エッサイの根株

2015年12月27日主日礼拝 <エッサイの根株>イザヤ11:1  佐々木俊一牧師

「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」(イザヤ11:1)

■イザヤは紀元前700年代、今から約2700年前に活躍した預言者です。彼の時代は、ユダ王国にとっては非常に不安や心配の多い時代でした。周囲にあるイスラエル王国やアラム王国から頻繁に攻撃を受けていました。しかし、さらなる脅威がユダ王国に迫っていました。アッシリア王国がイスラエルやアラムを滅ぼし、ユダ王国までも滅ぼそうとしてやって来たのです。紀元前720年にイスラエル王国が滅ぼされました。その後、およそ150年間は神のみ手の守りの中、ユダ王国は独立を保つことができました。しかし、アッシリア衰退の後、バビロンによって紀元前585年に滅ぼされてしまいました。ユダ王国のおもだった人々はバビロンに連れて行かれました。このような背景と当時の出来事の中で、イザヤは人々に向かって預言を語りました。その中に、救い主のことや将来起ころうとしている事柄についても、語られていたのです。今日の聖書箇所であるイザヤ11章もその代表的なところです。

■イザヤ11:1 「根株」とは何でしょうか。自分のイメージしているものと違うといけないので、一応、辞書で調べてみました。「木の切り株」と書いてありました。次に、「切り株」を調べてみました。「樹木または草を切ったあとの根株」と書いてありました。これでは、根株も切り株もどういうものなのかはっきりわかりません。それで、ネットでその画像を検索しました。次のような画像が出てきました。・・・「根株」とは、切り倒された木の残った部分と根っこの部分です。切り倒されたにもかかわらず、残された部分から新芽が出てくることがあるようです。このような画像です。・・・そして、その新芽が成長して枝になり、そこに実がなるのです。

      「エッサイ」とは誰でしょうか。ダビデのお父さんです。今日の聖書箇所に、「エッサイの根株」と書いてありました。エッサイと根株とにどのような関係があるのでしょうか。それは、エッサイの家系が切り倒された木の根株のような状態になってしまったということなのです。昔はダビデ以来、王家として栄えていましたが、その後すっかり衰え果ててしまって、エッサイの家系には何の可能性も期待することはできなかったのです。ところが、人の目には衰えて見えたとしても、神様の目にはそうではありませんでした。エッサイの家系から、救い主なるお方がお生まれになることが、このところで予告されているのです。

      エッサイの末っ子のダビデは、サウルの後、イスラエルの王様になりました。次に、ダビデの息子のソロモンが王様になり、ソロモン王の後は、ユダ王国とイスラエル王国の二つに分裂してしまいました。ユダ王国はおよそ400年間続きました。その間、ダビデとその子孫がユダ王国の王になりました。けれども、ゼデキヤ王を最後に、バビロンの捕囚となり、その王家は終わってしまったのです。

それから、およそ600年の時が流れました。ダビデの子孫であるヨセフとマリヤの時代になると、元王家の家系としての繁栄はまったく見られませんでした。ヨセフは貧しい大工(石工)でした。英語の聖書、Today’s English Versionのイザヤ書11:1には、「ダビデの王室の家系は、切り倒された木のようである」とはっきり書かれています。しかし、その後に、「その根株から新芽が生え出るように、ひとりの新しい王がダビデの子孫に起こる」と書かれています。この「新芽」とは、イエス・キリストのことであり、「新しい王」とは、イエス・キリストのことです。イエス・キリストは、ダビデの家系に生まれました。(実際には、聖霊によってマリヤはみごもりました。神なるお方が人としてこの地上に来るために、マリヤのおなかにやどり、ダビデの家系の中に現れたのです。)そのお方は、「とこしえの王」として、永遠にその王国を治めるのである、とイザヤ9:6、7に書かれています。

      「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は、『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」 この預言のことばはすでに成就しました。けれども、そのあとの部分、7節 「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、裁きと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」この部分は、まだ成就していません。これから成就するのです。

