主が備えてくださる!

2016年1月24日主日礼拝 <主が備えてくださる!>創世記22:1-14 佐々木俊一牧師

■「これらの出来事の後」とは、どんな出来事の後なのかと言うと、それは、創世記21章の後半に書かれている出来事です。当時のペリシテ人の王であったアビメレクとの間にアブラハムは和平を結ぶために契約を交わしました。和平を結ぶ前は幾度かのトラブルが生じていたのだと思います。しかし、和平を結んでやっと穏やかな生活を取り戻すことができました。しかし、それもつかの間、アブラハムには次の試練が待っていました。それが、創世記22章に書かれていることです。

   試練とは、私たちにとってどんなものでしょうか。できれば、避けて通りたいものです。試練が好きな人は誰もいません。嫌なものです。しかし、聖書には、耐えられないような試練は与えないことと、必ず脱出の道が備えられていることが約束されています。試練にはアブラハムの時のように、神様が直接関与している場合と、ヨブの時のように神様の許可の範囲内で他の何者かによって与えられる場合とがあるようです。いずれにしても、その結果は人をつぶすためではなく、訓練し、整え、さらなる祝福を与えるために神様は用いておられるように思います。アブラハムに与えられた試練にもそのような側面を見ることができます。さらに、アブラハムに与えられた試練には、一つの大きな理由がありました。その答えが12節にあります。「御使いは仰せられた。『あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。』」この時、神とアブラハムの間には契約が成立していました。その契約とは、全人類の運命がかかっている契約でした。それほど重大な契約をはたしてこのアブラハムが担うことができるのかどうか、神はここでアブラハムをテストしたのではないでしょうか。その結果、アブラハムが神を大切に思い、神の言われることを第一とし、神に聞き従う人間であることがわかりました。

■この出来事は、新約聖書ではこのように言われています。へブル11:17-19を見ると、「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。』と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」と書かれています。創世記22章の出来事について簡潔な解釈が述べられています。

   長い間、アブラハムとサラの間には子どもができませんでした。当時の風潮として、子どもができないと言うことは、いかに夫婦にとって大きな悩みであったことでしょう。女性にとっては恥辱であり、男性にとっては跡取りがいないということが人生の敗北を意味していました。神はそんな彼らに約束をされました。それを聞いた二人は最初笑いました。「まさか。こんな老体からどうして子どもが生まれるだろうか。そんな事、不可能だ。」神は、75歳のアブラハムと65歳のサラの間に男の子を与えると約束したのです。神によって諭された二人は、常識的にはありえない話だけれども、語られたことばを信仰によって受け取りました。しかし、この約束が実現したのは、それから25年後のことです。忍耐の末に、アブラハムとサラは、イサクという男の子を授かりました。この時の体験によって、神には不可能がないと言うことを、彼らは実感したに違いありません。神様はなんてすばらしいお方だろうと思ったことでしょう。彼らの未来は明るく、イサクによってアブラハムの子孫が繁栄し続けることを、彼らは確信していたはずです。ところが、彼らの予想とは異なって、再び大きな試練が彼らを襲いました。

   今日の聖書箇所を読んでいると、「神様、そんな残酷なことやめてください。どうしてですか。あなたの言っていることが理解できません。」という、アブラハムとサラの心の叫びが聞こえて来るようです。神はアブラハムに、「あなたの愛しているひとり子のイサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そこでイサクを全焼のいけにえとしてわたしにささげなさい。」と命じたのです。この時彼らはベエル・シェバに住んでいました。モリヤの地はエルサレムにあります。ベエル・シェバからモリヤの地まで約50キロの行程です。アブラハムはイサクをロバに乗せて、ほかに若い者数人を連れて、モリヤの地に向かいました。三日ほどかかったようです。

   エルサレムの城壁の中に、アブラハムがイサクをささげた場所ではないかと言われている場所があります。そこは、現在、岩のドーム(通称黄金ドーム)と呼ばれているモスクの中にあります。その中に入ったことがありますが、ガラス張りの中に非常に大きな岩が展示されています。その岩が、イサクがささげられた祭壇であるとの言い伝えがあります。そして、そこはまた、モスリムの人々にとっての聖地でもあります。なぜならば、モハメッドがその岩の上に立って天に昇って行ったと伝えられているからです。昔、この場所には、イスラエルの神殿がありました。今は、岩のドームをはじめ、いくつかのモスクが建っています。

