主のことばに励まされて

2016年4月10日主日礼拝 『主のことばに励まされて』Ⅱテモテ3:16-17佐々木俊一牧師

 

■主のことばとは神のことばです。そして、神のことばは聖書の中にあります。Ⅱテモテ3:16「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」と書かれています。

   この手紙は、パウロが弟子テモテに向けて書いたものです。パウロの言う聖書とは、当時は旧約聖書のことだったでしょう。初代教会の時代において、聖書と言えば、旧約聖書のことでした。現在、聖書は旧約聖書と新約聖書の二つの聖典から成っています。福音書や書簡が聖書としてはっきりと認められたのは、紀元後400年くらいのことでした。カルタゴ会議というのがあって、その時から旧約聖書と共に新約聖書として広く認められるようになりました。旧約聖書も新約聖書も、人間が勝手に考えて書いたものではありません。神の啓示によって書かれたものです。啓示とは、神様が人に向けて表してくださった事柄です。旧約聖書が文字通り「古い契約」を意味するものであり、新約聖書は「新しい契約」を意味するものです。ローマ帝国時代の神学者であり哲学者であったアウグスティヌスも言っていますが、「新約聖書は旧約聖書の中に隠されており、旧約聖書は新約聖書の中に現されている」ということばが、旧約聖書と新約聖書の関係をよく表していると思います。プロテスタントの教会は、旧約が39巻、新約が27巻と定めています。

   それでは、先ほどのⅡテモテ3:16のみことばから、神のことばである聖書について見ていきましょう。

■聖書はすべて神の霊感によって書かれた!

       注釈を見ると、「神のいぶきによる」と書かれています。つまり、聖書は神の息吹によって書かれたと言うことです。「いぶき」とは「息」のことであり、「息を吹くこと」です。「神のいぶき」と言うと、創世記2:7を思い起こしませんか。神様が地のちりで人を造った際に、「人の鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は生きものとなった」と書かれています。それと似たような言い回しがここに見つけることができます。また、息は聖霊を意味することがあります。ですから、聖書は聖霊の力と助けと導きによって、人を通して書かれたと言うことができると思います。              

   そして、次に、聖書の役割と目的について4つの事が書かれています。         

①教え:聖書は、教えのために有益です!

   聖書は神様の教えを伝えるために書かれたものです。教えの中心は、イエス・キリストの救いです。イエス・キリストの救いについては、新約聖書を読めばわかります。それに比べて、旧約聖書は、読んでみてもイエス・キリストの救いがどのようなものかをとらえるには難しいかもしれません。しかしながら、旧約聖書には、イエスがキリストであり、救い主であることを裏付ける重要な事柄が書かれているのです。先ほども言いましたが、新約聖書は旧約聖書の中に隠されており、旧約聖書は新約聖書の中に現されているのです。新約聖書が救いの実物だとしたら、旧約聖書はその影のようなものです。影ですから救いについてぼんやりとしかわかりません。救い主であるイエス・キリストが来られて初めて救いの実体がはっきりとわかったのです。新約聖書と旧約聖書との関係を知ることによって、新約聖書にある救いが本物だという確認ができるわけです。ですから、旧約聖書を知ることは、私たちの信仰のために非常に有益なことです。                                  

②戒め:聖書は戒めのために有益です!

   「戒め」と聞くと、罰とか厳しいイメージを持ってしまいます。しかし、「戒め」とは、何が良くて何が悪いのかを判断するための基準です。すべての人に良心というものが与えられています。けれども、その良心は罪によってゆがめられています。良識や常識は、時代や国や社会によって変わります。しかし、神様の基準は変わることがありません。私たちは神様の基準を知ることが必要です。

そのために私たちは、日々聖書を読み、聖書のことばにふれることです。

③矯正:聖書は矯正のために有益です!

   聖書は、私たちが生まれ育つプロセスの中で身につけた、悪い習慣や癖を直すことができます。また、私たちの思いや感情にふれて、誤った考えや感じ方を直すことができます。クリスチャンになったからと言って、自動的に完璧な人になるわけではありません。自分を見ると、いまだに未熟なところがあります。しかしそれでも、矯正されて良くなったところもたくさんあるのです。クリスチャンとして歩み始めた頃よりも、今の自分の方が人としても信仰者としても成長していると思います。性格も変えられたでしょう。以前は暗かったけれども、今は明るくなりました。人前で話すのが苦手だったけれど、今は人前で話しています。心配したり悩んでばかりいましたが、今はそんなに心配したり悩んだりしなくなりました。いつも悲観的だったけれど、今は楽観的になりました。以前は自己中心で自分のことしか考えていませんでしたが、今は他人の事も考えるようになりました。人が傷つくようなことをよく平気で言ったりやったりしていたけれど、今は人の気持ちを気遣うようになりました。私たちは、神のことばによって矯正され、変えられ、成長してきたのです。もちろん、まだまだ変えられる余地はあります。天に召されるまで、それは終わることがありません。

④義の訓練:聖書は義の訓練のために有益です!

   義の訓練とは何でしょうか。義とは正しいことです。正しいことができるようになるための訓練です。エペソ2:10「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリストにあって造られたのです。神は私たちが良い行ないに歩むように、その行ないをあらかじめ備えてくださったのです。」私たちは、キリスト・イエスにあって新しく造られた者です。古い人は死んで新しい人に生まれ変わったという出来事を知らなければなりません。新しい人は良い行ないをするように導かれています。けれども、クリスチャンになったからと言って自動的に良い行ないができるようになるわけではありません。もちろん、日々聖霊の助けがあるでしょう。それにしても、私たちが何をするのかについては選択の自由が与えられているので、その自由をどう用いるかは自分の意志で選ばなければならないのです。ですから、良い行ないをしたいのは山々なのですが、いつもできるとは限りません。そんな時は、この前も言いましたが、Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての罪から私たちをきよめてくださいます。」というみことばを適用します。悔い改めは、バプテスマを受けるとき1回で終わるのではありません。天に召されるまで続きます。神様の御前に罪を言い表すことによって、私たちのうちにある罪悪感や罪責感から自由にされ、平安と喜びが戻ってきます。イエス様が私たちの罪の供え物として十字架で死んでくださったので、私たちの罪はすべて赦されました。義の訓練とは、私たちが正しい行ないによって歩めるようにするための訓練であり、また、失敗した時の正しい対応を身に着けるための訓練でもあります。                                                      

■Ⅱテモテ3:17「それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」

   パウロほど神様によって教えられ、戒められ、矯正され、義の訓練を受けた人はいないのではないでしょうか。パウロには多くの困難が与えられました。しかし、それらによってパウロが潰されることはありませんでした。なぜならば、困難な中でパウロは神のことばによって励まされたからです。当時の過激なユダヤ教徒によって殺されそうになった時も、ローマに向かう途中船が座礁して死にそうになった時も、パウロは神のことばによって励まされました。そして、困難を乗り越え働きをまっとうしていきました。

   私たちも同様に、主に仕える歩みの中で主のことばは私たちを励ましてくださいます。主のことばに励まされるためには、私たちが、聖書は神の霊感によって書かれたこと、そして、それは神のことばであることを信じることが大切です。神の息吹が込められたことばですから、そのことばにはいのちがあります。私たちの新しい人は神のことばによって立てあげられ、成長し、信仰から信仰へと導かれるのです。日々、主のことばにふれましょう。主のことばは私たちにとって非常に有益です。主のことばに励まされて、2016年度を進んでいきましょう。それではお祈りします。