道を造られる主

2015年10月11日主日礼拝「道を造られる主」イザヤ43:16~21佐々木俊一

 「海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した主はこう仰せられる。彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消える。先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」

■スポーツを見て思うのは、技術・体力はもちろん重要ですが、それだけでは勝てないということです。メンタルが鍛えられているかどうかです。ラグビーのW杯が行なわれています。今までラグビーが面白いと思ったことはないのですが、今回初めて、ラグビーが面白いと思いました。スコットランド戦は大差で負けましたが、南アフリカ戦とサモア戦は勝利しました。メンタルは勝利のために大きな鍵です。野球、サッカー、フィギュアスケート、テニス、バレーボール、どれを見ても、選手の心の状態が動揺し不安定になると、本来のプレーができなくなってしまいます。そういうわけで、メンタルの訓練は非常に大切です。

■16節~17節 このところは、モーセによって率いられたイスラエルの民が、紅海を渡ろうとしているときのことです。エジプトから逃げてきたイスラエルの民は、紅海に阻まれて前に進めない状態にありました。イスラエルの民を追って、エジプトの軍隊が近くまで迫っていました。危機迫る状況の中で、神様は海の激しく流れる水の中に道を造り、すべてのイスラエル人がそこを通り抜けられるように導いてくださいました。追ってきたエジプトの軍隊は水の中に飲み込まれてしまいました。イスラエルの民は神が造られた道を通って救われたのです。

■18節 その後、イスラエルの民は、一ヵ月もあれば余裕で約束の地カナンに着けるはずでした。それなのに、彼らの不信仰の結果、到着するまでに40年を要しました。その間、彼らは荒野をさまよい、モーセに始終不平不満を訴えました。「こんなことになるくらいなら、まだ奴隷の方がよかった。エジプトに留まっていた方がまだましだった。」とつぶやくのでした。

  ところで、私たちはどうでしょうか。「こんなことになるなら、クリスチャンにならない方がよかった。前の方がずっとよかったし、楽しかった。」こんなことを思ったことはありませんか。正直に言いますと、私はありました。私は学生の時に教会に行き始めました。イエス様を信じてバプテスマを受けました。初めのうちは、私にとって教会生活はとても楽しいものでした。しかし、そのうちにいろいろなことがあって、思い悩むことがありました。そうなると、「もう、行くのをやめようかなあ。」と思ってしまうことがあったのです。今思えば、やめないで本当によかったと思います。その時は、まだ、人と人との関係だけにとらわれてしまう自分がいました。イエス・キリストの救いの価値をきちんととらえきれていませんでしたし、父なる神様としっかりつながっていなかったように思います。そんな中、自分の心にある問題から逃げないで、聖書を読んだり、お祈りをしたりすると、神様からの手応えを感じ始めました。そのような体験を通して、少しではありますが、物事を信仰的にとらえて対応できるようになったと思います。

  「昔はよかった。もしも、あの時、あっちを選んでいれば、こんなことにはならなかったのに。」と後悔することがあるかもしれません。けれども、神様は言います。「過去のことを思い出すな!過去のことを考えるな!」なぜならば・・・・。19節にその答えが書かれています。

■19節 「見よ。わたしは新しいことをする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。」 

  だれが新しいことをするのでしょうか。それは、神様です。神様が新しいことをする、と言っています。そして、その新しいことが今にも起ころうとしているのです。「あなたがたはそのことがわからないのか?気づかないのか?」と問われています。「新しい事」とはどのようなことでしょうか。それは、荒野に道を造ることです。また、それは、荒地に川を造ることです。荒野や荒地と言えば、道も川もありそうなところではありません。もしも、そこに道や川を造ろうと思うなら、それは簡単なことではありません。多くの困難を覚悟しなければなりません。それだけ、荒野や荒地に道や川を造るのは難しいのです。不可能と思われるところに、道や川を造るとはどういうことでしょうか。

■イスラエルの国土のほとんどは砂漠のような乾燥地帯です。雨季はありますが、年間の降水量は多くありません。また、ヨルダン川流域の土地は泥炭地のような湿地帯でした。畑として使えない不毛の土地であり、マラリヤを媒介する蚊もたくさんいました。しかし、そのような不毛の土地が、今は道が造られ、灌漑が施され、いろいろな種類の果物や野菜が生産されています。現在、食物の自給率は93パーセントだそうです。輸出もしています。ある意味、イザヤ書のこのことばは、大変身を遂げた現在のイスラエルの国土であると言えます。

