力と聖霊と強い確信とによって

2016年4月24日主日礼拝「力と聖霊と強い確信とによって」<Ⅰテサロニケ1:1~10>佐々木俊一牧師

■テサロニケ(テッサロニキ)という町は現在も存在する町です。ギリシャ第2の大きな都市で、約100万人の人々が暮らしています。

  テサロニケ人への手紙は、使徒パウロによって、AD.50年から52年にかけて書かれました。2回目の伝道旅行のときに、マケドニヤの中心都市、テサロニケに立ち寄って伝道しましたが、その時に、信じる者が起こされ、教会ができたのです。 ところが、ユダヤ人の猛反発によって、パウロの一行は約3週間しか滞在できませんでした(使徒の働き17章)。 テサロニケを去って後、すぐにこの手紙を書いたと思われます。テサロニケの手紙Ⅰ・Ⅱの特徴は、イエス・キリストの再臨についてどの書簡よりも多く費やされていることです。通常は、イエス・キリストの十字架と復活の教理とともに、再臨についてもしっかり教えていたのでしょうが、テサロニケでの滞在があまりにも短すぎて十分に教えることができなかったのかもしれません。

□1節~3節 2回目の伝道旅行には、パウロの他にシラス(シルワノ)とテモテが同伴しました。また、ルカをはじめ、他にも同伴者がいたと思われます。

  今も昔も、クリスチャンとして生きることは楽なことではありません。しかし、テサロニケのクリスチャンは、私たち以上に、苦しい境遇の中にあったことは確かです。ローマ帝国の圧制やユダヤ人による迫害、そして、偶像礼拝者(アルテミスの大女神)との対立は非常にきびしいものがあったにちがいありません。

  一見すばらしく見えるテサロニケの教会ですが、内部にいくつかの問題があったことが読み進めて行くうちにわかります。しかし、ここでパウロは、テサロニケの教会の良いところに目を向けています。パウロの滞在は3週間足らずでしたが、初めに信じた人々によって福音は宣べ伝えられ、教会は成長して行きました。 パウロは、そのことを神に感謝し、祈りつつ、次の3つのことについて、彼らをほめています。

① あなたがたの信仰の働き: 始まったばかりのテサロニケの教会には、全体の数は少なくても献身的なクリスチャンがたくさんいたようです。その人々によって、宣教と教会の立て上げが進んで行きました。教会には、教会の立て上げと宣教の働きがゆだねられています。そして、教会の立て上げと宣教を進めていくためには、献身的なクリスチャンの協力が鍵であると言っても過言ではありません。

② あなたがたの愛の労苦: 愛の労苦とは、人々のために犠牲を払うことです。宣教も教会の立て上げも、犠牲を払わなければできないことです。これは簡単なことではありません。英語の聖書によると(日本語よりも原語の意味に近いので)、『労苦』は『labor』です。『labor』とは、『労働』とか『骨折り』ということです。他の人々のために犠牲を払うことは、 重労働に匹敵することなのです。ですから、時には疲れたり、傷ついたり、やめたくなったりすることがあるでしょう。 そのような時には、休養が必要なことは言うまでもありません。そして、何よりも誰よりも、主イエス・キリストを見上げましょう。そして、その労苦が神様へのささげものであることを覚えましょう。神様はあなたのささげものを、しっかりと見て喜んでおられます。そして、いつか必ず神様が報いてくださいます。私たちが、神様に覚えられていることを知る時に、私たちは大きな慰めを受けるはずです。

③ あなたがたの主イエス・キリストの望みの忍耐:  主イエス・キリストの望みとは、簡単に言うと、罪赦され、神の子とされ、永遠のいのちを受け、神のみ国に入れられることです。さらに、この書は再臨の書と言われていることから、イエス・キリストが再びこの地上に来られ、悪しきこの世を裁き、救い主を待ち望んでいる人々を救い出してくださるという望みでもあります。テサロニケのクリスチャンは 、この望みがあったからこそ、世の戦いの中で忍耐することができました。

□4節 私たちは、神に愛されている者であることと、神に選ばれた者であることについて、しっかりとみことばに立つ必要があります。悪魔がこの地上の労苦や困難を利用して、その真実を曲げて私たちに疑いを持たせようとするからです。ヨハネ15:16を見てみましょう。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」私たちが選ばれたのは実を結ぶためです。しかし、私たちが気をつけなければならないのは、この地上で見栄えのする実に目を奪われることです。もちろん、この世の地位も業績も大きな働きも大きな教会も、神様の祝福です。けれども、もっと大切なことは、私たちの内面です。私たちのうちに、愛の心が育まれ、喜びや平安で満ちるように、他の人々への親切心や同情心、誠実さや寛容さがもっと豊かになることです。それらは、恵まれた環境の中で形造られるのではなくて、労苦や困難の中で形造られるものです。 

