福音を恥とは思いません!

2015.7.26主日礼拝「福音を恥とは思いません!」ローマ1:16-17 佐々木俊一

  ローマ帝国時代の最大の都市であったローマは、当時の国際都市であって、ギリシャ人やユダヤ人、その他ローマ帝国の属国からの移住者が数多く住んでいました。人口は100万人以上と思われます。パウロがローマを訪れる以前、すでに教会が存在していました。それらの教会は、無名の多くのクリスチャンによって始められたと思われます。

  パウロがローマ人への手紙を書いたのは、第三回伝道旅行、2回目のコリント滞在の時、AD55年~58年の間と思われます。この手紙の目的は、信仰によって義とされるという神の方法について、明確な教理説明を与えるためだったと思われます。

□1節~4節「福音」とは、神の救いに関する情報です。その中心は、神のみ子なるイエス・キリストです。「預言者」とは、単に未来の予知予告をする予言者とは異なります。預言者とは、予知予告も含みますが、もっと広い意味で神様からのことばを預かる者のことです。「聖書」とは、ここでは旧約聖書のことです。旧約聖書には預言書と言われるものがありますが、預言者とはこれら預言書を書いた者だけを指しているのではありません。創世記20:7によると、アブラハムも預言者と言えます。アブラハムが直接神のことばを語ったわけではありません。しかし、アブラハムに関する事柄の中に、神の救いに関する情報が込められているのです。イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ヨシュア、サムソン、ダビデ、エリヤ、エリシャといった旧約聖書の多くの人物の中に、そのようなことを見ることができます。神の救いが人物に表されているだけではありません。イスラエルの歴史的事実、慣習や祭事などにも救いに関する情報が込められているのです。このようにして、救い主イエス・キリストのことが古い時代から語られ、約束されて来ました。

「イエス・キリストが肉によるならばダビデの子孫」と言われているのは、旧約聖書の中に、アブラハムの子孫、ユダの子孫、ダビデの子孫から救い主がお生まれになると約束されているからです。イエス・キリストの家系を遡ると、これらの人物が出てきます。イエス・キリストの父と母であるヨセフとマリヤは、ともに、ダビデの子孫であり、ユダの子孫であり、アブラハムの子孫です。こうして、古くから語られてきた預言は成就しました。

  「聖い御霊によれば・・・神の御子として示された方」とは、イエス・キリストは、御霊によって乙女マリヤの胎に宿ったことが聖書に書かれています。旧約の預言者イザヤによって予告され、新約においては、み使いによってヨセフとマリヤに語られました。そして、それは成就しました。

□5節~7節 パウロは神の福音のために選び分けられ、使徒としての務めを神とキリストによって与えられたとのだと告白しています。そして、パウロは、ローマのクリスチャンたちを、キリストによって召された人々、聖徒として召された人々、神に愛されている人々であると語りかけます。「聖徒」とは、イエス・キリストの贖いによって世から分離され、聖別された者という意味です。

  神によって使徒として召されたパウロから、神によって聖徒として召されたローマのクリスチャンへ宛て書かれた手紙であることを明記し、そして、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。」と続いて本文に入っていきます。これは、パウロの手紙の初めの部分を占める特徴的なあいさつの形です。

□8節~13節 当時の「全世界」は、現在の全世界とは異なっていたことは言うまでもありません。当然、ローマ帝国を中心とした狭い範囲のことを意味していたことでしょう。ローマのクリスチャンの信仰は、遠く離れたパウロのところにまで伝わってきました。その時、パウロは、ローマへは一度も行ったことがありませんでした。しかし、パウロは、福音のためならどんなに遠くてもローマへ行こうと思いました。なぜなら、それは、神様から受けたヴィジョンであったからです。

  使徒の働き19:21に、パウロのローマへの思いが出ています。第三回目の伝道旅行の後、一旦エルサレムに戻ってからローマへの旅を考えていたようです。しかし、パウロはエルサレムでユダヤ人たちに捕らえられてしまいます。そのため、ローマ訪問の計画は困難に思われました。しかし、使徒の働き23:11にあるように、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかししなければならない。」と神様に語られました。神様のことばと約束は必ず成就するのです。パウロは、ローマ皇帝の判決を要求し、その結果、ローマに行くことになります。こうして、ローマ行きの道が開かれたのです。

□14節~15節 「負債」とは、借金のことです。借金は必ず返す義務があります。パウロは、なぜこのような表現を用いたのでしょうか。パウロは、神によって召された使徒であると告白していますが、それは、まったくの神の憐れみと恵みによるものなのです。なぜなら、過去においてパウロは、クリスチャンを迫害し死に至らしめることさえ行なっていた人間です。どんなに償っても償いきれないことであることを、パウロ自身、自覚していたのでしょう。1節でパウロは、自身のことをキリスト・イエスのしもべ、つまり、奴隷であると言っているほどです。神により救われたパウロは、感謝と喜びをもって神のみこころを行ない、情熱をもって神に仕えていたのです。自分の体験をとおして、キリストの救いのすばらしさをよく理解していたからこそ、パウロは、すべての人にその福音を伝えたいという情熱が与えられたのではないでしょうか。遠く離れたローマの地でイエス・キリストを信じる人々が増えていました。しかし、現在のように本になった聖書があるわけではありませんから、救いについての正しい情報を誰かが行って直接教える必要があったのです。異邦人への使徒として立てられたパウロは、当時のローマのクリスチャンの必要を何とかしたいという気持ちがあったのでしょう。

□16節~17節 「福音を恥とは思いません。」というパウロのことばは非常に強いものです。福音を恥ずかしいと思う誘惑は誰にでもあるのではないでしょうか。Ⅰコリント1章を読むと、福音のどこが恥ずかしいのかがわかります。救い主イエス・キリストの十字架の話は、信じない人々には非常に幼稚で愚かな話に聞こえるのです。それを信じる人々は知恵がなく愚かで弱い人々であると思われるでしょう。しかし、パウロは言います。宣教(十字架)のことばの愚かさを通して、神様は信じる者を救おうと定められたのだと。そして、それが神様の知恵なのだと。福音は、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力なのです。「力」は、ギリシャ語で、「デュナミス」と言います。「デュナミス」は、英語の「ダイナマイト、ダイナモ、ダイナミック」ということばの語源になっています。福音には、ダイナマイトのような大きな力が秘められているのです。福音を信じる者は、神の力を体験し、ダイナミックな生き方を導かれています。それは特に、私たちが福音を宣べ伝えるときに体験することなのかもしれません。  

  神の義は、イエス・キリストを信じる信仰によって与えられます。それは、神様との関係の回復であり、回復した関係の中で、私たちは、神の赦しと愛を体験し、神の導きと力を体験し、神様との信頼関係が築かれて行くのです。