私は新しくされた!だから・・・

2015年9月13日主日礼拝「私は新しくされた!だから・・・」コロサイ3:7~12 佐々木俊一 

■私が20代か30代の頃でしょうか。アメリカ人と日本人についてこんな話を聞いたことがあります。アメリカ人はセルフイメージが高い、それに比べて、日本人はセルフイメージが低い。みなさん、どう思いますか。私自身はその話を聞いて納得しました。アメリカ人はセルフイメージが高いので、自分を上手にアピールすることができる。それに比べて、日本人はセルフイメージが低いので、自分を上手にアピールすることができない、どうしても実際よりも控えめになってしまう。確かに、私くらいの世代以前の日本人は、セルフイメージが低いように思われます。セルフイメージの高い、低いは、たぶん、子ども時代に受けた親の態度や言葉の影響が大きいのではないかと私は思っています。しかしながら、最近の若い日本人を見ると、日本人も変わったなあ、と思わされます。子育てに関しては、アメリカ的な価値観に立った育児法が、良いものも悪いものも日本に導入されて、定着してきているように思えます。自己アピールもうまくなってきていますし、昔ほどにセルフイメージが低いということもありません。

■学生の時、初めて、アメリカ人宣教師に会いました。大学の英会話の先生でした。とても明るく、いつもにこにこしていて、気さくで話しやすい人でした。その時、彼は50歳くらいだったと思います。同年代の日本人にはあまり見ないタイプでした。その人の名前は、ウェスリー・カルバリと言いました。フリーウィルバプテストの宣教師で、20代と30代は道東の開拓伝道に従事し、いくつかの教会を作りました。その後、札幌に来て教会形成に従事したようです。写真があるので見てみましょう。出身は、アメリカのテキサスにある、ウェイコという小さな町です。いわゆるバイブルベルト上の信仰熱心な地域で生まれ育ちました。

  カルバリ先生は、学生の間では人気者でした。愛称は、オヤジです。みんなからオヤジと呼ばれていました。歌とオートハープがとても上手でした。料理も上手でした。私はカルバリ先生から、パンチの作り方を教えてもらいました。腹話術もうまかったです。名前はカリちゃんと言いました。カリちゃんと一緒に子供たちに福音を伝えていました。若者たちへの重荷があって、毎年のように多くの教え子を教会のハンバーガーパティーに招待していました。伝道方法については先見の明があったと思います。日本でも早い時期から音楽と食べ物を取り入れていました。

■私はカルバリ先生から多くのことを学ばせてもらいました。主にあって喜ぶこと。主にあって明るく生きること。主にあって人と楽しく過ごすこと。主にあって人を喜ばすこと。人生に対して肯定的で積極的で楽観的な姿勢。プライベートなことで大変なことがあってもそれは主にゆだねつつ、宣教に対しては常に一生懸命でした。その反面、宣教師としての働きゆえに長い間祖国を離れていたためか、ふと思う家族への思いと寂しさと涙を見せたことがありました。もちろん、人間ですから、弱さもあり、欠点もあり、失敗もあります。私にとっては、大きな影響を受けた人物の一人でした。

  聖書を見てみましょう。今日は、コロサイ人への手紙3章からお話ししたいと思います。パウロが獄中で書いた手紙の一つです。コロサイという町は、現在のトルコ西部、世界遺産のパムッカレの少し南に下ったところにありました。

■7節 「そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました」とはどういうことでしょうか。5節を読むと、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、むさぼり、偶像礼拝などが当たり前のように行なわれていた当時の世の中にあって、それらのことが特に悪いと思うこともなく、コロサイの教会の人々もそれと同じ歩み方をしていたのだということがわかると思います。どんなに文明や科学が進歩していたとしても、人のすることは今も昔も変わりがないように思われます。

■8節 「しかしいまは、あなたがたも、すべてのこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい」とパウロはコロサイの教会のクリスチャンに言っています。それは、何を意味するかというと、クリスチャンになっても、以前と同じようなことをしている人々がいたということです。5節に書かれている行為ほどではなくても、似たようなことが行なわれていたということです。その結果、クリスチャン同士の間に、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべきことばが生じ、問題が起こっていたのだということが考えられます。クリスチャンになってから、人々の状態は以前よりは良くなっていたのかもしれません。けれども、さらにもっと、神様に喜ばれる生き方をコロサイの教会のクリスチャンに対して、パウロはチャレンジしていたのかもしれません。

  このようなことは他人ごとではありません。自分たちの問題でもあるのです。このようなことで、教会から多くの人々が去り、立ち行かなくなってしまった教会がたくさんあるからです。もし教会の中に、怒りや憤り、悪意やそしりが生じてしまったのなら、そして、それが長い間続いたとしたら、その教会は非常に危険な状態に陥っていると言えるでしょう。クリスチャンになる前の古い性質はだれもが持っているものです。私はクリスチャンになって35年になりますが、いまだに古い性質があります。本当にしつこいです。そのような古い性質は、時として人の心を傷つけたり、教会にダメージを与えます。

