来なさい、そうすればわかります

2015年11月22日主日礼拝<来なさい、そうすればわかります>ヨハネ1:35-41佐々木俊一牧師

■昨年、10日間のトルコ旅行をしました。テレビで、カッパドキヤの大地に広がる奇岩の風景や、パムッカレの真っ白な段々畑のような石灰棚の幻想的な風景を見て、大変魅せられました。一度この目で見てみたいと思いました。行って見て、初めて、その雄大な自然の風景がわかりました。感動しました。洞窟ホテルにも泊まることができました。トルコには数多くの世界遺産があります。カッパドキヤやパムッカレの他にも、実に興味深い自然や遺跡を見ることができます。新約聖書を読めばおわかりの通り、ローマ帝国時代においてはたくさんのクリスチャンと教会が存在していたところです。ですから、キリスト教の遺跡も至る所にあります。現在、クリスチャンは1%程度、99%はイスラム教徒、このように、トルコはイスラム教国です。ただ、他のイスラム圏の国々とは違って、あまり戒律に厳しくない世俗的なイスラム教徒の多い国です。

   私にとっては非常に興味深く有意義な旅でした。しかし、旅には始まりがあるように終わりもあります。終わってしまうと、まるで夢でも見ていたかのように思えてしまうことがあります。聖書では、人生は一つの旅であると言っています。信仰者にとって、この地上は一時的に滞在するところであり、天の故郷に帰るまでは、私たちは旅人であると言っています。今日は、信仰の旅の始まりと終わりについて語ってみたいと思います。           

■35節 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子と共に立っていました。その時、イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」とヨハネは言いました。「その翌日」とありますが、前日には何があったのでしょうか。29節を見てみましょう。この時、ヨハネは、自分の方に向かってイエスが歩いて来るのを見ました。ヨハネは、イエスが待ちに待った救い主であることを直感して、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」と叫びました。31節で、ヨハネは、イエスを知らなかったと告白しています。しかしながら、バプテスマのヨハネの母エリサべツとイエスの母マリヤは親戚関係にあり、母親同士親密な交流がありました。そうであるなら、バプテスマのヨハネとイエスは、すでにお互いに知っていた可能性があります。下の注釈を見ると、「メシヤとしては」と補足されています。ですから、親戚の子のイエスがメシヤだとは知らなかったと言うことにもなると思います。確かに、ヨハネはこの時まで、イエスが救い主であることなどまったく思いもよらなかったことでしょう。

  ヨハネは、イエスが救い主であると証言しています。では、何がヨハネを、イエスが救い主であるという確信に至らせたのでしょうか。ヨハネには、事前に神様から示されていたことがありました。それは、聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのが見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方、つまり、救い主、神の小羊であると言う示しです。それは、誰が救い主であるのかを見極めるために、神がヨハネに与えたしるしでした。似たようなことが、イエスが生まれる時にもありました。クリスマスの出来事の一つとして、羊飼いたちが御使いからある知らせを聞かされる場面があります。そのお知らせとは、布にくるまって飼い葉桶に寝ている赤ちゃんが救い主であるということです。それが羊飼いたちに与えられた、誰が救い主であるのかを見極めるためのしるしでした。ヨハネがイエスに水でバプテスマを授けた時には、聖霊が鳩のように天から下ってこの方の上にとどまられるのを見たのです。示されていたことを目の当たりにしたヨハネは、イエスが救い主、神の子であることを確信しました。そんなことが前日に起こっていたのです。

  バプテスマのヨハネは、ふたりの弟子と共に立っていました。その時、イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」とヨハネは言いました。ここに出てくる二人の弟子とは、ペテロの兄弟アンデレ、そして、もう一人はこの福音書を書いたヨハネだろうと言われています。アンデレもヨハネも、この後イエスの弟子になりますが、元はと言えば、バプテスマのヨハネの弟子だったのです。

  二人がイエスの後について行くと、イエスは振り向いて、「あなたがたは何を求めているのですか。」と尋ねました。二人は、「今どこにお泊りですか。」と逆に尋ねました。そうしたらイエスは、「来なさい。そうすればわかります。」と答えました。面白いやりとりだと思いませんか。イエス様は泊まっている場所を直接言えばいいのに言いませんでした。それに、二人は本当のところ、「あなたは本当に神の小羊、キリスト救い主なのですか。」と聞きたかったに違いありません。イエスは全知全能の神なので、彼らが本当に聞きたいことが何だったのかは知っていたはずです。イエスについて行った二人は、イエスがどこに泊まっているのかを知りました。彼らはその日イエスと共に過ごしました。41節では、アンデレは兄弟シモン・ペテロのところに行って、「メシヤに会った。」と言っています。イエスのことば、「来なさい。そうすればわかります。」に従った結果、イエスが救い主であることがアンデレにはわかったのです。彼は、その後、兄シモン・ペテロをイエスのところに連れて行きました。イエスのことばに従うならば、私たちにはわかることがあるようです。

■皆さんは、イエス様に興味があるでしょうか。もちろん、答えは「イエス」だと思います。私たちは、イエス様のことをもっと知りたいと思っています。イエス様の何を知りたいと思っているでしょうか。私はいろいろな問題に対して、イエス様なら何と答えるのか、とても興味があります。ですから、もしも、イエス様に、「あなたは何を求めているのですか。」と聞かれたら、「質問したいことがたくさんあります。」と答えるでしょう。皆さんは、イエス様に、「あなたは何を求めているのですか。」と聞かれたら何と答えますか。

