宴会への招待

2016年5月22日主日礼拝「宴会への招待」ルカ14:13~24佐々木俊一牧師

■13節~14節 祝宴を催すときには、お返しのできない人たちを招くように、とイエス様は勧めます。なぜでしょうか。そうするなら、義人の復活の時にお返しを受けるからです、とイエス様は言っています。マタイ6章でも、イエス様は同じようなことを言っています。この地上ですでに報いを受けるならば、天においてはその報いはありません。他人のために与えたり、犠牲を払うときに、もしも報いを期待するのであれば、人にではなく、神に期待することが信仰的な態度と言えるでしょう。神様にも、人にも、誰に対しても報いを期待することなく、ただ与え、犠牲を払う、そんな無欲な心を美徳とする教えもありますが、そこまで神様は私たちに求めてはいないと、私は思います。へブル11章では、神様がおられることと、神様は報いてくださるお方であることを信じることの大切さについて教えています。神様に報いを期待することは、神様がおられることを信じることのあかしであって、それは、健全な信仰であると、私は思います。

  クリスチャンが神様からいただくものとして、二つあるように思います。それは、救いと報いです。救いは恵みであって、ただで受ける贈り物のようなものです。けれども、報いは行なったことへの報酬です。これについては異なる意見もあるかと思いますが、今のところ、私はそのように理解しています。救いは、イエス・キリストを救い主として信じるならば、誰でも受けることのできるものです。罪赦されて永遠の命が与えられること、神の子と認められて神の御国を相続することです。報いは、神様のために行ったこと、人のために行なったこと、あるいは、神様が良しと認めてくださったことへの報酬と言うことができると思います。イエス様が語られたたとえ話の中に、救いと報いのことを表しているものがあります。報いがどんなものなのか、はっきりしたことはわかりません。聖書に書かれていることの中で、これから起ころうとしていることについてはいろいろな考えがあるかと思いますが、実際に起こってみるまでは誰も断定できないことがたくさんあります。ですが、その時になって、こんなに素晴らしい報いがあるのなら、もっと神様の喜ばれることをしておけばよかったと言うことにならないようにはしたいと思います。みなさんはどう思われるでしょうか。

■15節 このところは、イエス様がパリサイ派のある指導者の家に招かれたときの出来事です。その時に、一緒に招かれていた客の一人がこう言いました。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」 神の国でも食事をするのでしょうか。どうなのでしょうか。神の国で食事をするのかどうかについては、はっきりわかりません。これもその時になってみないとわからないことの一つです。イエス様はマタイ26:29で、「わたしの父の国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造ったものを飲むことはありません。」と、最後の晩餐の席で弟子たちに言われました。つまり、それは、神のみ国においては、少なくともぶどうの実で造ったものを飲むことはあると言うことではないでしょうか。でも、パウロはローマ14:17で、「神の国は飲み食いの事ではなく、義と平和と聖霊の喜びだからです。」と言っています。神の国では飲み食いのない可能性もあるということではないでしょうか。どちらが本当なのかはっきりしたことは言えませんが、どちらかと言うと、私はイエス様の言われた方を指示します。なぜなら、復活のイエス様は弟子たちの前で焼いた魚を食べて見せました。みなさんはどう思いますか。

■16節~17節 イエス様はここで一つのたとえ話を語ります。「宴会」とありますが、13節の「祝宴」と同じことばです。何かを祝うための宴会です。マタイ22章にもこれと似たたとえ話があります。そこでは、婚宴になっています。また、黙示録19章でも婚宴について書かれています。その9節に、「み使いは私に『小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。』と言い、また、『これは神の真実のことばです。』と言った。」とあります。聖書は、教会は花嫁であると言っています。花婿は、救い主イエス・キリストです。教会はキリストの花嫁であり、ここに書かれている祝宴は、キリストとその花嫁である、教会のためのものです。教会とは建物ではありません。キリストを信じる人々のことです。聖書には、真理や未来の出来事について、結婚や祝宴によって表されていることが他にも多くあります。イエス様の初めての奇跡が婚宴の席であったということや、水がぶどう酒に変わったという出来事はとても興味深いことだと思います。

  ある人が祝宴を催し、大勢の人を招待しました。祝宴を始める時刻になったので、しもべは、わざわざ招待客を呼びに行きました。その時の招待客の反応が18節から語られています。

■18節~20節 みな同じように断り始めたとあります。その理由が3つ紹介されています。一つは「畑を買ったので、どうしても、見に行かなければなりません。」と言う理由でした。次は「5くびきの牛を買ったので、それを試しに行かなければなりません。」と言う理由でした。5くびきですから、10頭の牛でしょうか。それがちゃんと働くかどうかをすぐにも試す必要があったようです。次は「結婚したばかりなので行くことができません。」と言う理由でした。律法的にはそれなりに理に適う理由だったようです。この3人以外にも、断った人はたくさんいたという設定だと思います。理由はそれぞれにみな忙しいと言うことです。誰でも忙しくて出席できないことはあります。でも、この祝宴は前もって告知されていたものですから、もう少し関心を持って心がけていたのなら、出席は可能だったようにも思われます。