■今日の聖書箇所から、二つの大切なことをお話ししたいと思います。まず一つ目は、もしも、私たちが切り倒された木の切り株のような状態になってしまったとしたら、私たちはどうすることができるでしょうか。もしも、私たちが傷ついて、将来に希望も期待も持てないような状況に置かれたとしたら、私たちにはどのような可能性が残されているのでしょうか。イザヤ11:10にこのようなことばがあります。「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。」衰え果ててしまったエッサイの家系は、その根によって大丈夫だったのです。「エッサイの根」とは、「イエス・キリスト」をさしています。イエス・キリストは神なるお方です。イエス・キリストは国々において旗として立ちます。人々はその旗を見て集まって来るのです。「彼を求め」とは、イエス・キリストに賛同して集まって来ることです。そして、イエス・キリストのおられる所には希望があるのです。イエス・キリストというルーツ、根っこにしっかりとつながっているならば、そこには、まだ可能性が十分すぎるほどあるのです。イエス様という根っこにつながっている限り、あきらめることはありません。その信仰によって、私たちはやり直すことが可能なのです。イエス様にしっかりとつながっているならば、そのうちに弱っている心も強くされます。励まされて、勇気をもらって、立ち上がって、再び目標に向かって歩き出すことができるのです。「七転び八起き」ということわざがあります。どうして、五転び六起きではないのでしょうか。どうして、六転び七起きではないのでしょうか。日本のこのことわざは、非常にユダヤ的であると言えるかもしれません。聖書に出て来る数字には、何かを意味していることがあります。「8」という数字は、新しい始まりを表します。ユダヤ人の慣習の一つとして、男の子が生まれると、8日目に割礼という神様との約束の儀式があります。また、ユダヤの多くの祭りごとは、週の1日目である日曜日に始まることが多いのです。つまり、8日目の日曜日であれば、新しい週の始まりということになります。イエス様がエルサレムに入場したのが日曜日でした。十字架にかかって死んで復活したのも日曜日でした。それは、イエス様がエルサレムに入場してから8日目のことでした。ユダヤ人の慣習においては、「8」は新しい始まりとしてとらえられているのです。人生は転んでは起きる、そんなことの繰り返しです。信仰によって、私たちは何度でも起き上がることができます。私たちが信仰によって神様とつながることは、神様に根を張って生きることです。そのような人は、転んでもまた起き上がります。そして、いつか実を結ぶのです。

■二つ目の大切なことは、イエス様は、人がみな幸せになるためにこの地上に来られたということです。どのようにして人に幸せを与えることができるのでしょうか。イエス様は、人の罪の身代わりとして、十字架に死んで罰を受けてくださいました。イエス様を信じる者は、その信仰によって幸せにされます。また、イエス様を信じる者は、ただ自分の幸せを求めるだけでは満足しません。自分だけでなく、人を幸せにする者へと変えられていくのです。この世の中を見渡すと、他人の幸せには関心のない人だらけではないでしょうか。私たちクリスチャンはそうならないように気をつけたいと思います。自分も幸せになり、そして、自分以外の人の幸せにも関心を持っていきたいと思います。人のためにできることがどんどん多くなって、人のためにできる人もどんどん増えていくといいなと思います。自分も幸せになり、人も幸せにするという良い習慣を、世代から世代へと伝えていきましょう。これは、神様の祝福の一つの形です。

■最後にもう一度、イザヤ11:1を見てみましょう。「その根から若枝が出て実を結ぶ」と書かれています。先ほど言ったように、イザヤ9:6は、成就しました。救い主はお生まれになったのです。預言はそれで終わりではありません。続きがあります。イエス様は、またこの地上に戻って来ることを約束されました。イエス様がこの地上に戻って来られる時、それは、イザヤ9:7が成就する時であり、実を結ぶ時なのです。そのことも覚えておきましょう。それではお祈りします。