□5節 ことばには力があります。私たちはいろいろなことばの影響を受けながら年を重ねてきました。否定的なことばや肯定的なことば、温かいことばや冷たいことば、励ますことばや落胆させることば、希望を与えることばや失望させることば、恐れを与えることばや安心を与えることば、怒りのことばや優しいことば、傷つけることばやいやすことば、いろいろなことばを聞いて私たちは育ってきたのです。ことばには力があり、影響力があります。ですから、私たちはことばには気をつけなければいけません。しかし、ことばで失敗しない人は誰もいないと言うのも事実です。それは、聖書が言っていることです(ヤコブ3:2~)。

  それでは、人のことばではなくて、神様のことばについて考えてみましょう。Ⅰコリント1:18に、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」とあります。神様は、幼稚でばかばかしいと思うようなことばによって、信じる者を救おうと定められたと聖書に書かれています。十字架のことばは、ただのことばではありません。神の力が込められているのです。ですから、聞いて信じる者にはその力が働くのです。福音のことばが語られる時、ことば以上の力と影響力を発揮します。なぜならば、それは神のことばだからです。そして、神のことばが、力と聖霊と強い確信とをもって語られる時、神様は豊かに働いてくれるのだと思います。神のことばに信頼しましょう。神のことばに自信を持ちましょう。そして、私たちの神への信頼と自信を人々に伝えましょう。

  神のことばへの信頼と自信と同様に、大切なことがもう一つあります。このように書かれています。「また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。」 パウロはテサロニケの教会でどのようにふるまったのでしょうか。パウロをとおしていやしや奇跡の働きがなされました。しかし、それ以上に大切なことは、パウロのふるまいです。きっと、パウロはイエス様を模範として、仕えられるのではなく仕える者として行動したのだと思います。命令や強制によるのではなくて、良い模範を示すことによって人々を導いたのだと思います。私たちのことばは、私たちのふるまいや行ないとともにあります。言っていることとやっていることの間にあまりにもギャップがあったとしたら、どんなに良いことを言ったとしても、誰も従おうとはしないでしょう。言っていることとやっていることが違い過ぎると、メッセージを発信しても正しく伝わらないのです。そして、本来発揮されるべき力を失ってしまいます。

□6節~8節 テサロニケのクリスチャンは、厳しい迫害の中で、イエス・キリストへの信仰を貫き通しました。彼らには苦しみがありましたが、それ以上の喜びがありました。その喜びは、心の奥底から湧き上がる聖霊による喜びでした。その喜びの中で、さらに神のことばを受けてしっかりとキリストに結びつき、主イエス・キリストに従う者とされました。彼らの信仰のことは、近隣の町々だけでなく、もっとはるか遠くまで伝えられました。それと共に、福音も広がって行ったのです。

□9節~10節 テサロニケの人々を偶像礼拝から立ち返えらせたのは、パウロとその仲間たちによって語られた福音のことばであり、彼らを通して表された力と聖霊と強い確信であり、そして、彼らの愛のふるまいでした。初代教会時代のテサロニケという町において起こった神の働きは、他の町々にも広がっていきました。私たちが住んでいる町においても、そして、日本においても、必ず神の豊かな働きが起こると私は信じます。なぜならば、私たちには神のことば、福音のことば、十字架のことばがあるからです。神のことばには力があります。神のことばを語る時、そこに力と聖霊と強い確信が表されるように祈りたいと思います。

  私たちに導かれていることは何でしょうか。一つは、神のことばを語ることです。クリスチャンの間で神のことばを語り合い、まだ福音のことばをきちんと聞いたことのない人に福音のことばを語りたいと思います。次に、神のことばに自信を持ちましょう。私たちが福音のことばを語るとき、自信も一緒に伝わるように祈りたいと思います。3つ目は、ことばだけによるのではなくて、私たちのふるまいや行いを通して福音を知らせたいと思います。これは一番難しいかもしれません。失敗してもめげずにチャレンジし続けることができるようにお祈りしたいと思います。それではお祈りします。