  この祝宴は、救いについての一大イベントのたとえです。黙示録19章に書かれているように、小羊(救い主イエス・キリスト)の婚宴に招かれた者は幸いであり、そして、そのことは神の真実のことばなのですから、将来、必ず起こることなのです。イエス様と一緒に祝宴に招かれていた一人の客が、「神の国で食事をする人は、何と幸いなことでしょう」と言ったことは、ある意味預言的なことばであったと言えるでしょう。

  このたとえで言われていることは、救いの事についてです。救いの事は自分にとって一番重要なことです。あまりにもこの世の事に心奪われて、一番大事なことを見落としてしまうことのないように気をつけたいものです。

■21節~22節 しもべは、戻って主人に報告しました。それを聞いた主人は怒って言いました。「急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人、体の不自由な人、盲人、足が悪くて歩けない人を連れて来なさい。」これらの人々はどういう人たちでしょうか。この時代、これらの人々にできる仕事はありませんでした。ですから、物乞いをするしか生きる手段がありませんでした。社会から見下されていた人々です。そのような人々を祝宴に連れて来るように、主人は言いました。

  イエス様は、このことばどおりのことをされたお方です。貧しい人々、体の不自由な人々、目の見えない人々、足が悪くて歩けない人々に対して積極的にアプローチし、いやし、救いへの招きをされました。それだけではありません。罪人の烙印を押されたような人々、取税人や売春婦、いかがわしい商売に関わっている人々に対してさえ、心を開いて対話を試み、愛を示し、心の傷をいやし、罪の赦しと救いの道へと導きました。イエス様は、医者を必要としているのは病人であり、イエス様(救い主)を必要としているのは罪人なのだ、と言っています。神様の目から見て、すべての人は罪人です。人はふつう、自分が罪人と見なされることに抵抗を感じます。けれども、すべての人は、心や霊のどこかに程度の差はあっても問題を抱えています。完全に健康で健全な人はいません。罪の度合いが大きくても小さくても、神様はいかなる人々をも救いへと導いておられます。つまり、神様はどんな人々でも、神様の計画している祝宴に出席することを望むならば、誰でも受け入れる準備があるのです。

  しもべは、町で見つけた貧しい人々、体の不自由な人々、目の見えない人々、足が悪くて歩けない人々、取税人も売春婦も、いかがわしい仕事をしている人々も、祝宴に出席する気持ちのある人は誰でも連れて来ました。それでも、まだ席が余っていました。

■23節 主人は言います。「街道や垣根のところに出かけて行ってこの家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。」街道や垣根のところにいるのは異邦人のようです。ユダヤ人以外の外国人です。彼らはユダヤ人の生活空間に近づくことの許されない人々でした。

  このたとえ話の中では、前もって招待されていた人々は誰一人として出席しようとしませんでした。それがきっかけで、予想もしていなかった人々が祝宴に招かれることになりました。もともと招待されていた人々とは、教育を受け、聖書のことをよく理解し、神様のことに熱心な宗教指導者やユダヤ人だったのです。ところが、彼らは、イエス様の救いへの招待を断りました。その代わりに、無学な人々、罪人のレッテルを貼られている人々、社会の底辺にいる貧しい人々がイエス様の救いへの招待を受け入れました。さらに、この時代の多くのユダヤ人がイエス様の救いを拒絶したために、救いの働きは異邦人の方に向かって展開していきました。そして、多くの異邦人がイエス様の救いを受け入れました。

  マタイの同じようなたとえ話を見てみたいと思います。22:10に、「良い人も悪い人も」招かれたと言うことが書かれています。招かれそうもない人々が招かれて、宴会場はそんな客でいっぱいになりました。ところが、礼服を着ないで出席しようとしていた人がいました。ここでは主人ではなく、王様になっています。それを見つけた王様がその人に尋ねました。「あなたはどうして礼服を着ないでここに入ったのですか。」もしも、礼服がなければ提供してくれたのだと思います。でも、その人は何も答えることなく、ただ、黙っていたと言うことです。とうとう、外に追い出されてしまいました。

  礼服は何を意味しているのでしょうか。イエス様です。私たちはこの祝宴に出席するためには、イエス様という礼服を着る必要があります。イエス様は私たちの罪という汚れた服を着て、代わりに罰せられて十字架で死にました。そして、神様は私たちにイエス様という礼服を着せてくださいました。その礼服は聖くて、まったく汚れのないものです。それは、神様の子どもだけが着ることのできる礼服です。私たちは神様の祝宴に出席するために、神様の子どもだけが着ることのできる礼服を着る必要があるのです。

  この神の国での祝宴のことを、私たちはどれほど現実のものとしてとらえられているでしょうか。そのことは、私たちがこの地上でどのように生きるのかに大きな影響を与えるものだと思います。私たちは神様の催される祝宴を現実のものとしてとらえたいと思います。

  神様の催される祝宴にすべての人が招待されています。神様はその大きな愛によってどんな人をも受け入れる用意ができています。ただし、その祝宴に出席するためには、それ用の礼服を着るのを忘れないようにしなければなりません。その礼服とは、イエス様であり、イエス様の救いです。それではお祈りします。