メフィボシェテ

2015.3.22主日礼拝「メフィボシェテ」Ⅱサムエル9:6-13佐々木俊一牧師

■メフィボシェテというのは、人の名前だということがわかりました。イスラエルの初代の王、サウルの孫であり、サウルの長男であるヨナタンの息子です。スクリーンの絵を見てほしいのですが、そこには二人の若い男の人が描かれています。その下に書かれていることばを読んでみましょう。「サウルには、ヨナタンという息子がいました。ヨナタンはダビデがとても好きでした。ヨナタンはダビデに、上着や弓や帯、それに剣まであたえました。二人はとても仲良くなりました。」この二人の若い男の人は2代目の王ダビデと初代の王サウルの息子ヨナタンです。このところに描かれている出来事が、今日のメッセージのタイトルにもなっている「メフィボシェテ」の人生に大きな影響を与えることになるのです。

■先ほど見た絵とメフィボシェテとはどのような関係があるのでしょうか。もしも、あの出来事がなかったのなら、メフィボシェテの命はなかったでしょう。もしも、あの出来事がなかったのなら、メフィボシェテの人生は悲惨なものになっていたでしょう。あの出来事がメフィボシェテの命を救い、彼の人生は祝福されたのです。

   それでは、あの絵の出来事とはいったい何なのでしょうか。先ほどの絵にあった説明をもう一度読んでみます。「サウルには、ヨナタンという息子がいました。ヨナタンはダビデがとても好きでした。ヨナタンはダビデに、上着や弓や帯、それに剣まであたえました。二人はとても仲良くなりました。」

   この出来事はいったい何を表しているのでしょうか。Ⅰサムエル18:3~4を読むとこの出来事が何なのかがわかると思います。「ヨナタンは自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。ヨナタンは、着ていた上着を脱いでそれをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた」とあります。先ほどの絵は何を表していたのかというと、ダビデとヨナタンは契約を結んだのだということを表しているのです。ダビデもヨナタンも非常に優れた戦士でした。彼らはお互いに尊敬し合い、認め合っていました。そして、彼らは契約を結ぶことに決めたのです。この種の契約は、非常に親しい関係にある者同士が結ぶものであると言われています。旧約聖書には、神と人、あるいは、人と人が契約を結ぶという行為がいろいろなところに見られます。ある箇所には、契約を結ぶ際の不思議に思える儀式について書かれています。このところもそのような儀式の一つではないかと思います。ダビデとヨナタンは、当時行なわれていた方法に従って契約を結んだのです。その様子の一部がⅠサムエル18:3~4に書かれていました。自分の上着を与えたり、よろいかぶと、剣、弓、帯を与えるという行為は、契約を結ぶときの儀式の一部なのです。自分の上着を与えるということは、自分のすべてを相手に与えるということを意味します。上着は自分自身を表しているのです。次に、よろいかぶと、剣、弓、帯を与えたと書いてあります。帯はズボンが下がらないようにするためのものです。でも、それだけではありません。他にも役割があったのです。帯には身を守るための武器が装着されていました。剣も弓も、武器のすべてが帯と共にありました。これらのものを与えるということは、私のすべての力をもってあなたを敵から守り、あなたを助け出しますということの意思表示です。そして、その守りと助けは相手の家族にまで及ぶのです。もしも、あなたに何かあった時には、あなたに代わってこの私があなたの家族の面倒を見、守りますという約束も含んでいるのです。ダビデとヨナタンはそのような契約を結びました。

■6節 メフィボシェテの父はヨナタンです。そして、サウルはメフィボシェテの祖父です。サウルは自分よりも強く、人々に人気のあるダビデに対して、ねたみと憎しみを持つようになりました。王位をダビデに奪われることを恐れて、執拗にダビデを迫害し殺そうと計画しました。そんなサウルから逃れるために、ダビデは逃げ回っていました。ところが、ペリシテ人との戦いが激しくなったために、サウルとヨナタンは戦死してしまいます。Ⅱサムエル4:4を見てみましょう。「さて、サウルの子ヨナタンに足の不自由な息子がひとりいた。その子は、サウルとヨナタンの悲報がイズレエルからもたらされたとき5歳であった。うばがこの子を抱いて逃げる時、あまり急いで逃げたので、この子を落とし、そのためにこの子は足なえになった。この子はメフィボシェテといった。」メフィボシェテは逃げる時のアクシデントで足が不自由になってしまいました。その後、混乱から逃れて、彼はひっそりと隠れて生活していました。しかし、彼はダビデに見つけられて、ダビデのもとに連れて来られます。この時、メフィボシェテは、自分はダビデに殺されるにちがいないと思ったことでしょう。なぜなら、祖父のサウルがダビデを執拗に追いかけて殺そうとしていたからです。