  しかしながら、ここで神様が言おうとしていることは、このような物理的なことではなくて、精神的なこと、あるいは、霊的なことについてであると思います。人々の心は罪によって、荒れ果てた土地のようになってしまいました。人々は、ますます、神様から離れ、自分中心の刹那的な生き方へとのめりこんで行っています。それとともに、社会全体は乱れ、犯罪も増加し、人々の苦しみは増し加わっています。大抵の人々は、死という結末をできる限り考えないように生きています。でも、実際はその現実に失望し怯えているのです。そんな人々のために、神様は救いの道を造り、新しい命への道を与えてくださいました。その道は、時代を超えて、長い時間をかけて造られました。その道を造る計画については、すでにアダムの時代から語られていました。そして、そのことが具体的に動き始めたのは、アブラハムの時からです。創世記12章の初めにある約束です。神様がアブラハムに語った約束から、新しい事は始まりました。荒野には道を、荒地には川を設ける計画は進んでいったのです。

  神様はアブラハムに約束しました。「あなたの故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行くならば、あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。・・・地上のすべての民族はあなたによって祝福される。」と。この時、アブラハムは75歳、妻のサラは65歳でした。二人にはまだ子供がありませんでした。ですから、きっと、彼らは、どのようにして子供が与えられるのだろうかと思ったに違いありません。アブラハムとサラは、このことについてまったく疑いがなかったわけではないと思われます。彼らがこのことを知らされた時、おかしくて笑ったと言うことが書かれていますから、自分たちから子供が生まれるなんていうことについては、まさかという気持ちがあったのでしょう。しかし、彼らはそのような気持ちに負けることなく、信仰を持って神様のことばを受け取ることを選びました。そして、ついに、アブラハムが100歳、サラが90歳の時、イサクが生まれました。こうして、神の約束のほんの初めの部分が成就するのを彼らは見たのです。

  へブル11:10によると、アブラハムは堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたようです。つまり、それは、自分の子孫が増え広がって一つの国として成り立っていることを真面目に信じていたことの証なのです。しかし、へブル11:13にあるように、アブラハムが生きている間に約束のものを手に入れることはなかったとありますから、アブラハムが生きている間にアブラハムの子孫が一つの国として成り立つことはありませんでした。それにしても、アブラハムは、不可能と思われるところから、神様の約束が動き始めるのを見ることができました。ですから、アブラハムは、見てはいないけれども、将来、必ず神の約束が完全な形で成就することを信じて、喜ぶことができたのだと思います。神がアブラハムに造った道はそこまででした。その道にはまだ続きがありましたが、神の計画の長い道において、この部分だけをアブラハムは担ったのです。            

  救い主イエス・キリストがお生まれになったのは、アブラハムから数えて2000年後のことです。救い主の誕生が待ち望まれている間、救いの道を備えるために神様は他にも数多くの人々を用いられました。その一人一人がが、それぞれの役割を担っていたのです。

■20節~21節 「新しい事」とは、アブラハムの家系に生まれてきた、神の御子、救い主なるイエス・キリスト、そのお方による救いの道の完成です。イエス・キリストの救いを通して、神が選び分ける神の民がいます。その人々に与えられる水は、けっして渇くことのない、永遠のいのちを与える水です(ヨハネ4:14)。また、ヨハネ7:38~39には、このようにも書かれています。「わたしを信じる者は、聖書が言っている通りに、その人の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊(聖霊)のことを言われたのである。」と。そして、その人々は神によって新しく造られた人々であり、彼らを通して神様のことは宣べ伝えられるのです。

■中国の政治家、毛沢東は、共産思想を普及するために中国の至る所に道を作ったそうです。けれども、その道を利用して広がり続けたのは、共産主義思想ではなくて、イエス・キリストの福音だったという話を聞いたことがあります。人は自分で自分の道を造っているつもりでも、すべてを支配しておられるのは神様であり、すべては神様のみ手の中で動いていることなのです。

  今、もしかすると、あなたにとって不利なことや嫌なことが起こっているかもしれません。でも、それは、主があなたに新しい事をするために、一時的に荒野を通らせているのかもしれません。それはいつまでも続くことではありません。そこを通り抜ける時、きっと、神様は新しい事をあなたになしておられるに違いありません。また、主は、不可能と思われるところに道を造り、不可能と思われるところに川を造るお方です。もしかすると、主のみわざをあなたに見せるために、一時的にあなたは困難な道に置かれているのかもしれません。

  初めに、スポーツ選手にとってメンタルが非常に重要だと言いました。勝利するためには、メンタルの訓練が大切だと言いました。クリスチャンにとっては信仰が重要だと思います。神様のことを宣べ伝えるためには、信仰の訓練が必要です。神様が造る道には、信仰の訓練を受ける機会があります。その中で、私たちは、神様がどのようなお方であるかを知り、そして、神様は信頼するに値するお方であることを学ぶのです。神様の救いを宣べ伝える者として、神様の造る道の途上で、さらに整えられて行きたいと思います。それではお祈りします。