  二人の弟子の場合、イエスに、「あなたがたは何を求めているのですか。」と聞かれると、「ラビ(先生)、今どこにお泊りですか。」と聞きました。でも、二人にとって重要なことは、イエスがどこに泊まっているかではなくて、バプテスマのヨハネが言ったとおりに、本当にイエスが救い主なのかどうかと言うことです。イエスは、「はい、そうです。バプテスマのヨハネが言ったとおりです。まさしく、わたしが神の御子、救い主です。」とは言いませんでした。イエスの答えは、「来なさい。そうすればわかります。」でした。

  「来なさい。そうすればわかります。」これは、イエス様のやり方です。私たちは、人から聞いた話だけではわからないことがあります。けれども、実際に行ってみたり、やってみたりするとわかることがあるのです。ですから、イエス様のことは、イエス様について行くとわかります。「来なさい。そうすればわかります。」弟子たちがこのことばに従ったとき、彼らの信仰の旅は始まったのです。

■私は学生の時に初めて教会に行きました。英会話を習うことが目的でした。しかし、すぐに聖書研究会にも出席するようになりました。教会に来て3ヶ月後にはバプテスマを受けていました。私は、救いのすべてがわかったので、イエス様を救い主として受け入れたのではありません。牧師が私に言いました。「わからないことがあるのは当然。バプテスマを受けるのは、小学校に入学するようなものだよ。」と。それで私は、あまり慎重になりすぎることなく、イエス様が私の罪のために十字架にかかって罰を受けてくださり、しかし、3日目によみがえられ、そのことを信じるならば、永遠の命をいただけるのだということを受け入れました。私がバプテスマを決心したときは、「もしかしたら、本当にイエス・キリストが人生の答えであり、救い主なるお方なのかもしれない、信じてやってみよう」程度で始まったような信仰でした。でも、これが、「来なさい。そうすればわかります。」と言われたイエス様のことばへの私の応答だったのだと思います。私の信仰の旅はこの時始まりました。

■私の信仰の旅をふり返ってみたいと思います。私の信仰の旅の途中で、いくつもの聖書のことばによって、教えられ、戒められ、矯正され、義の訓練を受けて来ました。現在も続いています。それは、死ぬまで終わることがありません。その中から、今日は二つの聖書のことばを分かち合いたいと思います。

① 詩篇32:8、9 「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目をとめて、助言を与えよう。あなたがたは、悟りのない馬やらばのようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押さえなければ、あなたに近づかない。」

  主は私たちに、悟りを与え、行くべき道を教え、助言を与えてくださるお方です。しかし、悟りのない馬やらばであっては、これらのものを受け取ることは難しいのです。かつて、私は、悟りのない馬やらばのようでした。ですから、時々、痛い目に会わなければ神様に目を向けることも、近づくこともありませんでした。痛い目にあって初めて、神様に目を向け、神様に近づき、神様に助けを求めました。そのようなことの繰り返しを経て、私は神様がどのようなお方なのかを自分なりに少しずつ理解してきたつもりです。そうして行くうちに、本気で神様に助言を求めるようになりました。

② ヤコブ4:7~8 「神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくれます。」

  神に従うことも、神に近づくことも、ただ単に道徳的な基準をクリアすることでも、罪を犯さないようにすることでもありません。神様と交わり、礼拝をささげ、祈り、御言葉に親しみ、神様を大切に思い、イエス・キリストの十字架を覚えつつ、神様との平和な関係を保ち続ける姿勢です。その中で、私たちの身も心も守られます。もしも、私たちの心がそこからズレていると感じるのなら、私たちの立ち位置を平安を取り戻せるところまでリセットする必要があります。主に目を向け、主に近づくことが必要です。そうするならば、主との関わりが深まっていきます。神のことばに心を留めて従うとき、私たちは何かを発見し、何かがわかるのだと思います。

■ヨハネ2章に、イエス様が最初のしるしとして行われた奇跡のことが書かれています。それは、カナというところで行われた結婚式の場での出来事です。きよめのしきたりによって置かれていた水がめの中の水がぶどう酒に変わったお話です。このとき、イエスの母マリヤは手伝いの人たちに、「イエスが言われることを何でもしてあげてください。」と言いました。手伝いの人たちはイエスの言うことに従いました。その結果起こった出来事が、この奇跡でした。イエス様が言われることに従って行うとき、私たちの思いに、私たちの目に、神様のみわざが現されるようです。

  「~しなさい。そうすれば・・・になります。」ということばが、聖書にはほかにもたくさんあります。また、日々の生活の中に、私たちのために神様の導きがあります。あるときは聖書のことばをとおして、あるときは人のことばをとおして、あるときは出来事をとおして、あるときは私たちの思いの中に示されたりすることがあります。そのときは、その導きに従ってみてはどうでしょうか。もちろん、そうしたからと言って、常にすべてがうまく行くとは限りません。失敗もあるでしょう。しかし、何もやらないよりは失敗して学ぶ方がよいのではないかと私は思います。信仰の旅は失敗のない旅ではありません。かえって、失敗から学ぶ旅です。失敗してもそれでくじける必要はありません。何よりも私たちの信仰の旅の目的地は天の故郷なのですから、失敗したとしてもそんな失敗は天の故郷に比べたらどうっていうことはありません。信仰の旅においては大胆に進んで行くのが良いのではないでしょうか。

  「来なさい。そうすればわかります。」イエスのことばに応答しましょう。私たちの信仰の旅は今どうなっているでしょうか。それぞれに、ちょっと立ち止まって、自分の信仰の旅を振り返ってみてはどうでしょうか。それではお祈りします。