地の上に平和が

2015年12月13日主日礼拝<地の上に平和が>ルカ2:13-14佐々木俊一牧師

■今年はクリスマスにテーマが与えられました。それは、「平和」です。ですから、今日は、「平和」について考えてみたいと思います。

  まず、今日の聖書箇所の背景を少し説明したいと思います。イスラエルにはベツレヘムという町が、昔からずっと今も同じ場所に存在します。エルサレムから南へおよそ10キロほど行くとベツレヘムがあります。地中海性気候で、夏は乾燥して暑いのですが、冬の時期は海抜800メートルの高地ということもあって、最低気温が1度くらいになることもあるそうです。人口は約30000人です。スライドを何枚か用意しているので、見てみましょう。・・・ベツレヘムには教会がたくさんあります。アラブ人のキリスト教徒が多く、もともとはイスラム教徒よりも多かったそうです。しかし、現在はおよそ40%~50%がクリスチャンだそうです。イスラエルのクリスチャンの多くが、ナザレ、エルサレム、ベツレヘム周辺に居住しているそうです。ベツレヘムはパレスチナ自治区になっているので、町からの行き来が自由にできません。見ると、町の周囲は高い壁で囲まれています。

  ベツレヘムというと、旧約聖書では、ルツ記を思い起こします。ナオミとルツとボアズが出て来ます。ルツはモアブ人でしたが、ユダヤ人のボアズと再婚します。彼らのひ孫はダビデです。ボアズとルツは、ダビデにとって曽祖父と曾祖母なのです。ダビデはベツレヘムで生まれ育ちました。ですから、ベツレヘムは今でも、「ダビデの町」と言われています。ルカ2章でもベツレヘムは「ダビデの町」と記述されています。ダビデの時代から1000年の時が流れて、マリヤとヨセフが登場します。ヨセフについてはマリヤほど聖書には書かれていないのですが、彼はダビデの子孫でした。そのため、ルカ2章の初めにあるように、当時の人口調査のために身重のマリヤを連れてベツレヘムに戻らなければなりませんでした。こうして、救い主イエス・キリストは、ダビデの町、ベツレヘムでお生まれになったのです。

  このニュースを一番初めに聞いたのは羊飼いたちでした。彼らは夜中もずっと羊を守るために外で見張っていなければなりませんでした。このような嫌な仕事をするのは、いつの時代も、社会の底辺にいる貧しい人々でした。しかし、彼らこそが、人類にとって最も重要なニュースを聞くにふさわしい人間として、神様が選んだ人々だったのです。彼らは、信じがたい光景を目の当たりにしました。ひとりのみ使いによって、彼らは救い主イエス・キリストの誕生を知らされました。そして、もっと多くのみ使いたちが現れて、神への賛美を歌い始めたのです。それがどれくらいの時間続いたのか、どんなメロディーで歌われたのかは、わかりません。けれども、そのことばは聖書に記されています。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」羊飼いたちはその歌を聞いたのです。「栄光が神にあるように。地の上に平和が御心にかなう人々にあるように。」とみ使いたちは歌いました。天と地のすべてを造られたお方、全能なる神おひとりだけが栄光を受けるにふさわしいお方です。ですから、私たちも、いと高き所におられる神に栄光があるように、と心から喜んで賛美することができます。これについては、私たちは、何一つ文句はないと思います。喜んで「アーメン」と言えるのではないでしょうか。しかしながら、次に、み使いたちが歌ったことばは、「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」でした。これはどう言うことでしょうか。どうして、「地の上に、平和が、すべての人々にあるように。」ではないのでしょうか。どうして、「御心にかなう人々」という条件が付いているのでしょうか。「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」よりも、「地の上に、平和が、すべての人々にあるように」の方がずっと素晴らしいことだと思いませんか。なぜ、み使いたちは、「地の上に、平和が、すべての人々にあるように」ではなくて、「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」と歌ったのでしょうか。御心にかなうとは、神様が好意を持ち、神様が認める人々と言うことになると思います。

■そこで、まず、「平和」と言うことばの意味することが何かを見てみたいと思います。以前もお話したことがありますが、ヘブル語で「シャローム」、ギリシャ語で「エイレーネ」、どちらも同じ意味を持っています。「平和」のほかに、「平安」、「繁栄」、「健康」、「和解」などの意味があります。私たちは、「平和」と聞くと、戦いや争いがない状態を連想するのですが、「平和」にはもっと広い意味があります。

