祈りは主との関係を築く

2015年7月12日(日)主日礼拝「祈りは主との関係を築く」マルコ11:24~25 佐々木俊一牧師

■「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」マルコ11:24

みなさんは、このイエス様の言葉を聞いてどう思われるでしょうか。100パーセント心の底からその通りですと言えるでしょうか。祈って求めて、すでに受けたと信じたつもりなのだけれども、結果はその通りにはならなかったというような経験をされたことはないでしょうか。私はそのようなことを何度も経験した記憶があります。20代から30代前半、このみことばにもがいていた自分を思い起こします。しかし、結婚した頃からでしょうか。少しずつ、祈りに対する考え方が変わって来たのを覚えています。これまでの信仰生活を全体的にふりかえると、祈り求めてその通りにならなかった祈りと、その通りになった祈りの割合は2対5くらいで、残りの3は現在祈り続けて結果待ちしているといったところです。みなさんはどうでしょうか。今日は、マルコ11:24~25のみことばを通していくつかのことを考えてみたいと思います。

■マルコ11:24のみことばから、皆さんは何を受け取るでしょうか。やはり、どうしたら祈りが聞かれるのかについてのヒントでしょうか。私たちにとってそれは切実な問題ではあります。けれども、ただ単に、このみことばを祈りが聞かれるための方法論としてとらえてしまうとしたら、私たちはもっと大切なものを受け取らないないままにしてしまうかもしれません。

  このみことばの中には、父なる神様とイエス様の信頼関係を見ることができると思います。特に、イエス様の父なる神様への信頼は絶大なもので、まさに信頼しきっていると言うレベルです。だからこそ、「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」と言えるのだと思います。イエス様が父なる神様をここまで信頼できるのは、父なる神様がどのようなお方なのか、どんなにご自身のことを愛しておられるのかをよく知っているからこそだと思います。

■「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」マルコ11:24のみことばを、次に、12弟子のひとり、ヨハネだったらどう理解し、どう表現するのかを見てみたいと思います。

  「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願うことを神が聞いてくださると知れば、神に願ったそのことは、すでにかなえられたと知るのです。」Ⅰヨハネ5:14~15

  ヨハネのとらえ方は、ある意味イエス様よりも真面目なとらえ方であると言えるかもしれません。というのは、イエス様がマルコ11:24のことばを言われた状況は、こうだからです。イエス様が空腹を覚えられたとき、葉の茂ったいちじくの木を見たところ、いちじくの実は一つもなっていませんでした。イエス様は、そのいちじくの木に向かって、「今後、いつまでも、だれもお前の実を食べることのないように。」と言われました。すると、そのいちじくの木は枯れてしまったのです。その時、いちじくの木に実がなかったのは実がなる季節ではなかったからだ、と付け加えられています。腹が減るとイエス様でさえイライラするのだろうか、と私は思いました。さらに、そのいちじくに向かってもう実がならないことを信じてそのように言ったところ、そのいちじくの木が枯れてしまったという出来事と、「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、その通りになります。」ということを結び付けて、祈りについて教えているのです。面白いと思いませんか。イエス様には、ユーモアがあるようです。

  祈り求めたことをすでに受けたと信じる根拠について、ヨハネは、神のみこころにかなう願いは、神は聞いてくださる、だから、私たちの祈りが神のみこころにかなうものであると知るならば、祈り求めたことはすでに受けたと信じることができるのだ、と言っているのです。

  イエス様は、父なる神様のみこころを100パーセント知ることのできるお方でした。ですから、イエス様が祈る時、父なる神様のみこころから外れることはありませんでした。私たちはどうでしょうか。私たちが100パーセント神様のみこころを知ることは無理かもしれません。もしかすると、神様のみこころだと信じて祈ったとしても、時には、そうでないこともあり得ると思います。そのような場合は、結果を見て、判断するしかありません。

■ソロモンの場合:Ⅱ歴代誌1:7~12を読むと、ソロモンの祈り(願い)について書かれています。神はソロモンに現れて、何を与えてほしいのか、願うように言われました。ソロモンは、自分のために富や財宝や誉れを願うのではなくて、王としての責務を果たすために必要な知恵と知識を神に求めました。ソロモンの祈りは神のみこころにかなっていました。その願いはその通りになり、さらに、それ以上の祝福を受けることになったのです。自分中心の祈りではなく、国や他者中心のために願ったことで、神はソロモンが願わなかった富や財宝や誉れまでも与えました。

■私は、結婚をし、子どもが生まれると、私の祈りは自分のためから、家族のためへと変わっていきました。さらに、牧師になると、もちろん、自分や家族のためにも祈りましたが、教会のために、そして、教会の人々のためにと、祈りは広がっていきました。祈りの変化と共に、祈りの手ごたえも変わっていくのを見ました。自分の必要や将来のための祈りが中心であったときには、何でこんなに祈っても聞かれないのだろうかとよく思ったものですが、他者のための祈りが中心になってくると、祈りは聞かれると感じるようになりました。自分の事ばかりではなく、他者に目を向けてそのために祈ることは、神様のみこころにかなうことなのだと思います。ですから、私たちはもっと他者のために祈りたいと思います。

  最近、25周年記念をお祝いする前に、私たちがオープン・ドア・チャペルに来始めた2008年の手帳を見てみました。その年のおもなニュースをこのようにして新聞から切り取って貼り付けています。2008年には、どういうことが起こっていたのかというと、鳥インフルエンザが東南アジアで猛威をふるっていました。南極や北極の氷が今までになく融けていました。中国四川大地震で2万4千人が犠牲になりました。そして、47歳のオバマさんがその年の11月には初めてのアメリカのアフリカ系大統領として勝利宣言をしました。「チェンジ!」と「イエス、ウィキャン」のキャッチフレーズがはやりました。ニュース記事が貼り付けてある中、こんな私のメモが書かれていました。「主を信頼しよう。主を信頼するしかない。」その下に8つの祈りが書かれてありました。・・・・。感謝なことに、これら一つ一つの祈りを神様はこの7年の間に聞いてくださいました。

■「また立って祈っている時、誰かに対して恨みごとがあったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」マルコ11:25

  私たちが祈る時、それは、私たちが正される時でもあります。イエス様の祈りについてのことばを思わせる箇所が、ヤコブ5:16にあります。「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと力があります。」私たちは、主イエス・キリストの十字架の血潮のゆえに神のみ前に義人として立つことのできる者とされました。そのことを心から感謝したいと思います。しかし、神様の目に正しい者として見なされているのにもかかわらず、もしも、悔い改めていない罪があったり、赦さない思いを持ったままにしているならば、本来なら義人としての祈りの働きを発揮できるところが、できないということが起こりえるのです。この箇所を通してそのことを知ることができると思います。

■祈りは、私たちの願いをかなえる単なる手段ではありません。祈りは、神様と私たちの関係を強め、信頼関係を築き上げていくものです。また、祈りは、私たちを正しいところにに立たせる機会でもあります。祈りの生活の中で、何が神様のみこころなのかを、私たちはだんだんわかるようになっていくでしょう。神様に対して、誠実にお付き合いしていくのならば、必ず、報われる時が来るのだと思います。私たちが誠意を持って本気で向き合うならば、神様も誠意を持って本気で答えてくれると信じます。それでは、お祈りします。