強くあれ!主が共にいるから!

2016年3月27日イースター礼拝 『強くあれ!主が共にいるから!』ヨシュア1:9佐々木俊一牧師
■金曜日に行われた受難日礼拝の帰りに、空を見上げると、大きな満月が見えました。イースターは毎年日にちが変わります。ある年は4月中旬になったり、ある年は3月下旬になったりします。春分の日が過ぎて、最初の満月の後の日曜日がイースターの日と決められています。ですから、今年は3月27日がイースターです。(※イスラエルでは太陰暦、1日は新月、過越しの祭りの頃は満月になる。ユダヤの祭りは、新月や満月に行なうことが多い。)
  受難日礼拝においては、私たちの主、イエス・キリストが十字架にかけられて死んでくださったことによって、私たちには二つの自由が与えられていることをお話ししました。一つは、罪を犯さない自由です。そして、もう一つは、罪の裁き、永遠の死からの自由です。私たちは罪を犯さない自由を選ぶように導かれています。しかし、そうは言っても、神様は人の弱さをご存知です。罪に関しては、神様に頼らなければどうすることもできない私たちです。もしもの場合には、イエス様が弁護してくださる、と聖書に書かれています。
■ところで、イエス様が十字架に架けられて死んだ後、イエス様はどうなったのでしょうか。当時の多くのユダヤ人は死んだイエス様の体を弟子たちが盗んで行ったと思っていました。と言うのも、当時のユダヤ人指導者たちが情報操作をして、事実を捏造したからです。マタイ28章にそのことが書かれています。
  イエス様の死体が弟子たちによって盗まれたということが事実だったとしたら、そして、イエス様が実は復活などしていないということが本当だったとしたら、イエス様を信じていた当時のクリスチャンたちは何と惨めで可愛そうな人たちだったでしょう。今の時代に生きるクリスチャンも同じです。それについてパウロはこのように言っています。
  「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」
(Ⅰコリント15:17~19)
  「イエス・キリストは私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださいました。そのことを信じれば、あなたの罪は赦されます。ただ、イエス・キリストは今も死んだままです。死んだ後はどうなるのかはっきりわかりません。でも、信じれば救われます。さあ、イエス・キリストを信じましょう。」もしも、これが福音だとしたら、信じますか。あるいは、「イエス・キリストは私たちのことを愛して、私たちの罪に代わって十字架にかかって死んでくださいました。だから、あなたがたもイエス・キリストに習って、お互いに愛し合いましょう。そうすれば、世界は良くなり、すべての人が幸せになれます。」、これは、地上にいる間だけの希望です。それが私たちの希望だとしたら、死の直前になって、私たちはきっと、心満たされることなく死んでいくか、または、死の向こう側に希望を見出すことなく死んでいくことになるのではないでしょうか。
  しかし、感謝なことに、聖書によるならば、十字架にかけられて死んだイエス・キリストは三日目によみがえられた、と多くの人々がその証人として声高らかに叫んでいるのです。パウロもまた、このように言っています。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(Ⅰコリント15:20)
  弟子たちのリーダー的存在であったペテロはこのように言っています。
「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。」(Ⅱペテロ1:16)
  ペテロの生き様は、イエス・キリストの復活の出来事の後、変化し始めました。以前は、口ではイエス様の行くところならどこへでもおともしますと宣言していたのですが、いざ自分の命が危うくなると、イエスなんて知らないと、3度否定してしまったペテロでした。そんなペテロが、イエス・キリストの救いを伝えるためなら、自分の命をも惜しまないという大胆で力強い信仰へと変えられていったのです。
■最近、NHKドラマの主人公として、幕末から明治にかけての日本人女性クリスチャンが、よく取り上げられています。幕末から明治にかけては、男性も女性も、クリスチャンになった日本人は少なくありません。彼らは、日本の社会に良い影響を与え、日本の発展に貢献しました。彼らもまた、キリスト教信仰に強く影響を受けた人々であったと思います。
▶広岡浅子:NHK朝ドラ「あさが来た」の主人公のモデル。明治を代表する女性実業家、教育者、社会運動家。 ペンネーム:九転十起生(きゅうてんじっきせい)。日本女子大学の創設者の一人、大同生命の創設者の一人。日本YMCA創設などに協力。
三井財閥の家系の出身。
▶村岡花子:NHK朝ドラ「花子とアン」の主人公のモデル。広岡浅子との接点がある。翻訳家、児童文学者。
▶新島八重:NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公のモデル。同志社大学創設者の新島襄の妻、同志社大創設に協力。
  彼らの価値観や見方が、現代の多くの人々の共感を呼ぶところがあるのだと思います。偏見や先入観にとらわれず、人々の幸せと益のために、何か新しいことに取り組もうとする姿勢、困難に立ち向かおうとする勇ましさや力強さは、キリスト教の価値観と合致するところがあるのではないでしょうか。
■ヨシュア1:9「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行くところどこにでも、あなたとともにあるからである。」
  これは神様がヨシュアに与えたことばです。約束の地であるカナンの地に入る前の出来事です。カナンの地に入ろうとしたときに、イスラエルは彼らにとって重要なリーダーを失ってしまいました。モーセが死んでしまったのです。約束の地を得るために、次のリーダーとして立たされたのがヨシュアでした。ヨシュアの別の言い方は、イェシュアです。まさに、それは、イエスという名前です。その意味は、「救い」です。約束の地を得るために、神様はヨシュアに命じました。「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行くところどこにでも、あなたとともにあるからである。」と。
  この箇所は、リーダーを失った弟子たちとイエス様がよみがえられた後の出来事と、何か重なるところがあると私は思います。私が思うには、きっと、イエス様はヨシュアの話を弟子たちに聞かせていたのではないかと思います。そして、弟子たちがあの出来事に遭遇した時に、神様がヨシュアに語られたことを思い起こしたのではないかと私は推測します。あの出来事というのは、マタイ28:18~20にある大宣教命令の場面です。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます。」
  神様がヨシュアに命じた約束の地の占領について、その真意は領土の占領自体にあるのではなく、霊的な占領、人々の救い、多くの人々の魂がイエス・キリストの救いに預かることを表しているのだと私は思います。イスラエルにとっての約束の地の獲得は、神様にとっては多くの魂の救いの獲得である、と私は考えます。多くの人々の救いのために、大宣教命令と共にヨシュア1:9の御言葉をもって、復活のイエス様が「強くあれ!主が共におられるから!」と言って、エールを送ってくださっているように思います。
  イエス・キリストの復活は、ペテロやパウロ、そして、多くのクリスチャンに勇気を与え、恐れを取り除き、大胆さを与えてきました。復活の信仰は、人々を死の恐怖から自由にします。復活の信仰は、人々を大胆にします。復活の信仰は、倒れても立ち上がらせてくれます。復活の信仰は、人々を明るくします。復活の信仰は、損しても損したとは思わせません。復活の信仰は、平安を与えてくれます。他にもまだまだあります。
  この地上でどんなに大きな成功や栄誉を受けることよりも、神様が一番与えたいと思っているものは永遠の命です。そして、神の御国に来てほしいと願っています。みなさんは、死の向こう側に何を見るでしょうか。希望が見えていますか。イエス・キリストの復活と救いを信じてください。そうすれば、死の向こう側に、はっきりと希望が見えてきます。それではお祈りします。