  私の体験からお話ししたいと思います。私がクリスチャンになって間もない頃というのは、まだまだ、古い性質が活発に働いていた時代です。その頃の私の体験です。自分では気づきませんでした。指摘されて初めてこれではいけないと思わされました。私としては悪いことだという意識がまったくありませんでした。それどころか、かっこいいと思っていました。以前にもお話ししましたが、かつて私はビートルズの大ファンでした。特に、ジョン・レノンが大好きでした。彼の先進的な思想にどっぷりつかっていました。彼らのレコードや本はほとんど持っていました。彼らの皮肉たっぷりの言い方や常識や体制側に対する反骨精神がかっこいいと思っていました。私は彼らから大きな影響を受けました。そのために、私の態度やことばづかいには十分に人の心を傷つける力があったのだと思います。

  ある日、私はカルバリ先生から言われました。「佐々木君をほめてもそれを否定されるし、話しかけてもちょっと話してすぐにそっぽ向かれるし、何か言ったら反対の事を言うし、話しかけるにも何を言われるのか恐いので話しかけられない。自分は嫌がられているような気持ちになってしまうことがある」と。何か腫れ物に触るような感じで私に接していたようなのです。私は逆に、「カルバリ先生は自分のことを好いていないだなあ」と思っていました。また、私の後に新しい学生グループが来始めていましたから、そっちの方のケアーで忙しいのだろうと思っていました。私はカルバリ先生からこのようなことを言われて、初めて自分の態度やことばづかいに問題があることに気づかされました。はっきり言ってくれてよかったと思いました。その時から、自分の態度やことばづかいについて考えるようになりました。そんなこともあって、私は、私の古い人を形作っていたビートルズを私の心から捨てることにしました。集めたレコードや本を手放すことに決めました。捨てるのはもったいないので売ることにしました。10万円くらいで売れました。

■9節 「互いに偽りを言ってはいけません」とパウロは言っています。互いに偽りを言うということがどういうことを指しているのか、具体的なことはわかりません。それにしても、コロサイのクリスチャンはなんて程度の低い信仰生活を送っていたのだろうかと思ってしまいます。しかし、それでも、神様に愛されているクリスチャンなのです。だからこそ、パウロは、はっきりと彼らの罪を指摘しているのです。パウロの指摘は、けっして、彼らを叩き潰すことではありません。彼らを教会から追放するためでもありません。彼らがクリスチャンとして建て上げられるために指摘しているのです。

■10節 「新しくされる」ということには、2重の意味があると思います。一つは、イエス・キリストを救い主として受け入れ、御霊(聖霊)によって新しく生まれるということです。ヨハネの福音書3章(パリサイ人ニコデモのお話)やⅡコリント5:17に書かれていることがそれです。これは何かの働きに対して与えられる報いではなくて、信じることによって与えられる恵みです。その人は、神の子とされ、永遠の命を与えられ、神の御国に導かれています。もう一つは、この地上においても、新しくされることです。もちろん、それは、私たちの内面においてです。それについては、9節と10節に書かれています。日本語の聖書よりも英語の聖書の方が意味を明確ににとらえることができるかもしれません。まずは、古い性質を持っていてもそれを実践しないと言うことです。つまり、それが、古い人をその行ないと一緒に脱ぎ捨てるということです。そして、次にすることは、造り主がどのようなお方かを知るということです。その性質が私たちの新しい人が着るべき新しい性質です。神様はどのようなお方ですか。12節にその一部が書かれています。深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさいとあります。先ほどは古い性質を実践しないことでした。今度は、造り主の性質、新しい性質を実践することです。

  私たちは新しくされました。だから、神様の性質を実践しましょう。同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を態度やことば、行ないを通して実践したいと思います。

  ひとつのみことばを読んで、説明して終わりたいと思います。

■マタイ11:28~30「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいにやすらぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

  「くびき」を見たことがあるでしょうか。画像を見てみましょう。2頭の牛が並んでいます。一頭は仕事に慣れた経験豊かな強い牛です。もう一頭は、仕事に不慣れな経験のない弱い牛です。経験豊かな強い牛がリードし、経験のない弱い牛がそれに従って、真似して学ぶのです。経験豊かな牛は、経験のない牛にとって良い模範なのです。

  イエス様は私たちの良い模範です。イエス様を模範として学び、行なうとき、それと共に、私たちにやすらぎが来ます。安心感が私たちの思いを満たします。こどもにとって、安心感は、健全な心と体を作るために大切な心の状態です。

  また、イエス様のくびきは負いやすいとあります。なぜでしょうか。律法的ではないからです。イエス様ご自身、パリサイ人の律法主義を嫌いました。私たちはいつもありのままを受け入れられています。それは、私たちの安心感につながることです。私たちはイエス様を模範としながら歩んでいますが、時には、失敗したり、神様の悲しむようなことをしてしまうことがあります。しかし、それでも、神様は私たちのありのままを受け入れてくださっています。私たち一人一人は神様の目には高価で尊い存在であることには変わりはありません。なぜならば、神様ご自身が痛みをもって私たちを産んでくださったからです。私たちが何か優れているとか、役に立つからとか、そんな理由や条件で愛されているのではありません。神様ご自身が十字架という痛みをもって産んでくださったからです。

  新しくされた者はありのままで愛されています。だから、イエス様のくびきは負いやすいのです。律法的にではなく、恵みの中で、もっと、新しくされる機会が与えられています。だから、最後まであきらめないで、イエス様を模範として従っていきましょう。それではお祈りします。