共に集まる!

2016年2月7日主日礼拝 <共に集まる!>エペソ1:19-23  佐々木俊一牧師

「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」

■19節 このみことばによって、イエス・キリストを信じる者には神の力が働いていることがわかります。その力は優れていて、偉大であると言うことです。みことばによるならば、イエス・キリストを信じる者には、神の優れた偉大な力が働いているのです。その力を私たちが知ることができるようにというのが、パウロの願いであり祈りなのです。

■20節~21節 この神の優れた偉大な力が発揮されたのが、イエス・キリストの復活でした。イエス・キリストは人類の罪を贖うために十字架に架けられて死にました。しかし、3日目によみがえられたのです。それと同じ力がイエス・キリストを信じる者たちにも働いているのです。20節では、その力を全能の力と言っています。

   復活したイエス・キリストは、その後40日の間、この地上にいて多くの人々の前に現れたことが新約聖書に記されています。使徒の働き1章には、エルサレムのオリーブ山から、再び地上に戻ってくることを約束して、天に昇って行かれたことが書かれています。今、イエス・キリストは、天にいて、父なる神の右に座しておられます。神は御子イエス・キリストに、天においても、地においても、誰よりも何よりもまさる、最高の名と最高の権威をお与えになりました。

■22節~23節 神は、天においても地においても、最高の権威者であるイエス・キリストを教会に与えた、と書かれています。今の世においても、次に来る世においても、イエス・キリストがかしらであって、そのかしらなるイエス・キリストが教会のかしらであること、そして、教会はそのからだである、と聖書は教えています。でも、本当にイエス・キリストが地においても最高の権威者であるのなら、どうして戦争が起こったり、テロが起こったり、それによって、多くの人々が犠牲となり、国を追われて難民になったりするのだろうか、というような疑問が出てくるかもしれません。神様が戦争やテロを許したり、人々が犠牲になったり、難民になったりすることを喜んでいるなんてことはけっしてありません。ただ、神の支配がこの地上にはっきりと現されるのには、きっと、神の計画があって、神の時があるのだと思います。今は、神ご自身が自らの手を下して何かをするというのではなくて、キリストのからだである教会をとおして、この世に働きかけようとしているのだと思います。まずは、同じ信仰を持つ人々の間で、神様のみこころがなされるように導いておられるのではないでしょうか。さらには、世の人々に対しても、教会をとおして、神のみこころをなそうとしているのではないでしょうか。と言いながらも、神様のみこころや計画をなせるような力がはたして、私たち教会にあるのでしょうか。22節にその答えがあります。「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」教会はいっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところであると言うのです。つまり、いっさいのものをいっさいのものによって満たすことのできるイエス・キリストが、いつも教会におられることを示唆していることばであると理解します。これは、大変力強いことばであり、私たちに可能性と希望を示してくれることばであると思います。

■今日の聖書箇所には、「教会」ということばが2度出て来ました。新約聖書の中で「教会」ということばが最初に出てくるのはどこでしょうか。・・・イエス様が弟子たちに、「あなたがたはわたしをだれだと言いますか。」と質問した時です。ペテロがイエス様の質問に対して、「あなたは生ける神の御子キリストです。」と答えました。イエス様はそれを聞いて、「・・・あなたはペテロ(岩)です。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。・・・」と言われました。「教会」ということばが、ここに出て来ます。ギリシャ語で「エクレシア」です。意味は、「召し集められた者たちの集まり」です。もともと、このことばは、会議のような人々の集まりに対して、一般的に使われていたことばです。聖書の中では、「エクレシア」というと、それは、「神によって召し集められた者たちの集まり」なのです。イエス・キリストを信じる者は、お一人お一人が神に呼ばれて集められた者なのです。この「教会」ということばは、新約聖書の中で100回以上使われているそうです。新約時代において、「教会」がいかに重要かと言うことを示していると思います。

■「教会」の意味は、「召し集められた者たちの集まり」です。一般的に認識されているような建物ではありません。だからと言って、教会堂は重要ではない、と言うのではありません。自分たちの教会堂があることが、どんなに大きな恵みであるかは、私たちは十分にわかっていると思います。でも、どんなに立派な教会堂があっても、そこに、召し集められた者たちが集まらなければ意味はないのです。召し集められた者たちが集まってこそ、それは、教会と呼べるのです。ですから、共に集まることはとても大切なことです。集まることがなければ、何も起こりません。集まることをとおして神様は豊かに働かれるのです。このことを覚えておきたいと思います。

■「集まる」ことについて、新約聖書にたくさんの箇所を見つけることができます。初代教会においては、人々は当たり前のように集まっていました。使徒1:15に、「そのころ、120名ほどの兄弟たちが集まっていたが・・・」使徒2:1に、「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた・・・」五旬節の祭りの1日目は、安息日(土曜日)の次の日ですから、この日は日曜日でした。彼らは、主イエス・キリストが復活された日曜日に共に集まり礼拝をささげるようになっていたようです。使徒2:46に、「そして、毎日、心を一つにして宮に集まり・・・」とあります。彼らは毎日のように主の晩餐式の時を持っていたようです。今の時代に、同じことをやらなければならないとは言いません。時代の状況や事情が異なると思います。しかしながら、「集まる」ということは、教会生活や信仰生活において、非常に重要なことであることは確かです。使徒3章以降にも、「集まる」ことについての記述が出て来ます。その都度、そこに見るのは神様の何らかの働きです。共に集まることと神様の働きには、何か関わりがあると私は思います。

   へブル10:24~25 「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、一緒に集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」私たちは集まることを止めてはいけません。集まることは、私たちの信仰を互いに燃えたたせるために必要なことです。集まることによって私たちは、私たちが信じている希望の確かさを共に再確認し、互いに励まし合い、教え合い、勧め合うことができるのです。

■私たちの集まりの中で何よりも大切なのが、日曜日の主日礼拝です。初代教会において、クリスチャンは土曜日ではなくて、イエス様が復活された週の初めの日曜日に礼拝をするようになりました。週に一度は、心を神様に向け、イエス様の復活の力と希望と愛を覚え、主に感謝と賛美をささげ、心を低くして、神様から平安と恵みと祝福を受け取りたいと思います。理由があって礼拝に来られない時もあります。そのような時は、ひとりであっても、家族であっても、短くて良いですから、1週間に一度は、心を神様に向ける、このような礼拝の時を持つようにしましょう。

   キリストのからだである教会が共に集まることには、深い意味があります。召し集められた者たちが共に集まることには、神様の特別なみこころがあります。そして、神が神としてあがめられているところに、神がともにおられて、そこには神の祝福と恵みと力があります。教会のお一人お一人が共に集まる時、からだの器官がともに働き合って機能し合うように、教会はキリストのからだとして機能することができるのだと思います。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。神によって召し集められた者たちが共に集まり続けるとき、目に見えないとしても、きっと、神の計画は進んでいるのだと思います。それではお祈りします。