本物を伝えるために

2016年5月8日主日礼拝「本物を伝えるために」<Ⅰテサロニケ2:1~13>佐々木俊一牧師

■今日は「母の日」です。私たちの家庭も教会も「母」の存在のおかげで大変祝福されています。お母さんたちの日頃のご苦労をねぎらい、一言では言い尽くせないと思いますが、心から「ありがとう」と言いたいと思います。

  家事や子育てについてはあまり評価されない現実があります。給与が出ません。労働の価値が数字に表れません。しかし、家事や子育ては大変な労力を要する仕事であることと、健全な人と社会を作っていくために重要な役割が与えられている仕事であることを、もっと認識する必要があるのではないかと思います。

  4年前の調査によると、全世帯の60パーセントが共働きであり、1歳未満の子供のいる世帯の40パーセントが共働きという結果が出ているようです。現在はもう少し増えているかもしれません。社会に出て働きたいお母さんが増えています。そのため、保育園待機児童の問題がクローズアップされています。あるブログの「保育園落ちたわ、日本死ね!」という母親の叫びが国会でも取り上げられました。

  経済的事情や女性の生きがいも大切なことです。女性が外で働けるように、もっと男性が家事や育児をサポートする必要があるのかもしれません。ただ、男性も女性も仕事と家庭の両立が可能になるような社会の仕組みをつくりたいものです。健全な人と社会は、最も小さなユニットである家庭からできるものだと思います。人の人格形成や生き方の土台作りには親の関わり方がとても大切です。親の役割についてもっと時間をかけて考えてみる必要があるのではないかと、母の日にあって、思うことです。それでは、今日の聖書箇所に入っていきましょう。

□1節~2節 テサロニケでは、ユダヤ人の激しい妨害がありました。しかし、何とか3週間そこに滞在したパウロたちは、神様の助けによって大胆に福音を宣べ伝えることができました。期間としては短かったので、十分な働きができなかったという残念な思いがパウロにはあったようです。それでも、パウロたちがテサロニケを去った後、イエス様を信じた人々がその働きを受け継ぎ、もっと多くの人々がイエス様を救い主として受け入れました。パウロがテサロニケに来たことは無駄ではありませんでした。蒔いた種がもっと豊かな実をもたらしていったのです。

□3節 「迷い」とは、「たくらみ」という意味です。たくらみ、不純な心、そして、だましごと、これらことが当時の世の中にはびこっていたのです。私たちが生きている今の世の中と同じです。人々の歓心を得、人々からお金をだまし取る目的で作り出された「教え」がいっぱいあります。すべてがそのような目的であるとは言いませんが、かなりの割合で、宗教、自己啓発、健康、ビジネスなど、人の興味をそそる、ありとあらゆる分野にそのような教えが入り込んでいます。こうした詐欺行為は、今も昔も変わらないようです。パウロの時代もそんな詐欺行為が横行していたので、パウロは、きっぱりと、パウロの語る福音が悪い動機から作られただましごとではないことを強調します。

□4節~12節 そして、パウロは、この種の詐欺を見分けるために、本物がどういうものかを教えます。

①神を敬う態度があるかどうか:  本物は、人を喜ばせようとしてではなく、神を喜ばせようとして語ります。福音に対して人がどのようなリアクションをしようとも、自信をもってただ福音をまっすぐ語るだけです。人が気にいるようにことばを付け加えたりする必要はありません。何よりも第一に、神に喜ばれ、神を敬うことをめざしていくなら、わかる人には伝わります。(4節、5節)

②謙遜な態度があるかどうか:  パウロは使徒でしたが、その権威を主張しませんでした。人々に認められたり、敬われたりすることを求めないで、ただ、主のみこころを行なうことに努めました。(6節)

③愛の態度があるかどうか: 母が子を養い育てる態度とは、自分を犠牲にし世話をする態度です。また、やさしくふるまうとは、寛容な心で忍耐し、赦し、受け入れることです。(7節、8節))

④思いやる態度があるかどうか: 親は、子を育てるための労苦と苦闘は当然と考えます。子どもには、できる限り負担を負わせないように配慮するものです。(9節)

⑤自分のふるまいに責任を持とうとする態度があるかどうか:  パウロは自分のふるまいのために信者がつまずかないように、敬虔に、正しく、責められるところのないように十分に注意し、ふるまいました。(10節)

⑥威厳をもって指導する態度があるかどうか:  指導するということは、まず、自分が模範を示す者でなければなりません。そして、人々がキリストの似姿に成長するように、勧めをし、励まし、時にはきびしく戒めることが必要です。ただし、それはつぶすことが目的ではなくて、立て上げるためです。人々が立て上げられるためには、母のやさしさと父の権威の両方が必要です。どちらも、自分を犠牲にし、身をすり減らさなければできないことなのです。(11節、12節)

  本物を見分けるためにパウロはこれらの事を教えましたが、それを裏返すと、本物を本物として伝えるために、福音を伝える者の態度や姿勢に十分気をつける必要があることも示されていると思います。私たちがどんなに正しいことを言ったとしても、私たちの態度や姿勢が正しくなければ、聞く人々に受け入れられることはないでしょう。しかし、そうは言っても、完璧な人はいません。常に良い印象を持たせることなど無理な話です。自分が失敗したとき、過ちを犯したとき、私たちはどうしたらよいのでしょうか。そのときは、へりくだって、自分の失敗や過ちを認めることです。そして、誠意をもって謝ることです。相手が子どもであっても大人であってもそうすべきです。それは、かえって、神の恵みを見る良い機会となります。それこそ、福音の恵みを身をもって体験することができるのです。

□13節 パウロの教えた福音が本物であることを、テサロニケの教会の人々は、パウロの態度をとおして見分けることができました。パウロが詐欺師だとしたら、どうして、自分を犠牲にし、命をかけて福音を宣べ伝えるでしょう。ヨハネ7:17~18を見てみましょう。「 だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。」パウロには不正がありませんでした。パウロの目的は、お金のためでもなく、自分の栄光のためでもありませんでした。 このように、イエス・キリストに真に従う者は、態度をもって本物を表すのです。

  パウロにとっては、テサロニケの教会の人々は自分の愛する子どものような存在でした。自分の子どもが成長し、一人前になることが、親にとっての喜びと誇りの冠なのです。テサロニケの教会の人々が成長し、神に仕える者と変えられることは、主の働きのために骨折るパウロにとって、喜びと誇りの冠だったのです。この地上でいかなる栄光を手にすることよりも、救われた人々が、イエス様の御前で、パウロにとっての誇りであり、喜びであり、誉れだったのです。

  私たちは本物の福音を知っています。この本物の福音をもっと多くの人々に伝えたいと思います。伝える相手が家族の人かもしれません。親戚の人かもしれません。友人かもしれません。職場の人かもしれません。それがだれであっても、本物の福音を伝えるために、私たちにはいろいろな形で犠牲を払うことが導かれるかもしれません。でも、それは、イエス様のみ前で、私たちの誇りとなり、喜びとなり、誉れとなることを覚えていきたいと思います。それではお祈りします。