケから戻って来ることができました。テサロニケのクリスチャンが、パウロたちのことをよく思っていて、パウロに再会したいと願っていることと、苦しい中でも信仰に堅く立っていることなどが報告されました。その良い知らせは、パウロにとって、大きな慰めであり喜びとなりました。

  パウロ自身、宣教の働きの中で苦しみがありました。しかし、そんな苦しみを癒してくれる出来事がありました。それは、福音を宣べ伝えた結果、その後も信仰を保ち続ける人々がいたということです。パウロにとって、彼らがしっかりと信仰に立ち続けていることが何よりも重要なことでした。そのことがパウロに、「生きがいがあります」、と言わせました。それほどまでに、パウロは人々の救いのことを気にかけていました。救いの必要性と重要性を誰よりもわかっていたからこそ、人々の救いのために、こんなにも真剣に心配できたのだと思います。そして、彼らが信仰に立ち続けていることを、こんなにも喜べたのだと思います。

<テサロニケにおける神の働き>

□10節~13節 神様は、すべてのクリスチャンを用いて、宣教と立て上げの働きをなすことができます。ここでは、特に、次の2つの点から神の働きが進んで行くことをお話ししたいと思います。

① 祈り: パウロは、次から次へと起こる問題に対し、どのように対応するのがよいのかについてよく知っていた人だと思います。それは、肉の力で戦うのではなくて、霊の力で戦うことです。そのために、まず、私たちがすべきことは、祈ることです(エペソ6章)。神様は熱心な祈りに聞いてくださり、働かれます。パウロには、テサロニケのクリスチャンにはもっと教えなければならないことがあるという思いでいっぱいでした。そのために、何とかしてテサロニケに戻りたいと思いました。しかし、道は開かれませんでした。そんな中、パウロができることは、昼も夜も、ただ熱心に祈ることだけでした。結局、パウロはテサロニケに行けなかったようです。それでも、パウロの祈りは、パウロの願いとは少し異なった形で聞かれました。パウロが行けなくても、神様がテサロニケのクリスチャンの信仰を強め、成長させてくださったのです。

  パウロは、テサロニケのクリスチャンのためにテモテを遣わしました。このように、実際的な動きはもちろん必要なことですが、そのバックで、祈りによって導かれ、祈りによって支えられることも必要なのです。テサロニケへは、パウロの代わりにテモテが行くという判断も、祈りの中で導かれたことなのだと思います。

② 愛: パウロは、互いに愛し合うことの大切さについて人々に教えています。そして、さらに、そのことが現実になるように、パウロは神に祈っているのです。テサロニケのクリスチャンの間に互いの愛が増し加わるように。そして、クリスチャンでない人々に対する愛も増し加わるように。パウロの祈りは聞かれ、彼らの間の愛をとおして神様は豊かに働かれました。Ⅱテサロニケの手紙にあるように、短期間で福音が広まり、多くの人々がイエス・キリストを信じました。

  ヨハネ13:34~35に、愛についての戒めがあります。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」これは、イエス様からのクリスチャンへの戒めです。クリスチャンがこの戒めを尊重し、従うとき、周りの人々に真の神様に出会う良い機会を与えることになります。世界の政治や経済の状態が悪くなり、人々に他の人々を思いやる余裕がなくなってくると、人々の愛は枯渇していきます。しかし、真の神を信じ、神の愛を知っている人々は、世の中がどうであろうとも、愛の源であるイエス・キリストにしっかりと結びついてさえいれば、愛が枯渇することはありません。そのようなときにこそ、クリスチャンは、世界の光として輝き、地の塩としての役割を担いたいと思います。また、担えるように祈りたいと思います。

  Ⅱヨハネ5~7を見てみましょう。「そこで、夫人よ。お願いしたいことがあります。それは私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです。愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。」ヨハネはクリスチャンにお願いしています。何をお願いしているかと言うと、『互いに愛し合う』ことです。なぜ、お願いするかと言えば、それは、偽りの教えに惑わされないためです。

  愛がある時、聖霊が豊かに働かれます。愛がある時、私たちの信仰は健全に保たれます。愛がある時、教理的にもモラル的にも神の見方を見失うことはありません。互いに愛し合うことをとおして、私たちは互いの信仰を守ることができます。互いに愛し合うことをとおして、私たちは信仰の安全地帯に生きることができます。

  誘惑者(サタン)の思うつぼにはまらないために、クリスチャンにとって、祈ることと互いに愛し合うことがとても大切なことであることを覚えたいと思います。そして、主イエス・キリストが再び来られる時には、神の御前に、聖く、責められるところのない者として立たせていただきたいと思います。それではお祈りします。