■7節~10節 しかし、ダビデの態度はメフィボシェテの予想とは違いました。ダビデはメフィボシェテに言いました。「恐れることはない。」メフィボシェテは殺されると思って、恐れていたのです。でも違いました。ダビデは、サウルは自分を殺そうとしたけれど、ダビデはメフィボシェテを殺すつもりはないというメッセージを伝えました。それは、どのような理由によるのでしょうか。ダビデは言いました。「あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。」「ヨナタンのために」とはどういうことでしょうか。それは、彼らが結んだ契約のゆえにです。ダビデとヨナタンは契約を結びました。あなたに私のすべてを与えます。あなたが困っている時はあなたを助けます。あなたの命が危ない時は、一緒に敵に立ち向かって、あなたを守ります。あなたのことだけでなく、もしも、あなたに何かがあった時には、あなたの代わりにあなたの家族の面倒を見て守ります。そんな契約を結んでいたのです。ですから、ダビデはメフィボシェテに、「あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい」と言ったのです。それは、どのような恵みでしょうか。

①祖父サウルの地所(財産)を全部メフィボシェテに与えられた。

②ダビデ王の宮殿で、他の子どもたちと同じ立場で、一緒に食事をしてもよい、つまり、家族の一員として迎えられた。

■11節~13節 「こうして、メフィボシェテはダビデ王の息子たちの一人のように、王の食卓で食事をすることになった。メフィボシェテはエルサレムに住みいつも王の食卓で食事をした。彼は両足が共になえていた。」メフィボシェテはダビデ王の息子たちの一人のように扱われました。彼の身分は、ダビデの他の子どもたちと同じだったのです。メフィボシェテは、ダビデの養子といってもよいでしょう。ダビデの子どもではないけれども、ダビデとヨナタンの結んだ契約によって、メフィボシェテはダビデの子どもとしての待遇を受けたのです。それは、ダビデとヨナタンが契約を結んでいたからです。13節には、非常に気になるところがあります。「彼は両足がなえていた」と付け足されているように書かれているのには、何か理由があるのでしょうか。どうして、こんなことをわざわざ書くのでしょうか。(5章を参照)律法の厳しい掟の中に書かれてあることですが、身に何らかの病や欠陥のある者は礼拝や集まりに出ることが許されませんでした。また、身に病や欠陥のある動物のささげものはけっして許されることではありませんでした。それらのことは汚れや罪、不完全さの象徴であり、恥ずかしいこととして考えられていたからでしょう。このようなものに対する差別や侮蔑の対応は当たり前だった時代に、足の不自由だったメフィボシェテが王家に迎えられたことは不思議なことであり、当時の常識では考えられないことだったのです。何と言っても、ダビデとヨナタンの間に結ばれた契約の効果であり、足の不自由なメフィボシェテがダビデの子として迎えられたことは、恵みの何ものでもないことを表している出来事と言ってよいのではないでしょうか。

■「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。」(ローマ8:15)、「これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」(ガラテヤ4:5)、「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」(エペソ1:5)これらの箇所には共通して出てくることばがあります。それは、「子とする」、英語では「adoption(養子にする)」ということばが出てきます。そして、ガラテヤ3:26に、「あなたがたはみなイエス・キリストに対する信仰によって、神の子どもです。」とあります。イエス・キリストを信じる者はその信仰によって、「adoption(養子にされる)」、つまりそれは、子どもにされるということなのです。

   ダビデとヨナタンの契約によって、メフィボシェテがダビデの子とされたように、神の側の代表であり、そしてまた、人間の側の代表であるイエス・キリストによって結ばれた契約によって、人はだれでも信仰によって神の子とされるのです。メフィボシェテの意味は、「恥」という意味を含んでいます。メフィボシェテは両足が不自由でした。それは、王様の子どもになることなど絶対に不可能だということを意味しています。けれども、ダビデの恵みの施しがあったので、王様の家に、そのメンバーとして、子どもとして迎え入れられました。同じように、私たち人間も恥ずべき罪によって、絶対に神の子どもになれるはずもないのに、けれども、イエス・キリストの恵みがあるので、私たちは神の子とされるのです。私たちは神の子どもとして、神の家族に招き入れられたのです。私たちはこの地上において祝福を受ける者です。また、神の子どもとして、将来、神の御国に迎え入れられる者です。それはすべて、イエス・キリストの恵みによるのです。