  ①「和解」~平和ということばを、和解(仲直り)という視点から見てみたいと思います。ローマ5:1に、「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって神との平和を持っています。」とあります。イエス・キリストを救い主として受け入れた者は、神様との間に平和な関係が成立しました。と言うことは、イエス・キリストを信じる前は、神様との間に平和な関係がなかったということです。つまり、敵であったということです。どうして、神は人を敵と見なしていたのでしょうか。それは、人が神を神として認めなかったからです。また、人は神の本来の目的から外れて、自分勝手な生き方をするようになっていたからです。神の目から見て許すことのできないことを、罪の意識もなく、平気でやっていたのです。しかし、救い主なるイエス・キリストが、神と人との間に入って敵対関係を終わらせてくだいました。そして、和解(仲直り)の道を設けてくださいました。その和解のことが、ローマ5: 10~11に書かれています。「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」自分の罪を認めて、救い主イエス・キリストがその罪のために死んでくださったことを信じることが、和解のために必要なプロセスです。神との和解こそが、まず第一に、救い主イエス・キリストが私たちにもたらしてくださった「平和」なのです。み使いが、「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」と言った意味が、ここにあるのだと思います。

  ②「平安」~「平和」と言うことばには、「平安」という意味もあります。私たちは、いつも安心していたいと願っているのではないでしょうか。しかしながら、世の多くの人々は日々、不安な思いと闘いながら生きています。経済上の不安、健康上の不安、仕事上の不安、人間関係の不安、将来に対する不安、家族のことについての不安など、尽きることがありません。心配事がやっとなくなったと思ったら、次の心配事がやってきます。怒りや恐れなどの否定的な思いもまた、私たちを不安な思いに陥れます。どう考えても、今の時代は平安でいることがとても難しい時代なのです。しかし、聖書にはとても力強いことばがあります。ピリピ3:6~7、誰もが知っている箇所です。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」私たちはたったひとりで不安と闘っているのではありません。神様が共にいて、私たちのことを守ってくれているのです。その守りは、単に、心と思いの守りだけにとどまるのではありません。実際的にも、神様は最善をもって私たちを助け出してくださいます。問題なのは、私たちが助け出される前に、私たちの心や思いがやられてしまうことです。それによって、状況がもっと困難なものになってしまうことです。キリストによって結び合わされた神様との関係は、非常に強いものです。それゆえに、神様は私たちのことを決して見捨てるようなことがないことを、しっかり心に留めておきたいと思います。

  ③「繁栄」と「健康」~「平和」には、「繁栄」と「健康」の意味があります。私たちが一番祝福されていると感じることができるのは、「繁栄」と「健康」ではないでしょうか。仕事がうまくいってお金がたまり、家族みんなが健康でうまくやっているならば、自分は祝福されていると強く感じるでしょう。それは、本当に感謝なことです。けれども、「繁栄」と「健康」を、自分だけ、あるいは、自分たちだけのために求めているとしたら、それは、健全な心とは言えません。マタイ5:9に、「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」とあります。平和をつくる者は幸いなのです。なぜならば、その人は神に祝福されるからです。幸いとは、祝福されるということです。他の人と繁栄と健康を分かち合う人は、神の祝福を受けるのです。平和をつくりたいのならば、自分のことだけを考えていてはつくることはできません。他の人のことも顧みることが大切です。自分だけではなく、他の人にも繁栄と健康が与えられなければ、平和な社会は築けません。私たちは繁栄と健康を分かち合うことが必要です。そして、その人は神の子どもと呼ばれます。神の子どもとはだれのことででしょうか。私たちクリスチャンのことです。クリスチャンが他の人々のことを思いやるのは当たり前のことです。他の人のことも考えて、他の人に分け与えることは、クリスチャンのアイデンティティーです。私たちはそのアイデンティティーをもって生きたいと思います。

■初めに、現在のベツレヘムの現状について少しお話しました。イスラエル人の中にもパレスチナ人の中にも、和解と平和を願っている人々がたくさんいます。しかし、武力を持って相手を倒すまで戦おうとしている人々もいます。彼らは武力によって平和を手に入れようとしているのです。しかし、イエス様は何と言われましたか。武力を用いる者はみな武力によって滅びるのだと言われました。武力は何の解決にもなりません。歴史上、戦争のなかった時代はほとんどありません。人間が平和な社会をつくることほど難しいことはありません。もしも、人間が平和な社会をつくれるとしたら、それは、人間の心が変わった時です。平和は外側から形だけをつくりだすことはできません。できたとしても、それは長続きしません。平和は私たちの内側から生まれて来るものです。

  イエス様は人類に平和を教えるために人となってこの地上にお生まれになりました。イエス様はその平和が有効なものになるために十字架にかかって死んでくださいました。そして、よみがえられたのです。一度天に戻られたイエス様は再びこの地上に帰って来ます。その時は御心にかなう者たちを平和に導き入れるために来られるのです。絶対に壊れない平和はこの地上にはありません。今もないし、将来もないでしょう。確固とした平和は神の御国にあります。イザヤ9:7にこのように書かれています。「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座について、その王国を治め、裁きと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。」私たちは、イエス様が治める神の御国を待ち望んでいます。だからと言って、この地上においていい加減に生きてよいわけがありません。平和のために頑張っても、どうせ平和にはならないのだから頑張るのをやめようなんて思わないでください。Ⅱコリント5:20にあるように、私たちは、神によって遣わされた平和の使者なのです。ですから、私たちはこの地上において、平和をつくる者でありたいと思います。それでは、お祈りします。