   イサクは全焼のいけにえとしてささげられるために、モリヤの地に連れて来られました。アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取って、それを愛するひとり子イサクに背負わせました。自分は火と刀を手に持って、ふたりは一緒に進んで行きました。イサクは父アブラハムに話しかけて言いました。「お父さん。」アブラハムは答えました。「何だ。私の愛する子よ。」イサクは尋ねました。「火とたきぎはあるけれど、全焼のいけにえのための羊はどこにあるのですか。」アブラハムは答えました。「私の愛する子よ。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」この二人の会話を皆さんはどう思われますか。イサクは何かがおかしいと感じながらも、父であるアブラハムに全き信頼をおいていました。アブラハム自身は非常に辛かったことと思います。もしかしたらこれでイサクとはお別れになるかもしれない。そんな恐れと不安の中、いや神の約束によるならば、イサクがここで死んでしまうことなどありえないことだ。なぜなら、神はイサクから出る者が私の子孫と呼ばれると約束してくれたのだから。神にとって不可能なことはない。不可能を可能にしてイサクが生まれて来たのだから、たとえ、イサクがいけにとしてほふられても、不可能を可能される神はきっとイサクを生き返らせてくれるに違いない。アブラハムは不安や恐れ打ち負かされそうになりますが、信仰に立って神に従い続けました。祭壇を築き、たきぎを並べ、自分の愛する子イサクを縛って祭壇の上に置いて、刀をとって自分の愛する子をほふろうとしました。すると、その時、神のストップがかかったのです。「あなたの手を、その子に下してはならない。」み使いが叫びました。ぎりぎりのところで彼らは救われました。

   ここで明確にとらえておきたいことがあります。人をいけにえとしてささげることを、神は望んではいないということです。当時、偶像礼拝をする人々の間では、いけにえとして人をささげることがあったようです。けれども、他の聖書箇所によるならば、神はそのようなことをしてはならないと言っています。

■先ほど、へブル書11章を読みました。その中に、「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」と書かれてありました。「これは型です。」とはどういうことでしょうか。イエス様がこの地上におられた時に、パリサイ人に向かってこんなことを言ったのを覚えているでしょうか。「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。」(ヨハネ5:46)モーセが書いたのは、モーセ五書と言われています。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記です。この中にイエス・キリストという言葉は出て来ません。にもかかわらず、ここに書かれていることはイエス・キリストの事だと言うのです。たとえば、モーセ五書の中に出てくる人物や出来事が神の救いや救い主なるお方について表していると言ってよいでしょう。この場合も、イサクはイエス・キリストを表しています。イエス様は人の罪のいけにえとして十字架に架けられて死にました。この時、イエス様は、ご自分が架る十字架をご自分で背負ってゴルゴタの丘に向かって行きました。イサクがささげられた祭壇はイエス様が架けられた十字架を表しています。同じように、イサクも祭壇で使うたきぎを自分で背負って祭壇まで進んで行きました。

   イサクに関連したとても興味深いユダヤ人の慣習があります。私たちが行なう主の晩餐式は、ユダヤ人の過ぎ越しの祭りが原型です。ユダヤ人が過ぎ越しの祭りを行うとき同じように一つのパンを割いてみんなで分けて食べる習慣があります。この時、パンのかたまりが三つ用意されます。その三つのパンは三つに区切られたカバンの中に入っています。その三つのパンは、イスラエルの民の代表的な先祖を意味しています。アブラハム、イサク、ヤコブです。真中のパンはイサクを意味しています。そして、イサクを意味する真中のパンを取り出して、割いてみんなで分け合って食べるのです。彼らは、なぜ、真中のパンを割いて食べるのか、その意味を理解していません。しかし、彼らはそのパンを「afikomenアフィコメン」と呼んでいます。その意味は「coming one来るべきお方」です。つまり、真中のパンは十字架に架けられて引き裂かれたイエス・キリストの体を意味していますが、彼らはそのことが理解できないでいるのです。主の晩餐式で私たちは一つのパンをいくつにも割いてみんなで食べます。その割かれたパンは、十字架に架けられて引き裂かれたイエス・キリストの体を象徴していることを私たちは知っています。

■アブラハムがイサクをほふるのをやめて、目を上げてみると、角を藪にひっかけている1頭の雄羊がいました。アブラハムはその雄羊を捕まえてそれを自分の愛する子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげました。そして、アブラハムはその場所を、「アドナイ・イルエ(主が備えてくださる)」と名付けました。

   もうこれで終わりかと思った時に神の助けがあります。もうこれが限界と感じた時に神の備えがあります。神のタイミングはこのようなことが多いような気がします。私たちは皆がそのようなところを体験しておられるのではないでしょうか。神のタイミングが訪れるまで、忍耐できるように祈りたいと思います。今、そのようなところに置かれている方々がいるかもしれません。信仰に立って行けるように、神様の約束に目を向けていけるように、お祈りしたいと思います。